盟約の竜 3
鞍をつけ、手綱を持って竜を操るのはカノの故郷にはない文化だ。
カノは、握る手に力を込めずにはいられなかった。
「乗るだけでそんな状態か。……これまでよく乗れたものだな」
侮蔑ではなく、ただの呆れを滲ませてケレスが言う。カノを黒竜に乗せ、己は横に立ってあれこれと乗り方の指示を出していた。
「あと……一応あの一族のようだからな、俺が言うようにはいかないだろう。鵜呑みにするな」
「ケレスさんは、信じてるんですか? 一族のこと」
「妙な乗り方をしているのを見たことがある、だが乗りこなしていた」
日の光の強さが、それゆえに陰りも濃く作る。竜の影になり、見下ろしたケレスの表情は見えにくい。
「おまえにもそういう感覚があるのなら……それに従って乗ると良い」
竜に乗れるのならばそれ以上のものを問わない態度に、カノは内心ほっとした。一族の感覚など自分には縁遠い。
竜乗りの一族。
竜の血を引く一族だなんてカノ自身は思ったことはなかった。自分の竜さえも乗りこなせないのだから。竜乗りの一族とは竜そのもの、一体化するように心を感じ取り、同調して乗りこなす――などと言われるが、出来た試しがない。故郷で何度聞いても理解しがたかった感覚だ。だからカノは落ちこぼれだった。
ただし、それを体現している姿は何度も見てきた。たぶんケレスが「妙な乗り方」と言った通り、あれはふつうではないのだろう。上も下もなく自由自在に竜を駆る姿は、カノにとっては劣等感を呼び起こすだけだった。
なんにせよ、それは己には遠いのだ。
「……ううん。私はそんなこと出来ない。でも、乗れるならそれで良いです」
ケレスからは見えない表情が、少し柔らかい気がした。ケレスは逆光の少女に言う。
「森と呼んでもかなり小さいから、少し高く飛べば全景が見える」
こんな場所でも、なかなかの景色だ。
そう言ってケレスは竜を撫ぜた。カノはひとつ息を呑んでから、竜と共に宙に浮いた。重い羽音が響いた。
竜乗りの一族。
その言葉にまつわるケレスの記憶は断片的だった。調教師の商売相手としてはまず挙がらないのだから当然だった。何より、戦争が終わって以来彼らはすっかり息を潜めている。乱気流の吹き荒れる土地に里が築かれているらしいが、場所さえ確かではなかった。並みの竜乗りでは気流を乗り越えられず、だから里は外界から隔絶され守られているのだと噂を耳にしたことさえも、記憶の中で既に霞んでいた。
戦争は竜の軍用を進め、軍需を得て調教という商売は発達した。最もそれはケレスが生まれた頃の話で、戦争が終わってから調教の、ひいては竜自体の需要も減るばかりだ。
ケレスは、ずいぶん昔に父が零していたことを思い出す。
――この十数年で、軍用にのみ調教された竜が増えた。おまえの時代には、そのような哀れな竜たちをもう一度、戦うためでなく、共に生きるための調教というものが必要になるだろう――。
当初は幼くてよくわからなかった父の言葉。しかし父を亡くしてさえ、今ではその重みは増すばかり。ケレスは頭上高くに上がった竜の影の中、ふうと重く息を吐いた。陽の下で竜の影にいる感覚が久々で、めまいがするような心地だった。
日が暮れる頃、質素な夕餉を食べながらカノは切り出した。
「ケレスさん。飛んでいるときに、竜のいななきを聞いた気がしたの」
カノが用事もなく自分から話すのははじめてだ。柔らかくなってきているとケレスは思ったが、何が、なのかはわからない。自分の態度か、彼女の態度か。
「この辺りには、他にも竜がいるんですか?」
「一頭だけいる」
ケレスは硬いパンを嚥下してから答えた。
「俺が昔調教した竜だ。売ることは出来ないから、今もいる」
「売れない?」
「傷がついているからな」
カノは返事をよこさない。次の言葉を待つようにケレスを見つめていた。
「おまえたちを助けたのもあいつだぞ。緑の竜だ。練習を続けていればそのうち見れるんじゃないか」
カノの視線が絡み付いて、されどケレスは彼女の無言の問いには応えなかった。皮肉に笑って見せる。
「傷がついた理由が知りたいのか?」
「あ……ご、ごめんなさい。失礼なこと、ですよね」
「言う必要が無いだけだ。どうしても知りたければ、乗りこなしてあいつを探してみろ」
ケレスの口調に暗いところがなくて、カノは胸をなでおろした。明日の練習の目標が増えて、カノはこれまでになく穏やかな高揚を覚えた。
外では暗く夜に沈んだ荒れ地に、竜のいななきがひとつ小さく響いていた。