盟約の竜 エピローグ
ケレスは、馴染みのない柔らかな土の感触を確かめる。大きく体を伸ばすと、わずかに背中に刺激を感じた。痛みともいえぬ軽微なものであった。
黎明までわずか時間がある。かつてと異なりほとんど起伏の無い集落には、代わりに海がすぐ近くにある。それゆえなのかもわからぬが、揺籃の暗さもあの時とは違うものであった。ケレスはほとんど音も無く歩き、波の音が耳に届くところまで歩んだところで、ちょうど夜明けの光が差す。
ケレスの青い海の色の瞳に、暁の色がうつり込んだ。
一言目に医師は、完治だと告げた。二言目に、それをやったのは竜かと問うた。
声色に何か潜めたものを感じたのでケレスはことさら軽く告げる。
「そうだが?」
「危険じゃないのか?」
「そうかな」
「あの緑の竜、皮膚があちこち爛れている。感染症じゃないのか、暴れる可能性は考えなかったのか?」
「どうかな。俺が意識を失っている間にあいつが暴れたことがあったのか?」
そもそも俺に爪を立てたのはノアではない、とは告げなかった。
患部を確かめていた医師の手が離れたのを感じ、衣服を整える。さてと、と心の中でひとりごつ。
「治療費分くらいの仕事はする。竜はどこだ?」
「ケレス。……あの竜の治療をしたことがないというのは、本当なのか?」
医師は、名を呼んだ時だけ少し語気を強めたが、続く言葉は冷静な声色だった。
馴染めぬ寝台に転がって起き上がるのもままならなかった間に、彼が獣医でもあることを小耳にはさんでいたと思い出す。獣医が何を思っているのかまでは察せなかった。当然だ、自分とは立場が違う。と、そうケレスは思う。
だから、きっぱりと言い放った。
「俺は嘘なんてつかない、竜に関してはな」
医師は息を吐く。ケレスにため息をつくのではなく、呼吸を整えたようだった。
「……きみは不思議な調教師だな。きみの竜も。あんな状態の竜は初めて見た」医師の言葉に悪意は感じられなかった。「あの竜はきみを思い、慕っている。その思いが病さえ封じているように私には見えるんだ」
医師には言ってはならないことだったな。そう言って医師はもう一つ、息を吐いた。
「きみはどうやって過ごしてきたんだ、竜と」
治療台から腰を浮かせ、ケレスは鞄を手につかんだ。
「ノアに聞け。治療も、ノアが必要だと言うならやってくれ。そこは任せる、俺は医者じゃないからな」
「ケレス」
場を後にしようと一歩踏み出すと、再び名を呼ぶ声が強まる。愉快ではないが不快でもない。自分を引き止め諭すような呼び声が、父に似ていた。もどかしく、くすぐったかった。
「……なんだよ」だからどこか、拗ねたような、抑えるような。そんな声色になってしまう。
「預かり物だ」医師は何か紙を取り出す。手紙だった。「きみを運んできた女性から」
ケレスに痺れるような感覚が走る。体の向きを戻した。
「渡すか迷ったんだ。黒竜に乗り、白いうろこの混ざった髪飾りをして。正直何者だろう、と思ったからね」
だがすまなかった、と医師は付け足す。ケレスは瞬刻、返答に迷う。
「いいのか。あんたの感覚は、おそらく尤もだ」
そうか、と医師は苦笑し、ケレスに手紙を渡した。
「きみの目が覚めるまで逗留するように勧めた時、彼女が言っていた。時間が無い、それに目覚めるまでいたとて、きみは変わらないとね」
「変わらない?」
「直接話したところで、今の状況が変わらないということじゃないかな。行き先はその紙に示したようだけど、どうせ関心を持たないだろうと」
その言葉はケレスにとってとんだ誤りであった。
知らぬ地で目覚め、カノは姿を消していた。それを知った時、己の心にどんな感情が浮かんだことか。
だがその気持ちに付ける名さえ知らぬケレスには、そのことを表現する術など到底ありはしない。
「きみは悪い男のようだ、ケレス」
医師はカルテの置かれた机に肘を置き、頬杖をついている。薄く笑っていた。
こんな時どう言葉を返すのか。からかわれる気恥ずかしさに身を置くことなど、一体いつ以来のことであったか。扱いを知らぬ感情が、気付けば多量に満ちている。
ケレスが返す言葉を持たないうちに、医師は表情を正していた。
「彼女もきみも、何か抱えているだろう。ケレス、きみを信じるから話してくれないか。きみの知っていることを」
ケレスは、一瞬息を呑んだ。
口先がからかったと思ったら真摯な眼光を向ける。その変化に追いつき、人と向き合い人のために言葉を選ぶ。心を伝える、交わす。それはケレスにとっては、竜に対峙するよりも難しいことだ。
その途方もない困難に、父にどこか似た人物は付き合ってくれるだろうか?
そして、名のつかぬ感情への答えを得られるだろうか。
ケレスは、父の示した先にあるものに目を向けた。
「ああ、ノア」
暁が水平線より少し浮かび上がった頃、ノアが現れた。
居所が移ってしばらく経ってもノアにさしたる変化は無かった。体も、心も。
人の身である己に生じた変化を顧みて、竜はやはり盤石な生き物だと、改めて思う。
「おはよう」
声をかけて撫ぜてから、暁とは異なる方角に視線をやる。
「あのあたりが、この国の中心だ。都と軍がある。うっすら見えるだろ?」
ノアが肯定を返す。
「あいつはあの場所で躍起になっているんだろう。故郷の秘密も、おまえの皮膚の事も、いつかわかるかもしれないな」
ぽつり呟き、あとはずっと黙って並んでいた。
やがて陽の光は徐々に暁の色を失い、空が色濃くなっていく。
始業の定刻が迫ってきていた。心のざわつきが引いていく。ざわつく感情の名は未だ知らぬままだが、切り替えることに関してはいくらか器用になったと思う。
ケレスは町に踵を返し、ノアが羽音を響かせた。
〈完〉