盟約の竜 11
やぐらの内部は、ただ一つの舞台があるのみだった。
外からは暗闇が張り付くのみかと思われたが、そこかしこに静謐な光が宿っている。
光の正体は明らかだった。
岩と呼ぶべきひときわ大きな石の塊に、ひとりの人物が閉じ込められていた。そこから不思議に光が発せられ、二つの人と二つの竜、四つの影を生み出していた。
ケレスはじっくりと見つめ、見覚えのある石だと認める。父の墓標であり、自らも懐に欠片を放り込んでいた、竜を鎮める石だった。しかし今までに目にしてきたものよりも、あまりに透き通っていた。光の反射が無ければ、物質がそこに存在していることさえ見逃しそうだった。何もない空間に人間が磔にされている、それがケレスの印象だった。
カノはその光景を身じろぎひとつせずに見つめていた。視線は閉じ込められた人物の頭の辺り、髪飾りに注がれているように見えた。
緑と白の竜は、それぞれの乗り主にじっと寄り添う。
やがてカノが呟く。
「これが盟約……?」
時間を止めたかのように、眼前の人物は動かない。
「この女が、おまえと同じなんだろうな」
カノと同じ年頃の容貌をした娘は、カノに重なって感じられた。髪の色や顔立ちが、よく似ていた。
「竜はいないのか」
ケレスの呟きは空間に吸い込まれて消える。
カノは、いつの間にやら胸元に何かを握りしめ、何かに耐えているようだった。ケレスが懐に持ち続けていたはずの石だと気付き、激昂した彼女に石を押し付けたままであったことを、頭の隅で思い出す。
「カノ、正気か?」
カノは言葉に反応して頷くが、平常という訳でもなさそうだった。
「飾りがなくても、こうなんて。ケレスさん、竜はいます」
要領を得ないカノの言葉に、ケレスが訝しげに視線を向ける。
「私には、彼女が白い竜に見える。……これも盟約の一部なの……?」
「なんだと?」
「わかってるんです、私と変わらない人間だって。でも白い竜の姿が浮かぶ」
惑いを零しながらも、視線は一点に吸い込まれたままだった。
ケレスも動揺してしばし押し黙るが、やがて口を開く。
「カノ、おまえの目的はもう良いだろう? そのまま、心を落ち着けているんだ」
ケレスは背に負った剣を下ろす。カノの震える声がその背を這った。
「ケレスさん、私こわい」
「受け入れろ」
ケレスにはそれ以外の言葉が見つからなかった。布から解くと剣がきらめいて見えて、緊張した息を吐く。
カノの縋るような視線が感じられた。何かに縋りたいのはよほどこちらだ、と頭の片隅が思う。己が縋れるものはもう、生身の父ではなく、父が辿ろうとした道筋のみだ。しかもその道が一体どこへ繋がっているかさえ、己は知らない。
「この剣はきっと盟約の一部だ。俺の目的は、白い竜の前でこれを壊すことだ。ノア!」
カノの震えに所詮出来ることなんてない、この道は結局自分の道ではなく、己がしていることなんて何もない。ケレスは心のどこかでそう考えていた。その虚無と焦燥が、見えぬ道の先へと駆り立てる。
控えていた緑の竜が咆哮を上げ、昂ぶった瞳を剣に向ける。
以前ノアを斬りかけた時のことを、ケレスはよく覚えていた。喉元の鱗に剣が沈みかけた時、猛り狂ったノアが抵抗して剣に激しく爪を打ちつけ、刃がわずかにこぼれた。
竜の爪が剣のように鋭いと言えど、脆い剣だと感じた。それを見て疑問を覚えたものだった。『白い竜』を切るいわくつきの剣が、一体何を切るのかを。
その答えを今は得ている。
ノアの一撃が、あの時と同じ個所を抉ろうとする。ケレスもそれに応えるため剣を握りしめ、構えた。
剣戟のような音が鳴った。
金属が壁に打ち付けた派手な反響を聞いていたケレスに、衝撃が走った。
背中を何かが浸食している。
衝撃で身が凝り、何が起きているのか振り返って確かめることが出来なかった。
「ケレスさん!」
竜の咆哮に交じって、カノの切迫した声が耳に入る。それさえ霞んで聞こえた。
「レイン! レイン、どうして? どうして……!」
己の背中に向けてカノが語りかけている。それを聞いて、状況を察知した。
そうか、これは。レインの爪だ。レインが皮膚を裂き、骨まで抉らんと背を劈いている。
心得たケレスは、ならばと、声を出そうとする。
「……う……」
「ケレスさん! わ、わたし、ああ……!」
「……平気、だ。知って、いた」
「何を」と自分に問いかけようとするカノの言葉を遮り、指先に力を込め懐をまさぐる。夢中で目当てのものを取り出して、声のする方へ突き付けた。
「返す」
衝撃が引き、言葉を取り戻すと共に徐々に痛みが支配しはじめる。
「代わりにおまえにも……返してもらうぞ」
痛みで脱力し、握りしめていられなくなる。指先からぽとり、取り出したものが落ちた。
「白い竜の一部であれ、俺にとっては故郷のものだ。……返してくれ」
カノの手がどこにあるのか、探れない。気づけば視界が暗くなりはじめている。
暗く遠い。
自力ではどうにもならない。ならば最後に一言、言おうと思った。
「心配いらない。もう、レインも」
ケレスの全身が弛緩した重みが、カノの硬直を解いた。
ケレスが懐から落としたのはいつかの髪飾りであった。白と黒の鱗が重なり合う、白い竜の一部。
同じく、己が今握りしめている石も。
「ケレスさん……」
自分の声が、ひどく冷静に反響し耳に入る。混乱の波が途端に引いた。レインに向き合う。
「レイン。大丈夫」
ケレスに被さるように爪を刺したまま身を震わせる黒竜に、そっと触れた。
「大丈夫よ。ケレスさんは大丈夫。あなたも。恐れることはないわ」
レインの血走った目に、己の言葉が染み入ってゆくのがわかった。
「ずっと苦しんでいたのね。今まで気付けなかった……」
これまでわからなかったレインそのものが、今は手に取るように近くにあった。
「ごめんなさい」
レインの目の色が変わったのがわかった。やがて黒竜の激昂も、弛緩してゆく。
カノは手にしていた石をケレスの鞄に納め、髪飾りを拾う。しばし見つめて、かつてと同じように身に着けた。
頭は、すっきりと整理されていた。
「レイン、ケレスさんを医者に連れて行きましょう。私はノアにケレスさんを乗せるから。先導して町を探してくれる?」
レインはカノの言葉を受け入れ、やぐらを去る。カノが支えきれずにケレスの体勢が前方にぐらつくと、それをノアが支えた。
カノは緑の竜に目を向け、名を呼ぶ。
ノアは、冷静だが苦しそうだった。
赤い爛れの痛みに耐えているか、それとも主を案じているのか、あまりに複雑で読み切れない表情を前に、カノは思う。
数分前には考えられぬ境地に己がいるのと同じように、ノアにも恐らく想像出来ないような変化が生じているだろう。
剣ひとつ壊すだけで、これほど。
白い竜の事が頭の隅によぎった。
「ノア、ありがとう。あなたとケレスさんは、本当に……互いをわかっているのね。あなたのおかげで私……」
続く言葉は呑みこんだ。目の奥がじわりと熱くなったからだ。
「手伝うから。ケレスさんを乗せてくれる?」
蘇芳に塗れて滑るケレスの体を、何とかノアに預ける。そうしてやぐらを出るとき、ふと振り返る。
――暁の視線が、こちらを覗いているように感じたのだった。