盟約の竜 10
カノはせり出した平らな岩場に屹立し、やぐらの中心へ視線を据える。光の入らないその奥の様子は窺えない、だが求めるものがそこにあることを意識し、強烈な緊張を感じていた。体の奥底から震えて、手は汗ばむのに冷たく、頭はひどくくらくらする。
でもそれが今の己に残された、譲りがたい矜持だと言い聞かせる。
見えぬ視線の先とはいえ、盟約の舞台をすぐそこに認めてもわたしは正気だ。それは既に、あり得るはずが無かった運命に手をかけているに他ならなかった。
緊張、なんと心地いいのか。ひととして存在している証が体に満ちている。そのはずだ。
カノの背後、崖の下の世界には黄昏が伸展しつつあった。夜が迫るとともに色濃くなる運命の気配に眩暈が増す、その時。
すぐ背後から幼く強烈な咆哮を聞いた。
「っ、レイン? どうしたの――」
己を乗せて来た黒竜は、この地に来た悲しみあるいは畏れで、しゅんと縮こまっていたはずなのに。初めて聞くような激しいいななきは、慟哭のように響いた。
思わず振り返り、カノも同じ悲鳴をあげたくなった。
今度こそ目の前が暗くなりかける。
どうして。
みるみる近づく竜の影に、カノの中で得体の知れない感情が渦巻いた。
――ああ、どうして。どうして、来てくれてしまったの。
カノはその竜の飛翔に、すべての言葉と動きを失う。金縛りの中、ただただ竜がこちらへ向かってくるのを見続けた。
重い竜の羽音が石舞台に滑る。風圧と共に降り立ったケレスは、まなじりを決した表情を浮かべ、一点に視線を注ぐ。音と風に身構えたカノの姿が、何故かどこかおぼろげに見える。一方のカノは、ケレスのあまりに苛烈な視線と背中の剣を目にし、金縛りが解けた。
「ケレスさん! まさか、竜を」
ころしに。
そう言いかけるが、一点を目指して近づくケレスがカノに目を向け、カノの言葉の続きは溶けて落ちた。
焔のような瞳の、されど表層には冷静な皮肉が浮かんでいる。
「俺が竜を殺すと思うか」
明瞭な発声は、いつもより低かった。言葉と共に口の端を歪める。憂いの捨て去られた、どこか突き抜けた物言いに、カノはケレスの瞳の奥底が見えたような気がした。
その瞳に圧され、言葉を改める。
「……何をしに……来たの?」
それでも不安の透けたカノの表情が、ケレスの火をあらわにした。反射的に声を荒げる。
「おまえは何もわかっていない! 俺がなぜレインの調教を引き受けたと思って……」しかし、ケレスは言葉を止めた。ぐっと言葉を呑みこんで、改めた。「……俺は。竜さえ生きていれば良いわけじゃない」
無謀な睥睨が、その先にあるものを確かに貫いている。
「俺は」単調な枕詞に、わずかな逡巡が潜む。「……父さんが死んだとき、俺にとって最後の賭けと言えることを決めた」
唐突な言葉にカノは目を丸める。
ケレスは何かを観念したような表情で、ぼそぼそと言葉をつないだ。
「父さんがあの地に住むことを選び、剣を手に入れたのは、人と竜の関係の歪んだ関係を変えるためだ。鉱石や鱗、様々なものが互いを操り、欺き合っているそんな関係が……正しいとは思えなかった。父さんも、俺も」
一体どこへ向けて話せば良いのか。ケレスがそんな落ち着かなさを感じて視線を泳がせても、カノは真っ直ぐにケレスの瞳を見続けていた。
「俺は父さんが書き残してくれたことしか知らないが、父さんはその関係の要として白い竜と、竜乗りの一族が関わっていることを事細かに知っていた。そして一族がこのやぐらへよこす生贄、その人物を糸口に、関係を変えようと計画していたんだ」
「……え?」
カノの吐息のような問いかけに、ケレスの表情の険しさが増す。
「俺は知らない。だがあの場所も剣も石も、おまえの髪飾りも、全て父さんにとっては」
そして、何が起きるのかも、きっと。
でも。
ケレスは意識して呼吸した。なぜだか息が詰まりそうだった。
間をおいて、定まらなかった視線を、観念してカノに向けた。話してしまうのだから仕方ないのだ。そう言い聞かせて。それに、カノの暁の色の瞳が、惹きこむように不安げに、揺らいできらめいていた。
「だが父さんは死んでしまった。俺は父さんが居なくなってからというもの、ノアが死ぬ時が竜との関わりを断つ時になると、ずっと感じていた。だから父さんの計画を引き継ぐことを決め、賭けたんだ。ノアが死ぬ前に……盟約の人物が本当に現れるかが、俺にとって――」
ケレスが言葉にしなかった部分こそ、カノの心に深く食い込んだ。カノは、意思と関係なしに目元が熱くなり、上手く喋れなくなった。それでもおそるおそる絞り出した声は、か細く高く震えていた。
「……じゃあケレスさんは……私が落ちてくることを……」
途切れた言葉には答えずに、ケレスは決然と言う。自分自身の震えを払うように。
「カノ。盟約に叛く覚悟を決めろ」
継ぐ言葉の前に、一瞬息を吸い直した。
「おまえの運命はひとつじゃない」
痛みも意思もありのまま込められた声が、カノの心を激しく揺らした。
「それでもおまえは行くのか」
ケレスの言葉が頭の中で響き続けていて、にわかに返事が出来なかった。心を作り変えてしまうような揺れが続く。
その衝撃は、きっとケレスの震えだと感じた。
「私は……あなたひとりで、白い竜に会うなんて。そんなこと嫌」
「カノ!」
「私は……!」
ケレスが声を荒げ、カノはそれでも言葉を続けた。
「ここで退いても何も変えられない、何も。盟約を恐れ、知らず、一体どうしていいかわからないまま」
ケレスの瞳に、ひたと視線を据えた。
「私は盟約に叛きに行く。盟約の正体を知るわ」
「わからないのか。行ったら何の意味もなさない!」
「そんなの……わからないわ」
自棄な物言いであるとも感じながらも、カノは譲らなかった。
ケレスが、苦々しい顔をする。一瞬の沈黙がべっとりと張り付く。その一瞬の間に、ケレスはカノにわからぬ決意を固めた。
「わかった。それなら俺も言う。……レインは残していけ」
ケレスの言葉は、カノにとって意外なものであった。
「その竜の洗脳は解けていない、危険だ」
「ケレスさん、何を言ってるの?」
「俺にはわかる」
調教師の断定がカノの内側に吸い込まれた。
「俺には解けない」
ケレスが調教師としてあまりに痛いであろう言葉を淡々と言うので、カノは語気が削がれそうになる。
「嘘、よ」
「おまえにレインの心はわからないだろう?」
確かにいつかそう言った。でも退くわけにはいかなかった。
「でもレインも一緒じゃなきゃ意味が無いわ。人と竜の関係って言ったでしょう、ケレスさん。なのにどうしてそんなことを言うの?」
カノが縋るように言うと、ケレスはその言葉を表情ひとつ変えることなく身の内に取り込む。そして、
「わかった」
ぴたりと反論を止めた。そのケレスに驚き、カノは言葉を失った。
「やはりそうか。……レインも連れて行こう」
そう言って歩み出す。
一言さえ言葉をかける隙も無いケレスに対し、カノには問いが渦巻いて、やがてただ一つの形となった。
――ケレスさん、どうして笑ったの?
声にならぬ問いが、カノの胸中にくっきりとケレスの表情を刻んだ。
わかったと言った一瞬、ケレスは笑っていたのだ。諦めたように、あるいは認めたように。
ケレスはやぐらの内部に歩みながら、カノに聞こえぬ大きさで呟く。
「最後にまた賭けか」