盟約の竜 1
大地を揺るがす轟音に、青年の微睡は奪われた。
「なんだ……いったい」
夢から醒めきらない心地と驚きとで、まともな呟きにはならない。相当な音量だった。しかし、似た音に心当たりがあったから起きたのだった。
青年は上着を羽織って靴を履くだけの身支度をし、壁に掛けた鞄をひっつかんで飛び出した。
外に出てみると、既に陽は高かった。正午が近いのだろうと思う。
走ろうにも体が鈍っているのか寝起きだからなのか、どうにも重かった。
普段なら怠惰な生活にわずかなりとも嫌気がさす場面だ。しかし、青年の関心は今ばかりはそのようなところにはなかった。
どちらへ行くべきか考えて、森の方向ではないと判断する。わずかな森の他には、岩肌さえむき出しになっているような寂しい山がある。むしろこの地はそのような荒れた山ばかりだ。
森の中に落ちたなら木々の折れる音がする。しなかった。地面に打ち付けた音だけだ。ならば、そちらだ。
そこまで考えてから、ふと青年は我に返った。苦笑を浮かべる暇もなく足を運びながら、思う。
――俺はあの音を、竜が落ちた音だとわかっているというのか。
しかし、杞憂であればそれで良いのだ。向かうのをやめるという選択はなかった。青年は山の地形を思い描き、場所の検討をつけてまた走る。
山の僅かに拓けたところに、一頭の黒竜と少女が転がっていた。
青年は近寄ると、様子を観察した。
両方とも気を失っている。竜が生きているのはすぐにわかるが、人間のことはよくわからない。だが半分竜に乗ったような姿勢をしているから、たぶん無事だろうと思う。
竜は、あちこち翼を擦っていた。つややかな黒い鱗にも、いくつも傷を作っている。
「……鞍が無い」
人が乗る竜ならば当然付けているものだが、見当たらなかった。取れてしまったようにも見えない。痕跡さえ無いのだから、たぶん元々つけていなかったのだ。
「いい加減だな」
舌打ちをしたい気持ちを抑え、少女に声をかける。
「おい、大丈夫か。この竜はどうしたんだ」
肩をたたくと、何度か呻くような反応だけが返ってきた。まともに話せる様子ではない。
青年はため息をついてからカバンの中身を弄る。しばらく使っていなかったが、中身は以前と同じだ。慣れた手つきで目当てのものを取り出した。
小さな笛を取り出すと、吹く。心地よく突き抜けた高い音が響いた。
しばらく待つと重い羽音が近づいて、青年の前に降り立った。くすんだ緑の竜だ。青年は竜に近づくと頭を撫でてやる。
「悪いな、頼むよ。怪我をしているけど、おまえなら運べるだろう?」
緑の竜は応えるように青年にじゃれついた。
***
少女は目覚め、見知らぬ場所だとはすぐにわかった。
だがあちこち体が痛い、特に頭痛がひどかった。頭の中にもやがかかって、知らない場所だという以上には考えが進展しない。
「ここ……どこ?」
自分の声さえどこか遠い。外の光に暖められた質素な布団の心地よさだけが実感出来る。ああ、今は昼なのだと思った。記憶の糸をたどり、竜と共に落ちたことだけをかろうじで思い出す。
そして、たぶん誰にかに助けられたのだと思い、その安堵と共に眠った。
次に目が覚めたのは夜だった。室内が薄暗くなっており、少し離れた椅子に人間が腰かけていた。体の痛みだけは相変わらずだった。
「起きたか」
ため息のような呟きだった。目つきの悪い男が少女を見ていた。
「気分は? 聞きたいことが山ほどあるんだが応えられるか」
「あ……へいきです」
「じゃあ、名前は」
起きようとする少女を制しながら言う。まだ起きない方がいい、と青年は付け加え、己がベッドサイドへ寄った。
「カノ」
「わかった。俺は、ケレス」
青年はそれ以上の自己紹介をしなかった。
「何があったんだ。思い出せるか? 竜が落ちていた」
「何が……って?」
「襲われたとか、落ちた原因だ」
カノはおぼろな記憶をもう一度手繰り寄せる。薄暗い天井を見つめても、あの時の空はとても思い出せない。
「原因なんて特に……飛んでいて、落ちたの」
カノは素直に言ったつもりだったが、青年は絶句したようだった。沈黙が続き、カノは思わず声をかける。
「あの」
「いいか」
声が重なった。
「人を乗せて飛んでいる竜が原因無く落ちるなんて、まずあり得ない」
不機嫌な声色だった。
「まともな調教を経ていたらな。どこから手に入れた竜なんだ。ろくでもない商人からか?」
不機嫌というよりは怒りと軽蔑を滲ませているのだと気付いて、カノは思わず上体を起こした。
「そんな! ……う」
途端に頭痛がひどくなり、めまいがする。思わず額を押さえた。
「俺は、調教師だ」
額を抱えたまま、カノはケレスに視線を向けた。ケレスはカノではなく、壁を睨むように言う。
「あの竜はまともに調教されていない。そんな竜が増えるから、竜が貶められていくんだ」
眉に皺を寄せた険しい表情の裏に、一瞬竜への思慕のようなものが見えた。
カノは、ケレスの物言いを責める気持ちが引いた。
「あの竜は」
「おまえは何者だ、何のために竜に乗る」
その言葉が耳に入った瞬間、心臓が鳴った。一切の考えが飛ぶ。意識などどこにも無いまま、口だけが動いた。言いなれたフレーズを紡ぐ。
「わたしは盟約のために竜に乗ります」
一瞬でカノの様子が変わり、ケレスはぎょっとする。
カノは抵抗も決意も何もない瞳で、どこを見るともなく、しかし明確にその台詞を言ったのだ。丸暗記した言葉を言っただけなのは明らかだった。
何かおかしい。
ケレスはそう思わずにはいられなかった。
「おい、大丈夫か」
「わたしは盟約のために、竜を守るために、命を懸けます」
言葉の調子は変わらない。ケレスは早々と諦めた。――不気味に感じたのだった。
「もっと寝ろ。調子が戻るまで場所を貸してやるから」
そう言って消灯し、隣の部屋へ消えた。真っ暗な部屋の中、カノは呟く。
「わたしの命は盟約のため」