19 昏き淵より呼び来る者
潮騒が意識の全てを飲み込むかのようだった。
怨嗟を抱く黒い波。
見下ろす先にある、真紅の憎悪。
魔術浸透――拡散術式構築――魔力浸染――範囲拡大――
怒涛の如く来る黒波に向け、術式を流し広げていく。
大地に沁みこませるように、密やかに浸食するように。
【炎よ】
脳裏に鮮やかな赤が浮かんだ。
かつて目の前に広がっていた命の色。
無意識に翳した掌に紅蓮が灯る。
――……様
思い出す。
今はもう懐かしさすら覚える冷たい眼差しと、決して消える事の無い、辺り一面の深紅を。
打ち払うようにして、手を払った。
意思に応えて世界が赤に染まる。
――煉獄の焔――
広大な大地を炎獄に閉じ込め、灼熱の劫火が辺り一面を席捲した。その様をどこか他人事のように眺める。
一瞬で炎の海と化したエリアに、どこかでどよめきがあがった。声が遠い。勢いのままに海に飛び込む蟻達が、先に沈んだ仲間と同じく次々に灰と化して消えていく。
モット
モット
悠然と払う左手にあわせて、炎の海がさらに広がる。貪欲に命を貪るように。僅かも残さぬよう舐めとるように。
ふと、右の方向で巨大な魔力が弾けるのを感じた。かなり距離がある――あれは、そうか……『彼女』が来たのか。
あちらにはロベルトがいる。セラド大陸から渡ってきて、事情を知ってすぐに加勢に駆けつけたのだろう。『彼女』が傍にいるのなら、ロベルトは大丈夫だ。
激しい炎に巻き上げられた風が、生き物が焼けるにしては奇怪な匂いを空へと撒く。
――……様
踊る炎に、ふと声を思い出した。艶やかな紅蓮の髪の女。苛烈な意志を秘めた強い眼差し。
最後に微笑って息を引き取った――その姿を。
――何故。
分からない。
ただ、思い出す。
赤ん坊として生まれ直し、がむしゃらに動く日々の中にあって、どこか遠く感じていたかつての思いを。
あの時抱いた感情を。
愛おしさと狂おしさを。
悲しみと憎しみを。
「――……」
名前は呼べない。そんなに気軽く呼べる名前では無い。
空が近い。
踏み出す足の裏に確かな感触があるのに、ふいに何処に立っていたのか分からなくなる。
地上の赤が消える。魔法の威を示し終わり、炎が虚空に溶ける。
光の雨も徐々に減っていた。
部下達が何かを人間へ指示しているのが聞こえる。
耳鳴りが酷い。言葉がよく聞き取れない。
――奉納贄――
意識の片隅で数字が舞っていた。エリアに刻んであった魔法陣が光りはじめる。
二万九千九百八……二万九千九百九……
先の魔法、光の雨、そしてロベルト達がいる方角での強大な魔法。
――連結成功――
贄は、成った。
後ろで誰かが泣いている。けれど、それが誰であったか思い出せない。
意識が拡散する。
選択する。選択する。選択する。選択する。
数多の犠牲のもと、この場に呼び出すにもっとも相応しい個体を。
――召喚術式構築――
【来たれ】
三万の死と引き換えに発動する、召喚魔法――
【『暴食の使徒』】
●
黒い何かが現れた。
上から見ると、黒い沼のようだった。
炭化した蟻の遺骸を呑みこんで、それはあっという間に大地に広がっていく。
攻撃の止み間にと押し寄せていた新たな蟻の群れと沼が衝突し、引き摺りこまれるようにして飲み込まれた。
<――!>
その瞬間、蟻の動きが変わる。
街を目指していた蟻達が一斉に沼へと向かいだしたのだ。
ざわめくようにして黒い波が沼を押し包み、飲まれ、黒と黒が混ざり合う。憎しみが一層深まるのを感じた。
ギチギチと鳴らされる蟻の威嚇音が、言葉になって聞こえてくるかのようだ。
――コノ世界ニ 死ト 滅ビヲ
いつかどこかで、呟いたことのある言葉を。
――コノ世界に……
「――ああ、やはりこうなりましたか」
ぽす、と。
頭の上から、何かにそっと抑えられた気がした。後ろに押されるように退る。
――ん?
「これだから目を離せないんですよねぇ。なんでいきなり引き摺られちゃってるんですか~」
「……ポム……?」
視界が狭い。振り仰げば、空にポムが浮いている。
ポムだ。……うん。ポムだな。
……頭が思いきり高いな。降りろよ!
「やれやれ。ギリギリセーフのような、ギリギリアウトのような、微妙なラインですねぇ」
遅れて来たくせにそんなことを呟いて、ポムは俺の前に降り立った。
むぎゅ。
「はいはい。坊ちゃん。大丈夫ですよ。此処は滅んだりしませんよ」
「……」
ポムの手があやすように俺の背を叩く。赤ん坊の時と同じように。
――此処は、滅んだりしません
何故か、その言葉はストンと俺の中に入ってきた。
「誰もいなくなったりしませんよ。大丈夫です。……だから、そんなに思い詰めなくてもいいんですよ」
ぽんぽん叩く手の温もりに、いつもの感覚が呼び覚まされるのを感じた。
眠い時、疲れた時、赤ん坊の俺を抱き上げてあやしてくれる手だ。
「……誰も?」
「ええ。坊ちゃんがいる限り、此処は滅びませんから」
滅びない――……
そうか。
……そうか。
ストンと足が地に着いたような不思議な感覚がして、脳を苛んでいた奇妙な気配が消えた。潮騒の音も聞こえない。
「ポム……」
「はいはい。あっ、遅くなってすみませんっ! いえね? ちゃんと急いでは来たんですよ!? でももう戦闘始まっちゃってて、下手に近づいたら計算違い起こしちゃいそうでしたから、あちらの探索に引っかからないように、ちょっと遠回りで文字通り飛んで来たんですよ! や~、大移動でしたよ」
蟻の行軍を刺激しないように頑張りました! とやや及び腰で言うポムに、どんな反応を返せばいいのやら。
むしろ、よく無事に合流した、と言うべきだろうか。【伝言】が届かない距離から、大急ぎで帰って来たのは確かだ。そも、連絡用魔具を渡しそびれていたのは俺の失態だろう。
「……怒ってます?」
「……いや。俺の準備不足が招いたことだ。手間をかけたな」
「いえいえ。軽いものですよ。というか、御咎めなしですね!?」
そこは後で腹パンしておこう。
それにしても、こいつを見ていると、なんだか妙にホッとするな。絶対言いたくないが。蟻共が来るのを察知した時から、ずっと感じていた嫌な気配すら遠ざけられたような気がする。――勿論、絶対言わないが。
「偵察の結果は?」
「『異変』の『答え』ですが、目の前にある『恨執蟻』がその原因の大半です。ただし、『死の行軍』の発生から一日程度しか経っていないはずです。群れは十万クラス。行軍規模と合わせて『災厄級』と見るのが妥当でしょう」
「――『死の行軍』が発生する前に、異変が起きていたのか……?」
「そうなります。最初に襲われた人の事情を聴くことをお奨めいたしますよ。どうも面倒事の気配がしますから」
……そういえば、逃げ込んできた連中がおかしなことを言っていたな。竜車にいた貴人らしい人間といい、確かに面倒事のようだ。
「……巻き込まれたか」
「そんな感じがします。坊ちゃんが此処にいなかったら、街ごと消滅してたんじゃないですかね~。儀式間近ってことで御家にいたら、気づいたら滅亡してました、っていう展開だったと思いますよ」
のほほんと指摘してるが、わりと大事だぞ、ソレ。
「お前の目から見て、コレは『連中』の企みだと思うか?」
「どうでしょうかね? 『恨執蟻』なんてのを使うんですから、今日昨日の企みじゃないと思いますけど。で、こっちの国の騒動が、坊ちゃんにあたえる影響って想像つかないんですが」
「……そうか」
ポムは『俺』とは違う。前世で魔族滅亡までの動きを――人間の欲望と嫌悪を――知っているわけでは無い。
そして俺自身も、赤ん坊時代の人間社会にどんな出来事があり、どの国や街が興亡の道を辿ったのか知らない。
おそらく、前世ではロルカンは消滅している。あの竜車にいた貴人の少年も死んでいるだろう。それがどんな影響を世界に与えていたのかは、おそらくこれから分かることだ。
「ポム」
「はい」
「仮定として、今回の『災厄』を『連中』の『我々への襲撃の為の布石』とする」
「……この国やら街やらの騒動が、ですか?」
「俺が関わる世界への襲撃は、全て連中の企みだと思え」
「暴論じゃないですか!」
うるさいよ。それぐらい拡大解釈してたほうが早いんだよ。
「故に、俺が関わる全ての『災厄』に対し、俺は第一級の敵対行為として対処する。コレが終わったら、背後の洗い出しだ。何を企んでいるのか知らないが、全て潰す」
言いきった俺に、ポムがちょっと笑って「了解しました」と言った。次いでパンと軽く手を鳴らす。
「では、さっさと蟻達には退場していただきましょうか。敵のボスは女王蟻『大蟻の女支配者』。位階が一つあがった女帝級です。初期位置が群れの中央でしたから、そろそろ衝突する頃でしょう。現在は半分ぐらいに敵数も減ってそうですね。女王蟻は、必ず坊ちゃんが直々に殺してください」
「?」
女王蟻は他よりも遥かに位階が高いからだろうか?
「群れの『呪い』は私の方で何とかしますから、女王は頼みます」
「それは別にいいが……女王一体より、多数の群れのほうが面倒では無いか?」
「私、雑魚敵には無敵なんです」
言いきりやがった。まぁ、そこまで言うなら任せるが。
――というか、お前がいたら、もしかしてもっと楽に掃討出来てたとか言わないよな? うちの部下達がものすごいジト目でお前を見ているぞ?
「それにしてもとんでもないのを呼び出しましたね。スライムですか~」
周囲の白眼視に気付いていないのか、ポムは俺の呼び出した生命体を見て「うわぁ」と言いたそうな顔をする。
今、地上で壮絶な喰い合いを繰り広げている粘体生物は、呼び出した時より遥かに大きくなっていた。蟻を取り込んで肥大化したのだ。
「見事に蟻さん達が標的変更しましたね。うわ……えげつない。坊ちゃんえげつないですよアレ」
「街が助かるのなら、あの程度どうということもあるまい。少なくとも、壁を平気で登ってくる十万の大群を相手に、何かを守りながら魔法戦をするよりは安全だ」
「まぁ、あのスライムに夢中になっている間は、蟻もこちらに来ようとはしませんからねぇ。――おや、別の方がやってきましたよ」
ポムの視線の先を追えば、物凄い勢いで走ってくるロベルトの姿が見えた。
「レディオン! なんッッだよあれ!?」
「スライムだ。見るのは初めてか?」
「スラ……!?」
ロベルトが愕然とした顔で硬直した。
まぁ、時折目にするのとは位が違うが、それにしても驚きすぎだろう。
「ほら、坊ちゃん。やっぱりスライムはやりすぎですよ。対物量戦の相手には確かにものすごい有効ですけど」
「まぁ、人心に配慮出来てなかったのは認める。炭喰いスライムや鉱物喰いのスライムと違って、本式のスライムはあまり目にする機会が無いだろうからな。驚かせてしまったか……」
とはいえ、他の呼び出す候補はドラゴンやケルベロスなんだが。スライムとどっちが良かったのだろうか……?
「スライムって……あんな化け物なのか!?」
「? 普通、そうだろう? 物理攻撃無効で、接触溶解捕食。死角ゼロなうえ、あらゆる動きが可能な粘体生命。生きた災害とまで呼ばれる正真正銘の化け物が、スライムだろう?」
すくなくとも、このあたりは常識だと思うのだが……人間の社会では違うのだろうか?
「馬鹿な……弱くない……だと……?」
なんだか不思議な衝撃を受けているようだが、放っておこう。
「レディオン様! 下に! 下に! 化け物が……!」
おや、支部長。お前もか。
あまり持ち場を離れないで欲しいのだが、俺の召喚のせいだから文句も言えないな。
「心配ない。あれは俺が呼びだした召喚生物だ。すぐ前にいる蟻を殺し尽くすまでは、他に意識を向けることも無い」
「あ、あのような強力な魔物を……」
支部長が驚きと畏怖をこめた目で俺とスライムを見比べる。
スライムは凄まじい勢いで蟻の群れを飲み込み続けていた。蟻もスライムを捕食しようとするが、物理攻撃の効かない粘体生物はこれ幸いと逆に飲み込むばかり。
このままならスライムだけで残りを掃討できるのではないか、と思われた時、ふいに蟻の群れの中に強い光が生まれた。
「!」
反射的に街壁の前に障壁を張る。
次の瞬間、巨大な光線が巨大化したスライムを薙ぎ払った。




