59 Comme on fait son lit, on se couche.
※レディオン以外の視点となります。
◎
時は少し遡る。
その日、ドグラス侯爵邸は混乱の極みにあった。
「貴様等は何をしていた!!」
屋敷内に、帰って来たばかりのドグラス侯爵の怒声が響き渡る。
ユノス国、ユスカ街、ドグラス侯爵邸。
領地の本邸ほどではないにしろ、侯爵邸に相応しい威容を誇っていたその屋敷は、今は見るも無残な有様になっていた。
飾られていた壺や金の燭台はもとより、年代物の調度品に各部屋のカーテン、はては敷かれていた絨毯まで無くなっているのだ。
壁にかけられた絵画だけは無事だが、それ以外の財産と呼べる資産価値の高い品は根こそぎ消えたと言っていい。そしてそれらが盗まれるところを誰も見てはいなかった。何人もの下働きの人間が屋敷内を動いていたにも関わらず、だ。侯爵が激昂するのも無理は無いだろう。
「貴様等が共謀して盗んだのではないだろうな!?」
「そんな……! 滅相もございません!」
「なら、何故これほど大掛かりな盗みが行われたというのに、誰も盗まれているところを見ていないのだ! おかしいだろう!?」
「わ、我々にも、何がなんだか……」
侯爵の前に並んでいるのは、留守を任されていた家令や執事達だ。
盗みに来たのが盗賊の類であれば、彼等の目をかいくぐって犯行に及んだことになる。だが、彼等はそんな怪しい人間を見てはいなかった。
当然だろう。そもそも盗みに来たのは人間では無いのだから。
「小さな調度品の一つや二つが消えたわけじゃない! 家具や、絨毯もだぞ!? どうやったって動かしている所を誰か見てるはずだろう!?」
「そ、それが、一瞬で消えてしまいましたので……」
「誰が! どうやって! 一瞬で物を消せるというのだ!?」
怒りすぎて真っ赤になっている侯爵の前で、家令達は震えあがる。彼等を責めるのは酷というものだろう。彼等は屋敷内を整えることには優秀だが、荒事や人外への対応には全く向かない。一部の傭兵や冒険者のように人ならざる者の気配を察知することも出来ない。突然やって来た人智を超えた存在に対処できるはずもないのだ。
それに、後手に回りはしたが彼等も何もしなかったわけではない。突然家具類が消えたのを見て、屋敷内に不審者がいないか探し回ったうえ、衛兵の詰所や冒険者組合に情報収集に走ったのだ。もっとも有益な情報は全く無かったうえに、主人に無断で被害届を出すわけにもいかず、それ以上のことは出来なかったが。
「宝物庫を確認に行った者はまだか!」
「もうすぐ参ります……!」
屋敷に入ってすぐに目についた惨状に怒り狂い、我を忘れたように怒鳴り散らしていたが、侯爵も全く現実が見えていないわけではない。最も狙われるであろう宝物庫にはすでに確認に向かわせている。侯爵の許可が無ければ近くに行くことも禁じられている宝物庫は、邸宅の地下にある。隠れるところの無い地下通路には見張りもついており、誰かが無断で侵入することなど不可能なはずだった。
――盗みに来たのが只人であれば、だが。
「来ました……!」
「遅い!!」
慌ただしく廊下を駆けてくる三人の執事を見て、侯爵は嫌な予感を覚えた。誰かが裏切らないよう、確認を三人で行くよう命じておいたのだが、その三人ともが真っ青になっている。しかもその後ろから、決して持ち場を離れてはならないはずの警備兵までついてきている。最悪の事態が頭を過ぎったのは仕方が無いだろう。
はたして、それは現実のものとなる。
「旦那様! 宝物庫が……! 宝物庫の中が、空に……!」
声まで青ざめたその叫びに、侯爵は比喩でなく体が大きく揺らぐのを感じた。慌てた家令達が体を支えていなければそのまま倒れ伏していただろう。
「かわりに、こんなものが床に刺さっていました……!」
確認に行ってきた執事の一人が緑色の何かを差し出してくる。貧血を起こしたように目の前が暗くなっていた侯爵は、少しずつ回復する視界の中にある緑色のそれに目を向ける。
植物の葉っぱだった。非常に生き生きとしている。
大きさは大人の掌ほどで、厚みはさほど無い。床に刺さりそうに見えないそれには、子供が勢い込んで書いたような文字が刻まれていた。
『怪盗トゥールビヨン参上!』
「…………」
侯爵は震える手でそれを掴み、意外に硬いことに驚き、次いで引き裂こうとしてビクともしないことに激昂した。
「ふざけやがって……!!」
怪盗トゥールビヨンと言えば、六百年ほど前に大陸全土を荒した大怪盗だ。今では伝説に近い存在であり、盗むその手腕は神がかっていたと伝えられている。
悪徳な領主や王が主な被害者であることも有名であり、怪盗トゥールビヨンに盗みに入られた、と言えば、人々に眉を顰められ、社交界で後ろ指を指されることになるほどだ。
それを見込んでか、後世の義賊の中には時折トゥールビヨンの名を騙る者もいた。ここ最近はそういう義賊の類も出ていなかったが、またぞろ現れたのかと侯爵は誤解した。普通、人族は六百年も生きないのだから当然の話だろう。
厚みのわりにどうやっても引き裂けない葉っぱを床に叩きつけ、足で踏みにじりながら侯爵は怒鳴った。
「誰か! 衛兵に連絡しろ! うちに盗みに入ったことを後悔させてやる……!」
「は……はいっ!」
主の許可が下りたことで、家令達は被害届を出しに動き出した。
意識の片隅でそれを見やり、肩で息をしていた侯爵はふと気づいて顔を上げる。
「おい、誰か、商業ギルドに行って金貨を引き出してこい」
「は、はいっ?」
「チッ……グズグズするな! 手元に金が無ければ動くに動けんだろうが!」
「はいっ!」
慌てて走り去る執事に舌打ちをして、侯爵は大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
怒りで脳が沸騰しそうだったが、怒鳴り散らしているだけでは事態は解決しない。ただでさえこれから馬鹿をやったロードリングの二人を解放させ、教会と共に新たな勇者を引き取りにいかないといけないのだ。突然わけのわからない事態で出鼻を挫かれたが、ここでまごついているわけにはいかなかった。
(聖王国とのパイプを太く出来る機会だというのに……!)
ラザネイト大陸において最も影響力の高い国が、聖王国だ。
大陸の東にあたるこの付近では『商業国家連合』の影響が強いが、大陸中央に位置する聖王国は下手をすればその連合国よりも強い影響力を持つ。
大陸全土に信徒をもつ教会の総本山であることも理由の一つだが、統一帝国が崩壊してすぐに台頭した国のため、歴史もある。大国同士の戦いが激化した時、調停を頼まれるのも聖王国だ。
その聖王国と直接取引が出来たことで、ドグラス侯爵もユノス国で確固たる地位を築き上げることが出来た。自身の所属する貴族派の力も増し、傘下の貴族家も増え続けている。
今はオーケシュトレーム公が宰相となっているが、いずれはその地位も自分のものになるだろうと確信していた。
その未来を早めてくれるだろう『勇者』の存在は重要だ。屋敷に泥棒が入った、というのは――そして数多くの財産を奪われたということは――一大事だが、『勇者』の存在に比べれば重要度は低い。
もう一度大きく呼吸をして、ドグラス侯爵は背筋を伸ばした。
手配をした執事達が戻ったら部屋に来るよう控えていたメイドに申し付け、足音高く歩き出す。
大怪盗の名を名乗る泥棒のことは、後で賞金をかけて指名手配すればいい。教会と共に冒険者組合に乗り込む前に、まずは使い勝手の良いロードリングの二人を取り戻す。そのためには金がいる。本来なら屋敷の宝物庫から金貨の詰まった袋を取り出すはずだったが、今は無いのだから仕方がない。ひとまずは別の所に預けてある金貨を取り出し、それを持って代理の者を冒険者組合に遣わせばいいだろう。
玄関から自室に入るまでの間にそこまでの道程を頭の中で組み立てて、ようやくドグラス侯爵の気分は落ちついてきた。盗人への怒りは収まらないが、少なくとも表面上は落ち着いている風に見える程度には気持ちを整理出来たのだ。色々と問題の多い侯爵だが、するべきことの順番を間違わないという点では優秀だった。
(みていろ……今に私がこの国を支配してやる……!)
現王は有能だが年老いた。
次代である王太子も優秀だが、数年前に妻に先立たれており、次期王妃たる王太子妃は空座だ。その息子である王太孫には婚約者もいない。
ドグラス侯爵の嫡子には娘がいないが、昔召し上げた女神官が産んだ娘がいる。今は教会で過ごしているが、機を見て呼び寄せれば、王太子妃にするのも夢ではないだろう。
直系の血筋にこだわるのであれば、孫娘もいる。孫娘達はまだ一歳にも満たない者ばかりだが、王太孫の婚約者に据えるのもいいだろう。外戚として権力を手に入れるための駒も揃っているのだ。ドグラス侯爵の未来は明るいように見えた。
――手を出してはいけない領域に手を出しさえしなければ。
「……私には他の財も手段も残っている。どこの誰が盗みに入ったか知らないが、いずれ目にもの見せてやるぞ……!」
決意を新たに呟いたところで、部屋の扉がノックされた。許可を与えて入って来たのは紅茶を淹れてきたメイドだった。若いが肉付きの良いメイドの姿に、ふと教会から連れて来た女神官を思い出した。屋敷に入ってすぐ想定外の事態にあったため、玄関に放置してしまったのだ。
だいぶ気分が削がれてしまったが、逆に気を取り直すために甚振るのもいいだろう。そう思って声をあげようとした矢先、慌ただしく廊下を駆けてくる足音を耳が拾って渋い顔になった。
嫌な予感がする。
それこそ、宝物庫を見に行った執事達の二の舞のように。
「旦那様!」
ノックをすることも許可を請うことも忘れて執事が部屋に飛び込んで来た。商業ギルドに向かわせた執事だ。
「商業ギルドの倉庫が空に……!」
その手に握るのが、緑色の葉っぱ。
ドグラス侯爵邸が混乱の最中にあったなら、教会は恐慌の只中にあった。
「だ、大神官様……っ!」
顔を蒼白にして震える神官達の前、神器を安置してあった場所を見下ろす大神官は表情がこそげ落ちたような顔をしていた。
聖王国から密かに運び込まれた神器の名を『恩寵の水差し』という。その水差しの水は尽きることが無く、その水には神々の恩寵が宿るとされている。
事実、水差しの水に浸された種から採れる植物は、人間に限界を超える力を発揮させる力を持っていた。それらの種はドグラス侯爵の領地に運ばれ、侯爵の支配下にある荘園で育てられている。そうして作られた薬は聖王国にとっても非常に有用なものだった。
薬が聖王国で作られず、ユノス国で作られているのはいざという時のためだった。
万が一『薬』に重篤な副作用が出た場合、製造元の国は他の国から盛大に叩かれるだろう。そういう時に切り捨てられるよう、あえてドグラス侯爵に種を与えて育てさせ、薬を作らせているのだ。
特殊な種は『恩寵の水差し』があればいくらでも作ることが出来る。逆に言えば、『恩寵の水差し』が無ければ一つも作れない。そんな重要な神器だから、安置してある教会の一室の警備も結界もかなり厳重なものを施していた。賊が入った時のことも考慮して、一見して神器だと分からないよう、存在を封印までして隠していたのだ。
それなのに、その神器の姿がここには無い。
他の場所にあった宝物と同様に盗まれている。
「……誰か、この部屋に入った様子は?」
「あ、ありません……! この時期、大神官様の部屋には誰も近づかないよう命じてありますから!」
神器が安置されていたのは、大神官の部屋の奥、重い本棚の下の隠し空間だった。
人の出入りを制限してある大神官の私室の、それも本棚の下などに神器が隠されているとは誰も思わないだろう。実際、数年前に神殿の宝物庫の一部が荒らされたことがあったが、大神官達神官の私室には踏み込まれたことは無かった。
神器が安置されていた場所には、他にも聖遺物である絵画が収められている。こちらは決まった祝日に取り出して神殿の一室に飾るため、ユスカの街の住人であれば多くの人が認識している聖遺物だった。
その聖遺物は残されている。
――ただの水差しに擬態させた神器は盗まれているのに。
「……宝物庫も、空になっているのですよね?」
「は、はい……」
ひどく静かな大神官の声に、背後に従っていた神官の一人が震える声で肯定した。
「――そして、『それ』が床に刺さっていた、と」
どこか幽鬼じみた動きで振り返った大神官の視線の先には、神官の一人が捧げ持つ緑の葉があった。忌々しいほど瑞々しいその葉には、子供のような字で『怪盗トゥールビヨン参上!』と刻まれている。
「この、存在固定された緑の葉、が……」
表情の無い顔の中、温度の無い目が緑の葉を見つめる。そのゾッとするような眼差しに、葉を捧げ持つ神官が震えだした。出来ればこんな不吉な葉は大神官に渡してしまいたいが、当の大神官が手に取ろうとしないのだからどうしようもない。
「だ……大神官様……」
しばし漂う重苦しい沈黙に、耐えかねたように神官の一人が震える声をあげた。
「せ、聖王国には、このことは……」
「……報告しないわけにはいかないでしょう」
「……ぅぅ……っ」
神官達が喉の奥で悲鳴をあげる。その顔が一様に絶望に染まっていた。
聖王国から授けられていた神器を失った――そんなことが聖王国に知られれば、この神殿に所属する全ての神官が処罰されるだろう。神器の紛失などあってはならない重大な失態だ。命で償えと言われるのは必至で、その累が家族に及ぶ可能性とてある。
おそらく最も叱責され、責任を追及されるであろう大神官は、緑の葉を見ながら何かを考える顔になっていた。暗い目はその葉に刻まれた文字を見つめている。
「……似ているな」
「……は……はい?」
「その葉の文字だ」
震えながら首を傾げる神官を無視して、大神官は一度神器が安置されていた場所を見下ろし、再度緑の葉を振り返った。
一般の神官には知られていないが、本国での位の高いヴラソヴィチ大神官は聖王国に伝わる秘密の話をいくつか知っていた。その中には、怪盗トゥールビヨンの話もある。
外聞が悪いゆえに緘口令が敷かれているが、聖王国も約六百年前の大怪盗の被害者だった。むしろ聖王国が最も被害にあったと言ってもいいだろう。
帝国崩壊の混乱期、どこよりも先に国を興した聖王国には、帝国時代の宝物が数多く隠されていた。後継を主張して元帝国貴族達が泥沼の戦いを展開している最中に、帝国跡地から目ぼしい宝物の類を持ち出したのが聖王国の神殿騎士団だ。その元の姿が帝国の近衛兵だったということと同じく、他国には洩らせない秘密だった。
当然、その宝は厳重に保管された。帝国が有していた重要な魔法道具や武器防具の類も多く、他の者の手に渡って戦争に利用されれば、いち早く国家を樹立し不戦の意思を示した聖王国も危険だからだ。
同時に宝物庫から移動させた財宝は、混乱期を乗り切るための資源としても大切だ。教皇の下、急速に管理体制を整えていった聖王国で最も重要な仕事が宝物庫の守りだった。
だが、そんな宝物庫からある日ごっそりと宝物が盗まれた。何故か絵画だけは放置されていたが、それ以外は根こそぎ持っていかれたのだ。
聖王国の上層部は半狂乱になった。
その当時には神器の類は無かったらしいが、教皇が最も重要視した聖遺物――統一帝国皇帝の遺した品が盗まれてしまったのだ。教皇の怒りは凄まじく、管理を任されていた者は一族もろとも首を括られ、遺体は野に晒された。
当然、怪盗トゥールビヨンへの復讐にも熱心だったが、ここで当時の大神官達が死に物狂いで教皇を抑えた。
怪盗トゥールビヨンはすでに大陸各地で名を知られている大怪盗であり、その被害者は悪逆な貴族や王を自称する領主に限定されていたからだ。
つまり、盗まれたということが外部にバレれば、聖王国が悪銭を溜めていたという噂が広まってしまう。
しかも、怪盗トゥールビヨンは義賊の中でも派手好きな質だった。
戦災で何もかもを失った人々のいる避難地に、夜中、金貨の雨を降らせることもあれば、戦災孤児を引き受けている教会の前に豪華な衣類が山積みにされていたり、治安維持に駆け巡る傭兵団の本拠地に何百本という酒瓶が置かれたこともあった。
民衆はあっという間に怪盗トゥールビヨンを義賊として認め、支持しはじめた。
教皇が怪盗トゥールビヨンを名指しして罵倒し、宝物を返せと声をあげれば、周辺の人々はこぞって聖王国を非難するだろう。そうなる土台がすでに出来上がっていたのだ。大神官達が教皇を止めたのもそのためである。
教皇は復讐を誓いながら声を抑え、対外的には「人の物を盗むのは感心しない行為だ」と和らかな言葉を吐くに留めた。その裏側では、膨大な賞金を懸けて怪盗トゥールビヨンを探させた。どうするつもりなのかは誰も怖くて聞けなかったと伝えられている。
それがおおよそ六百年前の話だ。
怪盗トゥールビヨンはある時を境に一切姿を現さなくなり、教皇の懸けた賞金はそのままだったが、年がたつにつれトゥールビヨンを探そうとする者はいなくなった。
盗まれたものは返ってこず、聖王国内の関係者達の話題や意識も別のものに移り、トゥールビヨンの名はだんだんと忘れ去られていった。周り中が戦乱の最中にあって、いつまでも一人の怪盗に拘り続けることは出来なかったのだ。
(だが……)
ヴラソヴィチ大神官は思う。おそらく、教皇はまだ当時の怒りと憎しみを忘れていないだろう、と。
何故なら、今も怪盗トゥールビヨンが残したメッセージカードは大神殿の奥に置かれているのだ。
決して折れず、破れず、六百年が経った今もなお鮮やかな緑色をしたそれは、『不滅の緑葉』と呼ばれてある種の聖遺物のような扱いを受けている。だが教皇がその葉をそこに置き続けているのは、聖遺物のように扱うためではなく、この怪盗を忘れるな、という意味だろう。――いつかまた現れた時に、必ず捕らえるために。
(今回手に入れた『葉』は、かつて見た『不滅の緑葉』と同じものだ)
大神官の地位に上り詰めるほどの実力はあるヴラソヴィチだからこそ、その葉が普通の物ではないことに気づけた。葉そのものはどこにでも生えている草の葉だが、その葉をコーティングしている魔法の力と術式は恐るべきものだった。普通の魔法使いや錬金術師では決して作り出すことは出来ないだろうほどに。
(かつての大怪盗本人が人外だったのか、その技を受け継いだ後継者がいただけなのか――今の時点では確認しようがないが……)
好機だった。
神器を奪われた失態は、普通なら死をもって償わないといけないだろう。だが、教皇が切望していた怪盗トゥールビヨンの情報を差し出せば、上手くいけば死を免れるかもしれない。
(……やるしかない)
ユスカ街の神殿にいる神官達の生死は、大怪盗の遺した葉っぱにかかっているといっていい。
ヴラソヴィチもこんなところで終わるつもりはない。
『神の恩寵で不死となった』とされる教皇は、今も存命している。聖王国が興った時から変わることなく、『教皇』という言葉が指す人間は一人だ。
教皇の近くに行ける地位につけば、その恩恵の一部を与えられるかもしれない。
実際、教皇の傍近くに控えるアルカンジュ枢機卿は、百年以上前から今と変わらない若い姿のままでいる。神と人の間に生まれた子だから、と伝えられているが、それが事実かどうかはヴラソヴィチには分からない。
分かっているのは、教皇とその周囲には不老、あるいは不死が与えられているということだけだ。――聖王国最高戦力である神騎士が、不死の存在であるように。
だからこそ、ヴラソヴィチは努力に努力を重ねて大神官の地位まで上りつめた。いずれは枢機卿になり、不死の恩恵を得るために。
それなのに、こんなところで断罪され、死ぬわけにはいかなかった。
「……教皇に密使を送ります。その葉を献上し、事情を述べて判断を仰ぎましょう」
「……はい」
この世の終わりのような顔をした神官達が項垂れる。
「それと、冒険者組合に使いを出し、調査を依頼しなさい。現在この街にいる隠密能力のある者を洗い出し、犯人の手掛かりを掴むのです。ただし、神器については決して口にしないように。外部に漏れた場合はこの場の全員を私が殺します」
「は、はいっ」
「同時に衛兵の詰所に行って、神殿の宝物庫が荒らされたとして犯人の捜索に協力を願い出なさい。神殿の宝物庫を荒すなど、神への冒涜です。決して許すわけにはいかないと、それとなく周囲に情報が流れるように大きな声で依頼してきなさい」
「はい」
「三人ほど書記を選びます。貴方達はどんなに小さなことでも細かく報告し、報告書を作成させなさい。我々が何の動きもしなければ聖王国は我々を切り捨てるでしょう。――いいですね? 我々を救えるのは、我々だけです」
「はいっ!」
「では、行きなさい」
命じられ、それぞれに分担を決めて散っていく神官達を見送って、ヴラソヴィチはもう一度神器が隠されていた場所を見下ろした。
何度見ても神器は無い。
手袋をはめ、その場所に残されたままの絵画を丁寧な手つきで取り出す。それはヴラソヴィチ一人で持ち出せるぐらいの大きさで、描かれているのは一人の男性だった。
白地に金糸の意匠が施された聖職者服を纏い、黄金の儀式メイスを手に持っている。年の頃は五十の半ばぐらいだろうか。顔立ちは非常に整っているはずなのに、何故か「美しい」と評するのは憚られた。壮麗な装いに反し、その目はどこか昏い色をしている。
ヴラソヴィチは絵画を部屋の壁にかけ、しばしその絵を見つめる。
そうして、絵画に向かって恭しく一礼した。