幕間 昏き災禍
――その怪異が始まったのは、神騎士達の視界を映す部屋が黒い泥で埋まった日からだった。
聖王国、聖都、大神殿。
多くの聖職者が行き来するそこは、荘厳であり贅の限りを尽くした美しい空間だ。一階にある祈りの間こそ控えめな装飾ですまされているが、それより内部に入ると豪奢な装飾が随所に施されている。
それらを横目に聖務に励むのは聖職者の誇りであり、その装飾は自尊心を満たしてくれる宝物だった。
――その宝物がいつの間にかどこかに消えていく。
それだけなら窃盗犯を捕まえればいいだけだが、本当の怪異はそれではない。
「神よ、神よ、どうか我が身をお守りください」
怪異を恐れ、部屋にこもって祈る声があちこちから聞こえた。
「邪悪なる者の手からお救いください」
その祈りは真剣であり、彼等が抱いている恐怖の程が知れる。
「黒き泥より我が身をお助けください」
黒き泥。
それがその怪異の名前だった。
なにかの喩えではなく、本当に『黒い泥』が恐怖の対象なのだ。
「大いなる力でお守りください」
聖職者の目は金で造られた時計に向けられている。贅を凝らした部屋に似つかわしい、豪華な時計だった。その秒針が時を刻み、時刻はまもなく夜の零時を刻む頃。
聖職者は恐怖に染まった目でその針を見つめ続ける。
夜の零時。
それは怪異がやってくる時間だ。
「神よ……!」
今まさに針が動くのをみて、聖職者は悲鳴のような祈りを捧げた。
一秒。二秒。荒く浅い呼吸で秒を数えていた聖職者の耳にカッチカッチと時計の音が聞こえる。
「……助かった……」
力の無い声でそう呟いた聖職者は、次いで聞こえた悲鳴に飛びあがった。
「誰か! アドリアーノヴィチ卿が!」
「泥が出たぞ!」
その声に聖職者は部屋を飛び出した。廊下では真っ青になった従者や他の聖職者達が震えている。彼等が見ているのは、彼が祈りを捧げていた部屋からほんの二部屋先の部屋だった。
(助かった)
聖職者の男の脳に浮かんだ言葉は、まずそれだった。
(私じゃなかった)
震える足を前へ動かし、騒ぎの中心である部屋に向かう。
本当は見たくない。だが、見なければそれはそれで怖い。
部屋の前まで行き、覗き込むと思った通りの光景がそこにあった。
黒い泥。
その泥の中に沈む誰かの衣服。
豪奢だった部屋は何もかもを奪われ、柱の金まで剥ぎ取られている。
「ヴァレリヤノヴナ卿」
「ひっ!?」
後ろから声をかけられ、男は飛び上がった。
「ゲ、ゲオルギエヴィチ卿か……脅かさないでいただきたい」
「申し訳ない。気持ちはわかります……。また、ですか」
「……ああ、また、だ」
互いに頷き合い、恐る恐る部屋の中に入る。だが、それ以上先に足が進まない。ともすれば逃げ出したいのを堪えて黒い泥を見つめる。
「今夜は、アドリアーノヴィチ卿だったか……」
その前は誰だったのか、恐ろしくて名前を零せない。だが、アドリアーノヴィチ卿との繋がりは薄い人物だった。被害者の傾向を特定したくても出来ない。なぜなら、大神官の位にいる者から下働きの下男まで、職種や人種を問わず犠牲になっているからだ。
「今日は神官か……」
「前回は下男だったな……」
「大神官も泥に変えられた人がいる……」
「なにが起こっているんだ、この大神殿で……」
ざわざわと不安を含んだ声があちこちから聞こえてくる。部屋に入った二人の神官はそれを聞きながら、明日は我が身だろうかと身を震わせた。
「『黒い泥』の犯人はまだ見つからんか!」
そこへ大きな声が響き渡った。聖職者二人も部屋の外に出る。そうして足音高くやって来る大神官を見て頭を下げた。
「アドリアーノヴィチ卿が怪異にやられたと聞いた! そこか!」
「はっ。こちらです」
居丈高に問われ、素早く返答した。
大神官は頷いて部屋に入る。直後「ううっ……」と聞こえた呻き声は聞かなかったことにした。
「誰もアドリアーノヴィチ卿が泥に変えられるところを見ておらんのか!」
声に、その場にいた幾人かの視線が移動する。その先にいる震えている下男を見つけて、大神官は大股にその男に近寄った。
「見たのか!」
「み、見ました。……ですが! ですが、犯人は、見えなかったのです!」
「またか!」
大神官は舌打ちする。その証言は、これまでの怪異と一緒だ。
真夜中の零時に誰かが黒い泥に変えられる。
それは一人きりでいた時でも、複数で集まっていた時でも変わらず行われる。
同じ部屋にいても、それを成した者の姿は誰も見ていない。
一瞬で泥に変わる人の体と、同じく一瞬で豪奢な飾りを剥ぎ取られた部屋だけが後に残される。
一日に、一人。
それが毎日続いているのだ。
「あの部屋が泥に埋まってからずっとだ。なんなのだこの怪異は!」
大神官が苛立ったように吐き捨てる。知りたいのはその場の全員同じだ。だが、同時に知りたくないという思いもある。無作為に犠牲者を選んでいるような怪異が、興味を示したことで自分に降りかかったら嫌だからだ。
一日に犠牲になるのは一人だけとはいえ、すでに犠牲者は両手の指の数より多い。だが、防ぎたくても防ぎようがないのだ。犯人は依然として分からず、選ばれる犠牲者のルールも不明。
大神殿の中だけで発生する怪異なら離れて零時を待てばいいだけだが、離れた場所にいても怪異は襲ってくる。最初に黒い泥に変えられたのは、自宅にいた大神官だった。
そしてその後もちょくちょく大神殿以外の場所で泥に変えられている。周囲を傭兵に警護させていた神官も泥に変わった。誰にも防ぎようがないのだ。
「前回の下男と、アドリアーノヴィチ卿に関連は?」
「ありません。アドリアーノヴィチ卿は孤児院の管轄をしている方で、前回の下男は大神殿のゴミを集める者でしたから」
「せめて次の犠牲者が予測できればいいものを……」
無作為に選んでいるようにも見えるから、誰もが恐れ、けれど逃げられずにいる。
「やはり、ここは大々的に神に祈りを捧げる儀式を行うべきでは」
「開く理由はどうする。大神殿の内部で怪異が広がっているからやります、では神の威光に傷がつくぞ」
「かといって何もしないわけにはいきますまい。大神殿に関わる者のほとんどがこの怪異を知っています。すでに民の耳にも入っているでしょう」
「くそ……いったい、何者なのだ、この怪異の主は」
大神官の声に、ふと男は疑問に思ったことを口にした。
「猊下はこの事態に何かおっしゃっておられましたか?」
「……あの方は下界のことには関わっておられん。神との対話を試みておいでだ」
「おお……! では、神の啓示がいつかあるかもしれないのですね!?」
「……それまでに我々が犠牲者にならねばよいが、な」
大神官の声に、男は力なく頭を垂れた。大神官も疲れたようにため息をつく。
誰も楽観視できないのだ。怪異は必ず毎日誰かを泥に変えていく。そうして装飾品を剥ぎ取ってみすぼらしい有様に変えていくのだ。
「犯人はどうやって人を泥に変えていくのでしょう」
「……さぁな」
男の問いに大神官は言葉を濁す。だが、男にも大神官にも思い当たるものがあった。
――神は泥を捏ねて人型を作り、魂を込めて人間と成す。
聖書の一節にある言葉だ。
なら、元の泥の姿に戻しているのは神なのか。
神ならば何故、神の信徒たる自分達を泥に変えていくのか。
なにも分からず怯え続け、零時を回るごとに犠牲者は増える。同室にいても発見者はなく、恐怖だけが積み重なっていくのだ。
八歩塞がりだった。中には聖職を辞する者も出てきた。特に下級の神官にそれは顕著だ。それを止めることはできない。民の相談や祈りに対応していた下級神官がいなくなってきたことで、上級神官が慣れない持ち場につくことも増えた。もはや神殿は神殿の体を成していなかった。
「誰かが神殿に対し呪いをかけたのだろうか……」
人智を超えた怪異に、そう見当をつける者も多い。だが、その呪いの主が誰なのかは分からなかった。そして、『何』がこの恐怖を齎しているのかも。
「やはり怪異を鎮めるための儀式をするべきか……」
だが、それでもし、怪異が収まらなかったら?
そうなれば、神殿の威信が大きくぐらつくことになる。人々は神の威を信じるが故に神に祈るのだ。怪異一つ鎮められない神などに誰が祈るだろう。
失敗すればとてつもない傷を負うことになる。だから安易に儀式も出来ない。
なにより、儀式をしよう、と発言することで、怪異に目をつけられたら困る。人々の恐怖はそこまできていた。
「いつになれば、この怪異は収まるのか……」
大神官の声に答えられる者は誰もいなかった。
※ ※ ※
大神殿の中で最も絢爛な場所には二人の人物がいた。
「今日はアドリアーノヴィチ卿が泥に変えられたそうです」
恐ろしく分厚い深紅の絨毯の上、立っているのは高位の神官服を着た美丈夫だった。波うつ金の髪を背に垂らし、前方の椅子に座る人物を見つめている。
だがその人物を果たして『人』と呼んでいいものか。それは人の形をした枯れ木のようであり、ミイラのようでもあった。
そのミイラの顔半分の皺が動く。亀裂のような口がぼそぼそと言葉を発した。
「また、ひと、が、むい、に、しんだ、か」
「猊下の威光で惑える子羊を救っては?」
「ふ、ふ。むり、な、こと、を、いう。でき、ない、こと、を、しっ、て、い、よう、に」
不遜ともとれる言葉を発した男は、ミイラの返答に鼻を鳴らした。ミイラはそれを咎めない。
「かみ、の、こえ、も、とだえ、た」
「…………」
「にげ、まど、って、いる、の、で、あろ、う。この、かい、いは、かみ、でも、むり、だ」
「神に見放されるとは、な」
「どの、みち、かみ、は、ひと、など、すく、わ、ぬ。すく、う、なら、ば、とう、に、や、って、おろ、うよ」
「いいパフォーマンスの場だと、喜び勇みそうな神もいたというのにな」
「ふ、ふ。じぶ、んの、み、が、かわ、いい、の、は、かみ、も、おな、じ、だ」
「猊下は、この怪異が神をも泥に変えると思っておられる?」
「さ、て。かみ、なら、ぬ、み、では、わか、らぬ、よ」
そこまで言って、ミイラはか細い笛のような息を吐いた。
「かみ、が、ばん、のう、な、ら、わが、あに、うえ、は、ま、たい、りく、など、に、い、かさ、れ、なか、った」
「…………」
「ひと、など、いく、ら、しん、で、も、かま、わぬ。だ、が、それ、な、らば、まぞ、く、に、も、しん、で、もら、わね、ば…………」
「…………」
あとはぶつぶつと聞こえない音量で何かを呟き続ける。
そんなミイラを一瞥してから、男は高い天井を見上げた。そこからこちらを見下ろすのを楽しんでいた『神』の気配は無い。
「神すらも逃げる怪異、か」
男は暗い声で呟く。
それはまるで、悪魔のようではないか――と。
※ ※ ※
白い手が金の板を泥でも捏ねるようにして丸めていた。
その周囲には金の燭台や時計など、美しい調度品が無造作に転がっている。白い手が何気なく掴んだ物は大きな宝石のついた金のネックレスで、美しい白い指がそこから宝石を取り外しては下に落していった。残った金の部分はまた泥でも捏ねるように丸めて、どこにでもあるような袋の中に放り込む。
「…………」
ふと、其れは顔を上げた。
何かを知覚したように中空を見つめ、ややあって視線を下に下ろす。
とたん、金属音をたてて雨のように金銀宝石が降ってきた。それと同時に昏く黒い泥のようなものも。
「…………」
泥は一瞬のうちに足元の影に戻り、白い手は新たに降ってきた金の燭台を掴む。蝋燭を外し、燭台は粘土のように伸ばされ、丸められ、また袋の中に放り込まれる。
そうして金の部分だけ丸めて袋に放り込むを繰り返していた其れは、残った宝石をざっくりと纏めて別の雑嚢袋に放り込んだ。
「なんつーか、宝物の扱いがすげー雑」
その様子を眺めていた男がそう零した。
「ポムさんや、それってどこから取って来てるんだ?」
ポム、と呼ばれた其れはゆっくりと振り返った。
「ちょっと無駄に溜め込んでいるところから奪ってきました」
「どこにも行ってないのに?」
「この程度なら魔法でなんとでもなりますよ」
「……ポムさんの使う魔法と俺達の魔法にかなりの開きを覚える俺」
「私も一定の条件がクリアされないと出来ませんけどね」
そう言って、ポムは軽く背伸びした。
「作業をしてると時間を忘れてしまいますね」
「お疲れ~。ポムさんが言ってたように、聖王国も怪異で赤ん坊誘拐犯を警戒するどころじゃないみたいだなぁ」
「自分の身が危険かもしれないと思ったら他人の赤ん坊どころじゃないでしょうし、ね」
「なんか黒い泥がどうとか騒いでたけど、実際、何やってんの?」
「う~ん。他人の命を溶かして啜ってるなら、自分達も溶けてしまえばいい、って思いません?」
「どうやって溶かすんだよ?」
「内緒です」
「聞いちゃいけない系か~」
がっくりと肩を落として、男はそこら中に転がっている指輪の一つを摘まんだ。
「これとか綺麗だけど、なんでわざわざ分解してるんだ?」
「そのままだと売れないでしょう? どこかで足がついても困りますから、分解して救貧院で彫金やってる人達に有効活用してもらったほうがいいでしょう」
「あー、それで金と宝石に分解してたわけか。こっちの銀製品が放置されてる理由は?」
「本土の救貧院で細工用の金が不足してるってことだったので、先に金の品を外してたんです。これから銀細工も分解していきますよ」
「これ綺麗だから妻にやりてぇなぁ」
「駄目ですよ、万に一つも見つからないようにしないといけないんですから。男なら盗品を最愛の妻に渡すような無様な真似はしないように」
「へーい」
摘まんでいた指輪を差し出されたポムの手に乗せ、男は大きく背伸びする。
「う~、そろそろ俺達の順番かな。だいぶ赤ん坊攫ってきたと思うんだけど、なかなか全員ってのは難しーな」
「聖都が大きいですからね。娼婦街もその分大きいです。赤ん坊の数も多いでしょう。さすがに一般の人の赤ん坊は奪えないですから、娼婦街が終わったら近隣の村々に手を伸ばしましょう」
「赤ん坊を売るっていう発想が俺等には分からねーな」
「分かる必要はありませんよ。任務に不要な情報です。ああ、攫った赤ん坊のかわりに置いておくお金ですが、次からコレでお願いします」
「お? また貨幣変わるのか」
「今度のは東側の国の貨幣ですね。ちょっと質が悪いので今までより多めに置いて来てください」
「あいよ。――にしても、こんな貨幣どこからちょろまかしてきたんだよ?」
「同じ場所からですよ。倉庫にたっぷりあったので毎日せっせと奪ってます。荷物が多いとたいして持ってこれないですけどね。重量制限ありますから」
「あの空から金銀財宝が降って来るやつ?」
「ええ。あの魔法、けっこう制限あるんですよ。奪って来るにしても、部屋にある荷物が多ければ余分は持てないですからね」
「ふぅん?」
渡されたくすんだ銀貨を翳して見ながら、男は不思議そうに首を傾げる。
「けどなんで、貨幣置いてくることにしたんだ? 攫ってくるだけでもいいと思うんだけどよ」
「赤ん坊を奪われた、と思うのと、貨幣と引きかえにした、と思うのではだいぶ違うんですよ。攫われただけなら騒ぐでしょうが、お金がおいてあれば騒がない親というのも多いんです。娼婦街ならなおのことそうでしょう。誰かが買っていった、と思って騒がずにお金をもらうわけですよ。――まぁ、このあたりは人によりけりですから、完全にそういう人ばかりではないでしょうけどね」
「事実、騒がれるパターンは少ないもんな。しかし、そっかぁ……金が置いてあればそれでいいのか……」
「魔族のあなた達には分かりにくい考え方ですから、あまりそのことを考えないほうがいいですよ」
「ポムさんはよく人族の考え方とか理解できるな」
「理解しているというより、そうだと知っているだけです。理解は一生できないでしょうね」
「ふぅん?――ちなみに、宝石はどこに繋がってる無限袋に放り込んでるんだ?」
「こちらも救貧院の無限袋に繋がっていますよ。彫金関係の素材置き場ですね」
「もしかしなくても、作り直して売ってる?」
「そういうことです」
「うわ、セコイ」
笑って言われてポムは肩をすくめてみせた。
「こういうのは坊ちゃんの影響でしょうね。溜め込んでるところから奪って、加工し直してから売り払う、とか」
「レディオン様に冤罪が」
「事実なんですけどね」
銀の指輪から宝石を外し、銀同士をぐにぐにと粘土でも捏ねるようにあわせて丸めて、ポイッと袋に放り込む。見ていた男は呆れ顔だ。
「どうやったら銀とか金とかが掌で溶けて丸められるんだか」
「熱の調整だけなので簡単ですよ?」
「ぜってー俺には出来ねーから」
言って、男は銀貨の入った袋を自分のポーチ型無限袋に入れた。
「じゃあ、ひとっ走り行ってくるわ」
「はい。沢山助けてあげてくださいね」
「あいよー」
軽く手を振って見送り、ポムはまた財宝の分解作業に戻る。
――と、その手が一瞬止まった。
「…………」
虚空を見つめ、何を思ったのかポーチ型無限袋から紙とペンを取り出してささっと書き、折りたたんでハート形にしたものをポーチに戻す。
「まったく……坊ちゃんは、仕方ありませんね……」
その声は、どこか暖かかった。