幕間 別れの序曲
レディオン以外の視点となります。
時は進む。
運命の歯車を回して。
同じであって同じではない世界の中で、
ある場所では歪みを正し、
ある場所では歪みを増やし、
滅亡へのカウントダウンを刻み始める。
何を滅ぼすのかを、選びながら――――
※ ※ ※
その日、聖王国の大神殿は混乱の中にあった。
「封印を急げ!」
「癒し手を早く向かわせよ!」
「軍の確認はまだか!?」
「『目』はまだ繋がらなんのか!!」
「駄目です! あの地に向かった全ての『目』を潰されています!」
「馬鹿な――なにが起きたというのだ!」
最初の一報はある『目』から情報を仕入れていた神官からだった。
聖王国の大神殿の奥、一般には知られないそこには、大小さまざまな水晶玉が設置されている。それらは、それぞれの人間に埋め込まれた目を通して、各地の情報を神官達に与えていた。
ある者は異国の街の様子を、ある者は聖王国の練兵場の景色を、ある者はどこかの貧しい部屋の一角を、少し滲みながらも人の顔立ちがそれと分かるほどの鮮明さで映し出していた。
その一つが突如砕け散ったのだ。
神騎士グレーゲル、戦死。
そうしてその数時間後には別の水晶玉も砕けた。
「……神騎士ドゴラも討ち取られたということか」
「馬鹿な!!」
世に『神に選ばれた騎士』として伝わる『神騎士』が、教会の秘奥によって造られたモノであることをここにいる神官達は知っていた。水晶が映すのは、彼等『神騎士』の視界だ。そこに個人のプライバシーは無いし、誰もそれを考慮することはない。ただ情報としてその『目』に映るものを映し続ける。
「ロルカンとかいう港街へ向かったグレーゲルの『目』は、夜に広がる光を最後に砕けた。ドゴラの『目』も、行軍中、頭上に鳥のような何かを見たのが最後だ。……もう間違いはあるまい。かの地に赴こうとした神騎士は例外なく討ち取られているのだ」
「ありえんだろう!! 奴らは神騎士ぞ!」
「だが事実だ!」
「討ち死にと限ったわけではあるまい! 確認を急がせるべきだろう!」
「それが可能になるのにどれだけの時間がかかると思っている!? あちらを見れる『目』はもう無いのだぞ!」
「各々方、待たれよ! それより『今』の問題が先だ!」
「そうだ! よしんば神騎士を討ち取るだけの何かがいたとして――ならば――ならば、カルロッタに配置した『目』にいったい何が起きているというのだ!!」
唾を飛ばす老いた神官が指さす先には、黒い泥を溢れさせる水晶があった。
闇よりなお昏く悍ましい色に染まったその玉から、まるで滂沱の涙のように黒い泥が流れ出ている。それは周囲をゆるゆると泥の中に沈め、周囲には毒のような腐敗臭が満ち始めていた。
「カルロッタの『目』は今年に入ってからずっと闇に閉ざされていた! だが砕けたわけではなかった……なのに、今は、こうだ!!」
それが起こったのは、神騎士ドゴラの『目』が砕けたとの報告に泡を喰って駆けつけた時だった。
砕けた最初の『目』について議論をかわしていた最中での報告だったため、その場にいた大神官以上の地位にある者達がこうして駆けつけた。その先で待っていたのは、背筋が凍るような絶叫と、黒く染まった水晶から溢れる黒い汚泥だったのだ。
そして絶叫は、今も続いている。
「何があった!? 何が起きている!? カルロッタの『目』は――神騎士ロモロの身に何がおきたというのだ!?」
砕けたのなら、再生されないほどに『目』を潰されたか討ち取られたかだろう。
だが、カルロッタに配置した神騎士の『目』は依然としてそこにあり、ただ何も映さず、腐った泥を流し続けているのだ。
「――ええい! その神官を早く治癒室へ連れていけ!」
口論の合間もずっと響いていた絶叫に、たまりかねたように大神官の一人が叫んだ。その目が向けられているのは、黒い泥が流れ出す瞬間を見ていたらしい神官だ。すでに正気を失っているのか、目を見開き恐怖に固まった顔で命を振り絞るように絶叫を放ち続けている。
「何を見たのだ! 何が見えたのだ!? あの黒い水晶の中に――」
「大神官様! 大神殿の転移の間に異変が――」
「今はそれどころではない!」
何事かを報告しに走りこんで来た相手を一喝し、大神官達は腐敗臭のたちこめる部屋に怯えるように後ずさる。
「封印を急げ! あの禍々しい『目』を封じるのだ!」
彼等は知らない。
自分達が『何』を相手にしようとしているのかを。
神騎士ロモロの『目』が、なぜずっと闇に閉ざされていたのかを。
その『目』から溢れるものが何なのかを。
彼等は知らない。
一瞬世界を覆った始原の闇に気づかなかった彼等は、明示されていた答えを知る機会を逸してしまったのだ。
※ ※ ※
「……何が起きている?」
恐ろしく分厚い深紅の絨毯の上、険しい顔で立ち尽くす男の周りに人影は無い。
柱一つ、壁一枚に刻まれた荘厳な彫刻。光を鈍く反射する金の装飾。神々の彫刻の下、荘厳な広場の先にある豪奢な椅子にはミイラのような何かの姿。だが、男はそのミイラに問うたわけではなかった。
「何故、誰もいない?」
光の届かぬ高い天井の先、いつもならさざめく様にこちらの世界に干渉していたあらゆる思念の力がこの場から消えていた。
――まるで何かを恐れるように。
――まるで何かに怯えるように。
それは静寂という形をとって、明確に今までとの違いを男に見せつけていた。
「猊下!」
そこへ静寂を乱すように足音高く神官が駆け込んで来た。
「一大事にございます!」
「声を抑えよ。――ロルカンにさしむけた神騎士の訃報ならば聞いている」
「いえ! ――神騎士のことではございません」
必死に息を整え、声をひそめた神官に男は眉を寄せる。
つい先ほどまでこの広間で喧々囂々と話し合っていた大神官達は、今は『神の目』の間に集結しているだろう。二つ目の神騎士の『目』が砕けたという報告に、誰もが浮足立っている。もっと深刻な問題があるというのにだ。
「では、ついぞ世界を覆った闇のことか」
「違います!」
「ならば、転移の間から何者かが出て来たという話か」
「いいえ! 目下、それらは警備の者が探しておりますが、そちらではありません!」
神官は迷うような視線を彼方にいるミイラに向け、男に視線を戻してさらに声をひそめた。
「赤子が。神殿にて保管していた赤子達が、何者かに連れ去られました!」
男の目が見開かれる。
その声が聞こえぬ位置で、ミイラはずっと同じ言葉を繰り返していた。傍らに侍る女官に、震える手の持つ器を支えさせながら。
「水、を。命の、水を。赤子を、くべて、命の、水を」
その器にあるのが――水色の水。
※ ※ ※
「ふぅむ……どうやらちっと目を離した隙に、面白いことになっとるようだな」
聖王国、聖都、その城壁の上。
街並みを見下ろしていた男は厳つい顔に太い笑みを浮かべて顎を撫でた。
威風堂々とした非常に見ごたえのある偉丈夫だった。筋骨隆々とした体に白銀の鎧を纏い、燻した銀のような長い髪を鬣のように生やしている。精悍な顔には齢を感じさせる皺がいくつか。だがそれも威厳に変えるだけの力ある容貌だった。
「父上。何かありましたか?」
「親父殿。それは先に駆け抜けた彗星の如き者共のことか?」
「……なんでお前はそんな意味不明な言い方をするんだ、シン」
「ふふん。我が宿命の朋にはこの叡智溢れる比喩が分からんとみえるな、ソラ」
「意味分からん」
なぜか得意満面な顔の少年と、呆れ顔の少年――のように見える少女を見下ろして、男は笑った。
「兆しが見えたということだ。シン、ソラ、遠征の用意を皆に伝えよ。やってくるぞ、戦の時が。育んできた全てを賭ける時が。我が軍の全てを結集させよ! 我らの同胞が向いし先、西の果てこそが我等が宿命の地よ!!」
※ ※ ※
身に姿隠しの魔法を纏い、大地を駆ける一団があった。
胸に大事そうに小さな命を抱え、走る集団の向かう先は西。
その中にあって、事情が分からないままに同行するはめになった者がいた。同行のきっかけは、場所が敵地であり、出会った相手が同族だったからだ。誰かと間違われている気配がしたが、その者にそれを確認する時間は無かった。今は魔法で深い眠りに落ちている赤ん坊を抱いて、共に安全地へと駆けている。
(何が起きている……?)
敵地で追い詰められ、転移陣に飛び込んだはずだった。どこにも繋がっていないと噂の転移陣が発動し、からくも逃げられたかと思えば着いた先も同じ場所だった。だが、違う。周りを囲んでいたはずの敵影は無く、それどころか人の気配すらほとんどなかった。それでも、場所が同じなのは確かだ。暴いた隠し通路も同じだったし、都も同じだった。
(私は『何』を通った?)
聖王国、大神殿に在る転移陣。
駆け抜けた先にあった聖王国の聖都。
だが、ここは本当にあの聖王国だろうか? この、平和に浸りきったような国が? 魔族を滅ぼす為に世界を動員したあの国だと? まるで戦など知らなげに人々が笑い歩いていたこの国が?
(私は何処に出てしまった……?)
周囲にいるのは上級魔族。そう、上級魔族だ。聖王国にいる上級魔族ならば、王国に一撃を与えるべく吶喊した兵のはずだ。マントで顔は見えなかったが、身に纏っている魔力は間違いなくグランシャリオ家縁のもの。なら、王に与えられた自分の兵のはずだ。だが、どうにも違っている気がする。なにより、決死の覚悟で大聖堂を抜け出し、周囲の長閑な光景に狼狽し、混乱していた自分に赤子を押し付けて「こっちだ!」と指示してきたのが不可解だ。しかも渡された赤子が人族の赤子である。何故、宿敵の赤ん坊を抱えて走っているのか、意味が分からない。
(……状況を把握しなくてはならない)
逆らうことなくついてきたのは、状況が全く見えないからだ。まずはそれを把握しなくてはならない。幸か不幸か同族に同行できたのだ。落ち着いた先で情報を交換しあい、それをもって王の元に帰らなくてはならない。――あのひとは、いつでも自分より誰かを失うことを悲しむから。
(必ず戻ります。だから、どうかご無事で――レディオン様)
フードを目深く被り、目立つ深紅の髪を外に出さないようにしながら今はただ駆ける。
――自分が何処に出てしまったのか、知らないままに。
※ ※ ※
古びた教会の一室で、老女は必死に手を動かしていた。
(なにが……いったい、なにが、起きたというの……?)
床を拭く手が哀れなほど大きく震えている。古い水桶は黒く濁り、必死に擦るように拭う古い布もまた黒い。
(なにがあったのですか、神父様……!)
体の自由がきかない神父を教会の一室に匿った。優しく慈悲深い神父の今までの献身に報いようと決心してのことだった。王城で何やら騒ぎがあったが、その喧噪もこの貧民街からは遠い。いずれ何かの御触れがあるだろうが、せめて自力で動けるようになるまでは体を休めてもらうつもりだった。
だが、その神父の姿はどこにも無い。
ただ、その体が横たわっていた場所に、まるで何かを破裂させたような黒い水たまりが残るのみだ。
(何故、このようなことに……!)
少し前、男が訪ねて来た。
かつて自分達によくしてくれた家の人と同じ服装をした人だった。
とても品のよい仕立ての服。差し出されたかつてと同じ食糧の詰まった箱。受け取り、片づけ、振り返った時には誰もいなかった。その人の容貌は、何故か記憶に残っていない。
まるで見たと思ったことが幻だったかのようだった。
奇妙な不安を覚え、そっと神父がいる部屋を訪れた時には、すでにこの有様だ。
それが赤い色であれば、悲鳴をあげても混乱はしなかっただろう。血だと思い、その安否に絶望しながらも納得はしただろう。
だが、ここにあるのは黒い水。
ただただ黒い色の泥。
「しすたー……」
ふいに聞こえた声に弾かれたように扉を振り返った。
幼い子供がきょとんとした顔でこちらを見ている。
「しんぷのおじちゃんは……?」
その問いの答えを、彼女はもたなかった。
◆※◆※◆
小さな命を抱えて廊下を進む。
人払いをされた廊下には、行く手を遮るものは無い。
喧噪は遠く、人の気配も遠く、歩む其れには足音もない。
まるで幻か何かのように、ただ小さな命を抱えて進む。
「…………」
歩く。
ひそやかな寝息。
歩く。
わずかな身じろぎ。
歩く。
柔らかな熱。
歩く。
命という重み。
「…………」
そろりと這わせた手の先が、小さな背を伝い、その首筋に触れた。
小さな首だった。
その体の小ささと同じように。
ほんの少し力を込めれば折れてしまうような、細く頼りない首だった。
「…………」
今、この『手』に力を込めれば、それだけでこの命は消えるだろう。
世の理をこれ以上歪めることもなく、あっけなく消え果てるだろう。
それはとても簡単で、
それはとても優しい『終焉』となるはずだった。
【 世 ■ ノ ■ ヲ ■ ス ■ ニ 】
空虚な世界に【言葉】が浮かぶ。
まるで何かを命じるように。
まるで何かを思い出すように。
けれど不吉な【言葉】を前にしてなお、其れの歩みは変わらなかった。
【 新 ■ ナ ■ 女 ■ 生 ■ レ ■ 前 ■ 】
成せ、と【言葉】が告げている。
そのために、此処に在るのだろう、と。
全ては在るべき形に戻すために。
全ては終るべき形に至るために。
けれど其れの歩みは変わらなかった。
【 滅 ■ ヲ 】
【言葉】はずっと降り続ける。
分かっている。
世界に降りたその時から。
理解している。
ずっと【言葉】は降り続けている。
知っていた。
常に【言葉】は共にあった。
【 殺 ■ 】
ただ一つの死を望んで。
「…………」
【コ ■ マ ■ 時 ■ レ ■ ヤ ■ テ ■ 界 ■ 滅 ■ 】
それは定められた未来の姿。
【時 ■ 訪 ■ ル ■ ニ ■ ボ ■ 去 ■ カ 】
二つに一つの選択肢。
【次 ■ 位 ■ ヘ ■ タ ■ リ ■ ク ■ 】
――その先にあるのは絶望だ。
【 ■ セ 】
例え誰を救おうと、
【 殺 ■ 】
腕の中にいる『彼』は救われない。
【 ■ セ 】
世界を救うためにはどちらかの道しかなく、
【 殺 ■ 】
どちらの道にも救いは無い。
【 ■ セ 】
永らえた先にあるものこそ、
【 殺 ■ 】
永劫の絶望だ。
【 ■ セ 】
そうなった時――
【 殺 ■ 】
誰も『彼』を救えない。
「…………」
終わらせられるうちに、終わらせてやることこそ慈悲だろう。
今であればまだ間に合う。
今であればまだ殺せる。
今であればまだ救える。
全てを救おうと、未来に希望をもっている今この瞬間に訪れる終焉であれば――この命は何も知らないままに眠ることができるだろう。
永遠に残されることもなく。
永遠に絶望することもなく。
そのために、『今』という時があるのではないか。
「…………」
指が動く。
「…………」
歩みはいつの間にか止まっていた。
「…………」
唇が動く。
音の無い言葉で。
此処ではない場所にいる存在を。
今では無い時にいる存在を。
ただ、呼ぶ。
――御主人様、と。
「…………」
応えはない。
あるはずが無い。
答えはない。
出ているはずなのに見えない。
「…………」
手が首に触れる。
胸に留まる小さな形。
暖かな重み。
その、命。
「―― ――」
――■■、■■■■。
※ ※ ※
底冷えする地下牢に哄笑が響く。
そこは神殿の地下。隔離された牢獄。
もはや手の打ちようがないと、隠されるようにとじこめられた狂人は嗤う。
それはあるものを見てしまった者の末路。
もし彼を正気に戻すことができたなら――あるいは、最後まで救おうと手を尽くしていたのなら――今この時に、異国の地に何が居たのか知ることが出来ただろう。
だが、ここには他に誰もいない。
狂ってしまった神官の言葉は誰にも届かない。
「くるぞ……くるぞ……! 見返された! 滅びがくる……!」
それは人ならざる『目』を通した邂逅。
決して目をあわせてはいけないものとの接触。
「戯れられる……! 滅びがくるぞ!」
数多ある滅亡の中にあって最も加虐。
人智及ばぬ存在の戯れ。
その尖兵にして操られし傀儡。
力の具現者にして存在の化身。
「【真なる魔女】の【従者】が――!」
それは世界を破滅に導く絶望の呼称だった。