68 “結末”
サリの事情を知ったのは、前世で力の譲渡が行われた時だった。
『転変の魔王』が何故自らの存在そのものをサリに渡し、サリを魔王へと変えたのかは知らない。
自分を打ち倒した者への意趣返しか、あるいは魔族らしく称賛を込めた祝福のつもりだったのか。
存在ごとその力を受け取らされたサリにしても、その心情ばかりは知ることができなかった。
――当然、そのサリから何も知らないまま力と命を受け取ってしまった俺も同じく。
サリが『転変の魔王』と戦った理由は、当時のラザネイト大陸の世情が複雑に絡んでいる。
当時、忌むべき双子の片割れとして生を受けたサリは、人としての生を終わらせるために魔王に戦いを挑んだ。強者を求めて日々切磋琢磨していた当時の魔族の王が相手だ。万に一つも勝機は無いと思っていたのだ。だが、死神の誓約を受けていたサリは、道中で精霊王の祝福を得てしまった結果、真なる勇者として覚醒してしまい、魔王を討つに至ってしまった。
サリにとっては、全部が全部、想定外だった。
死にに来たのに、生き残った。
人間だったのに魔族になった。
それどころか勇者だったのに魔王になった。
それに加えて女だったのに男になったのも、その後のサリの心に影響を与えていたに違いない。
サリの名は、サリシオン・ユスティニア・ファラ・アンリユストゥス。
双子の姉弟として生まれるも、男女の双子は禁忌として産みの母に男と偽られ、つけられたのがサリシオンという名前。
だが、サリの生まれた国では双子であることもまた不吉の象徴として忌まれていた。
その結果、サリは弟王子の影武者として過酷な毎日を過ごすことになった。世が世であれば王女として何不自由なく暮らしていただろう身で、常に死と隣り合わせの戦場を渡り歩くことを強要されたのだ。
そんななかでのオズワルドとの邂逅は、サリにとって唯一の救いだっただろう。
ユスティニアは、深い渓谷に咲く花の名前だ。雪深い冬、月明りの下でのみ花開く。神代の古い言葉で『気高きひと』『真なる王』をさすその名前をサリに捧げたのはオズワルドだ。
サリは人としての生涯において、その名を口にすることは無かった。
だがその名をずっと大事にしていたことは分かった。
力と命を含む『存在』を俺に渡す時、名乗ったのがあの名前なのだから。
――その背景を俺が知ったのは、サリが死んだ後。その遺骸を抱いたオズワルドの告解を聞いた時だったが。
「サリ」
サリは多分、人として生きている間ずっと、死に場所を探していた。
生きることも戦うことも立ち振る舞いも口にする言葉も、全て他者から『こうあるべき』と強要されたものだった。
サリにとって生きることは戦い続けることで、平穏と安息は死の先にしかなかった。生まれてからずっとそのように教え込まれ、育てられ、生き続けてきた。
「サリはもう、無理に戦わなくてもいい」
人間の国同士の戦いに勝利し、世の中に平和が訪れても、サリには平和は訪れなかった。
「サリの戦争は、七百年前に終わっているんだ」
人は――サリの故国の人間は、サリをさらなる戦場へと送り出した。
人の世にあって恐るべき力をもった勇者を、生贄のようにより強大な力を持つ相手の地へと送り出した。
「サリシオンという人間は、七百年前に死んだんだ」
サリは自分の未来というものに期待していない。
そんなものは無いのだと諦めている。
戦った先には何もなく、
戦い終わった先にも何もなく、
死をもって自由になろうと願った先に待っていたのは魔王としての新たな長い生だった。
まるで世界に呪われているかのように、サリの願いはことごとく裏返しにされた。
そしてその結末を受け止めるには、サリはどこまでも真面目で――そうして、どこまでも『王』だったのだ。
「サリはもう、自由に生きてよかったんだ」
王となったからには王として生きなくてはならない。
王として生きる限りは一族の平穏のために尽くさなければならない。
そんな『なければならない』という強迫観念に似た思いに雁字搦めになったまま、七百年という年月を過ごしてきたのだ。
――本当は、そんなことをする必要はなかったというのに。
「サリ・ユストゥスという命は、サリ・ユストゥスという人の思うままに生きてよかったんだよ」
サリはもっと、我儘に生きてよかったのだ。
魔王は最強の魔族だけれど、何かをしなくてはいけないという決まりはない。
俺が百九代目魔王として日々を邁進しているのも、俺がそうありたいと願って過ごしているからであって、そこには何の強制力もない。自由気ままに生きていいし、過去には自由奔放な魔王だって多くいた。
たぶん俺もまた、他者から見たら『なければならない』症候群にとりつかれた者に見えるだろう。その自覚はあるし、サリに対する言葉がそのまま自分に跳ね返ってくるのも自覚している。
だけど、俺は滅亡という前世を体験したせいだ。
その未来が来るのを阻みたくて、抗っているだけにすぎない。
サリには、そんな抗わなくてはいけない未来は用意されて無かった。
むしろ、今までの人生のかわりに、自由に生きるための場所と命を新たに与えられていた。
男女逆転したうえに種族まで変わってしまったが、新しい生をやり直す機会を与えられていたのだ。
けれどそれを唐突に押しつけられたサリは、それまでと同じように自分を縛ってしまった。
その結果、前世のサリは『転変の魔王』と同じく自分の命と力を次の魔王に渡して消滅したのだ。
「サリ。俺が以前告げた言葉を思い出してくれ」
こうして問題をつきつけて、改めて分かることがある。
サリの魂には大きな歪みがある。
それまでの生き様が、その後の長い生が、呪縛のようにサリを縛り、狂気に落した。
「俺は言ったはずだ。『生きてくれ』と」
その呪縛を解くのは、本来であればサリが新たな生を得た魔族という種族であったはずだった。
だが、当時の魔族達はサリの事情を知らなかった。
唐突に現れた新たな魔王として受け止め、反発し、戦いを挑み、その力を認めて王に戴いた。
誰もサリの諦念を知らず、
誰もサリの呪縛に気づかず、
誰もサリの狂気を指摘せずにきてしまった。
新たな生もまた戦いから始まったために、サリの意識も変わらなかった。
そうして、七百年という年月がサリの心の闇を深めた。
七百年。
それは、普通の人族であれば決して過ごすことの無い長い長い時間だ。
「俺はサリを喪いたくなかった」
サリは冷静だ。
ただ、冷静に狂っている。
「それは、在るがままに在ってほしいという意味なんだ」
たったひとつ自分に残っている、唯一無二の存在。
世界が終ろうと絶対に自分の傍らに在ってくれるひと。
そのただ一柱の存在を道ずれに消滅を選ぶほど――サリの闇と狂気は深い。
「自由に生きてほしいという意味なんだよ」
俺の言葉はサリに届くだろうか?
出口の無い迷路に自らを閉じ込めた王に。
この世界ではまだ生まれて二年にもならない俺の言葉が。
優しく、悲しく、正しく、そして大きく間違っている『黄昏の魔王』を正せるだろうか。
――-その捻じれ、歪み、狂ってしまった因果を。
前世で滅亡すら防げなかったこの俺が――?
「―――」
ふと、声を思い出した。
いつの間にか傍にいて、けれどどこにもいないような淡い気配のひと。
――何かを選べば、別の何かは選べない。
――けれど、坊っちゃんは、魔族も人間も、大事だと思うものは皆、大切に守り抜くと決めたんですよね?
淡い微笑。ほんの少し困ったような。
秘密を抱えている俺の全てを見通しているような眼差しで、いつも俺を見ていてくれたひと。
――貴方はそれでいい。
ああ、そうだ。
俺はそうであっていいのだ。
欲張りでいくと決めたのだ。
迷うな。惑うな。折れるな。諦めるな。ひとの心の深い闇がそこにあっても、手を伸ばしてつかみ取ると俺は決めたのだ。どんな背景、どんな歴史を背負っていようと、俺が気後れする必要は無い。我儘でいい。傲慢でいい。人の心に土足で入る不埒な者と揶揄されていいんだ。
生きてほしいと願っていい。
幸せになってほしいと祈っていい。
サリとオズワルドには、優しい時を生きてほしいと切に思っているのだから。
【百九代目魔王たるレディオン・グランシャリオが、サリ・ユストゥスに希う】
紡ぐのは【魔女の言語】。
【汝、自ら自身の王であれ】
世界の根源に佇む魔女の言葉。
【過去と柵は今この時に破棄された】
世界を書き換え、
【汝、自らの心のままに在れ】
奇跡を呼び寄せる魔法の言語にして――
【戒めと枷は我が名のもと、今この瞬間に砕かれた】
自らの魂の力を込める原初の言葉。
【汝を縛る全ての物事は消え】
命令ととられてもいい。
【汝の前に世界は開かれ】
大事なのはサリの目の前に新しい世界があると指し示すこと。
【汝の行く道を我は祝福し】
七百年前、誰もしなかった新生のための言祝ぎを。
【汝の歩んできた道を我は引き継ぐ】
たぶんそれが、魔王の位を引き継ぐ時、本当になさなければならなかったはずのものだから。
【自由であれ、サリ・ユストゥス】
「…………」
「好きなように――生きていいんだ」
ふと、サリの指が動いた。
魔法の影響でまだ体の自由がきかないらしく、小さく動いただけで指があがることは無かったけれど。
「何故」
瞬いて、光の加減で茜色にも見える、綺麗な深紅の瞳が俺を見る。
「おまえが泣く……?」
その目に映る俺はひどい顔をしていた。
もっと威厳ある姿で言祝ぎたかった。かっこつけておきたかった。けれど溢れてくる思いがどうしようもなくて、オズワルドから伝わってくる思いもどうしようもなくて、気がつけば目の前がずっと透明な液体の中で揺れ続けていた。
溢れてくるのは俺の感情だけじゃない。
「サリが自分で泣けないからだろう?」
傷つき、疲弊し、擦り切れたぼろぼろの魂でただただ義務を果たしていたその人が、自分で流す涙一つもっていないから、こうして伝わって溢れてしまうのだ。
「オレは――おまえがそんな風に泣くほど、かわいそうか?」
「かわいそうだ」
「…………」
「かわいそうだよ、サリ。お前はお前が思うよりずっと、ずっとかわいそうだ」
「…………」
「オズワルドだってかわいそうだ」
「…………」
「分かっているだろう? サリ。自分のことは分からなくても、オズワルドのことは分かっているだろう?」
「…………」
「例えどんな未来を選び取っても、オズワルドは必ずついてきてくれると。人でなくなって、魔王の地位も力も借り物でしかなくても、オズワルドだけは自分のものだと」
「…………」
「世界が滅んでも必ず傍にいてくれるたった一柱だと」
「…………」
視線がオズワルドに向かう。
こんな時でも、ただ真っすぐにサリだけを見つめている死神を。
「人間であったお前が、七百年という長い生を生きるのは想像も絶する苦痛だっただろう。けれど、そのすべてが苦しく痛いだけのものだったか?」
「…………」
「その傍にずっと居続けた者の気持ちをサリは考えたか?」
「…………」
「サリ。サリはさっき、オズワルドを裏切ろうとしたんだぞ」
「!」
初めてサリの表情が動いた。
「オズワルドはサリを裏切らない。例え何があろうと裏切らない。サリがサリ自身を終わらせても、世界の全てが敵になろうとも、絶対にサリの意思を裏切ることはない。けど、サリはオズワルドを裏切ろうとしたんだ」
「オレは――」
「オズワルドがサリより先に消滅したらどうする?」
瞬間、巨大な魔力が場を圧した。意識してのことではないだろう。魔女の鉄槌でまともに動くこともできないサリは、魔力を操る力も拙くなっている。暴発しかねないその力を寸前で別の力が世界に溶かす。
それを一瞥して、俺はサリに告げた。
「サリはそれをオズワルドにしようとしたんだぞ」
言葉を失ったサリの表情に、少しずつ何かが染み込んでいくのを俺は見守っていた。
長い間に凝り固まってしまった闇が、小さく剥がれていくのが分かった。
考えれば、サリを揺り動かすのにサリ本人のことを言ってもさして効果は無かった。
オズワルドが動くのがサリのことだけであるように、サリを揺さぶるのもまたオズワルドのことだけなのだ。
「裏切りが何だったのか、もう分かるよな?」
小さく唇を噛むサリは、なんだか小さな迷い子のような表情をしていた。
「生も死も、全てを捧げられた誓約者が、自らをやすやすと手放すのは――何があっても、オズワルドは必ず自分と共にあることを確信しているからだ」
「…………」
「盛大な心中だ。相当、質が悪いぞ」
それは、前世で見ることになった『黄昏の魔王』と『死神』の終焉。
七百年、拗らせに拗らせた結末としては、およそ最悪なものだった。
人としてありえない長い生に、人として生まれたサリの精神が耐え切れなかったのだろうとは思う。だが、オズワルドの気持ちを思うと同情は出来ない。何の覚悟もなく唐突に存在ごと力を渡され、サリを喪った俺の喪失感も半端なかったが、オズワルドの絶望はそれにもまして計り知れない。
実際、サリの消滅後、オズワルドは姿を消した。神族ですら消滅する凶悪な地下迷宮へ向かったという噂を最後に。
――サリを喪って、自分の存在も消してしまったのだ。
だからオズワルドもいるこの場で指摘させてもらった。
盛大に自覚するといい! 自覚して居たたまれない気持ちでいっぱいになるがいい! そしてサリはオズワルドに全力で謝るといいよ!! あと、俺にもな!!
「……オレは」
気づいてしまったものに戸惑うようにサリが呟く。
生と死は一つの物事の裏表だ。
自由に生きるということは、畢竟、己の死もまた自由に選ぶということに他ならない。
だが、サリはそもそも『生きて』すらいなかった。ただ、自身を大きな枠組みの中の装置の一つとして、動かしていただけにすぎなかった。
生きるということは、生き続けるということは、自らの意思で歩み続けるということだ。
他の何かから無理やり歩ませられているのを、生きている、とは決して言えない。
そのサリが終わりを選んだなら、サリの意思を何よりも尊重するオズワルドは決定を覆せない。
ただ、その意思に従って自らもろとも滅びを選ぶだけだ。
「サリ」
俺はゆっくりと寝台から離れた。
サリはもう、自分が何をしようとしていたのか、気づいている。
客観的な視点でそれに気づいてしまった以上、もう同じ過ちを犯そうとはしないだろう。
だからもう、これ以上はふたりの問題だ。
「オズワルドはずっと、待っていたんだぞ」
たぶん、オズワルドはサリに何も要求していない。
全てを肯定し、全てを受け入れ、ただ傍らで支え続けていたのだろう。
――それはとても、歪な関係だ。
サリが魔王になっていなければ、もっと別の形で、別の結末を迎えていたかもしれない。だが、様々な要因が絡み合って、あの最悪の結末に繋がった。――もっと早く色々と話し合っていれば、サリも無自覚な甘えに気づいて正気に戻っただろうし、正気に戻ったならもう少し自分の命を大事にしてくれただろうに。
「これからはちゃんと話し合え。……もう、重荷も建前も、お前達には無いんだから」
無言のふたりをおいて、部屋を出る。
廊下には誰もいなかった。気を利かせてそっとしておいてくれているのだろう。
三重ほど結界を張り、そのままその場でしゃがみこんだ。
「…………」
ずっと懸念だったサリの命。
歪んだ運命と、捻じれた関係。
あの様子であれば。
もう――
「……大丈夫だよな?」
小さく振り仰ぐ。
何の気配も音もないままに、影のような男が俺を見ろしていた。俺の声になんともいえない微苦笑を浮かべ、ゆっくりと頷いてみせる。
「お疲れさまでした。坊ちゃん」
「……うん」
疲れた。
本当に疲れた。
だから今、赤ん坊に戻るのは仕方のないことだ。
「頑張りましたね、坊ちゃん」
望んだとおり、いつもと同じ腕が俺の小さな体を軽々と抱き上げてくれた。
収まりのいい定位置について、もちもちロールパン腕を伸ばしてポムの首根っこにかきつく。こんなに近くにいても、ポムの気配は感じられない。目に見えているはずなのに、そこにいないような気がするほどだ。もし人の形の空気に触れられるとすれば、きっとポムがそれなのだろう。匂いもしないし、体温もよくわからない。
だけど、俺には温かく感じた。
優しいいい匂いがする気がした。
この腕の中は安全だと。もう大丈夫だと、そう信じられた。
「ポム」
「なんです?」
「……俺は間違っていたのかな」
「……『何を』ですか?」
「あの日、サリから魔王の位を譲られようとした時に、受けなかったのは間違いだったのかな……?」
「…………」
「あの時に受け取っていれば、サリはもっと早く楽になれたよな? 俺が我儘を言わなければ、サリを早く助けることができたよな?」
「いいえ」
ポムの手が優しく背を叩く。
優しい音を紡ぐそのひとが頬を寄せる。俺の小さな頭を包むように。
「一つだけ、事実をお教えしましょう。――あの日、坊ちゃんが魔王の位を受け取っていたら、あの魔王さんは死んでいました」
「ぇ、」
「時の流れというのは、存外、大切なのですよ。あの日、坊ちゃんが魔王になることを承諾していたら、即座に力の譲渡が行われたでしょう。坊ちゃんの制止も願いも届かずに。――けれど坊ちゃんは十年待ってくれと告げました」
「……」
「十年。その期間を設けたことで、あの魔王さんの心に変化が起きました。それだけの時間が経てば終わるのだと、長い長い道の果てに、初めて『終わり』を見出すことができたのです。その変化はとても大きいものです。終わりを見いだせたことで、初めて自分を振り返る余裕が出来たのですから」
「…………」
「周りの変化もありました。坊ちゃんが魔王を継ぐために動いていたことで、グランシャリオ家やベッカー家も魔族全体のために動き出しました。かの魔王と死神は確かに強大ですが、長きにわたって大家を率いてきたグランシャリオ家のような勢力はありません。大家が力を尽くすということは、それほどに大きな意味をもちます。その影響はあのふたりにもありました」
「…………」
「仕事をさぼって出歩くことも、人の大陸に遊びに来ることも、今までのあのふたりには無かったことです。そうできるきっかけを作ったのは、紛れもなく坊ちゃんです」
「…………」
「少しずつ、少しずつ、小さな変化が影響を及ぼし合って、心を縛る呪縛に罅をいれ続けていたのです。――今という時に、解き放つために」
「――――」
「人の心の傷は、一瞬で癒せるものではありません。けれど時という誰もに等しくおとずれる流れが、ゆっくりと癒すことはあります。……後悔しなくてもいいんです。あの日のあなたの選択は、決して間違いではなかった。あなたは、ちゃんと成し遂げたのですよ」
その声があまりにも優しくて。
その腕があまりにも温かくて。
「今日はいつもより甘えん坊さんですね」
顔をこすりつける俺に可笑しそうに笑って、ポムの手が俺の背をトントンする。
ポムの手は魔法の手だ。こうしているだけで何もかも安心に溶けていく。
「よしよし。偉いですよ、坊ちゃん。本当に、よく頑張りましたね」
どこまでも優しい声に目頭を押し付ける。
父様のような、母様のような、けれど二人とは違う優しいその腕の中で――俺は少しだけ、泣いた。
◎
自分のものではないような重い体に、もうずいぶんと長い間思い出すことの無かった昔を思い出した。
いつ終わるとも知れない戦いの中、霧深い森を敗走していた時のことだった。
味方に裏切られ、散り散りになった仲間を出来る限り集めながら拠点へと戻っていた。足元は悪く、視界はきかず、闇夜を進むよりもなお先行きのわからない道中だった。
足先は壊死しかけ、負った傷は倦んで熱を帯びていた。そう遠くない先で死ぬのだと思っていた。
あの時――オズワルドが現れなければ。
「……オズワルド」
呼びかけに、小さく応えがかえる。
手をあげようとしたが、上手く体が動かない。
「手をとってくれないか」
言えば、とても丁寧な仕草で手をとってくれた。
願えば叶えてくれる。
思えば応えてくれる。
それはいつものオズワルドの姿だった。
けれど、思えばオズワルドが自分から何かをしてきたことはなかった。
長く美しい指。褐色の肌。思い出す。最初に出会った時のオズワルドは今と異なる姿をしていた。もっと皺が多かった。背は高く、恰幅も良かったが、七百年以上も昔に出会った死神は、老執事の姿をして自分の前に現れたのだ。
「七百年……」
思い出す。
例え遥か昔の出来事であろうと。
あの日々の記憶は、何よりも深く魂に刻まれている。
一瞬で、心はあの瞬間に還る。
「七百年か……」
思い出す。
不信を募らせ、反発した日々を。
思い出す。
押し問答のような言い合いをした日々を。
思い出す。
戦略を練りながら飲み交わした日々を。
思い出す。
互いの背を守り戦った日々を。
思い出す。
――生まれて初めて、花を捧げてもらった日のことを。
誰にも祝福されず、誰にも認められず、誰にも望まれず、誰にも愛されず。
砂を噛むように食べ物を食べ、夢すら見ず泥のように眠り、もがくようにして生きた泥と灰に塗れた世界に――あの日、初めて、目に鮮やかな白が降りて来た。
「七百年は……長かったな」
決して叶わないとわかっているから何も望まなかった。
希望など抱かず、夢など見なかった。
一度それをしてしまえば、失った時に自分がどうなるかわからなかった。なによりもそれが怖かった。
何も持っていなかったから、それ以上に失う何かを持つことが怖かった。
けれど――
「だが、オレにとっては……全部が全部、辛いことだったわけじゃない」
力の入らない体に動けと願う。動け。動け。動け。動け。オズワルドは決して動かない。自分から願うことはない。何も望まず、何も願わず、ただあるがままを受け止める。どんな矛盾もどんな不条理も、全て飲み込んで力を貸してくれる。例えそれが、自身の望みと真逆のことであろうとも。
何故と、何度問うたことだろう。
決して信じられなかったあの日々の中で、何度突き放したことだろう。
その度にいつもオズワルドは微笑って言った。
まるで当たり前のことを告げるように。
――私は貴方のものですから。
この神は変わらない。人の心がどれほど変わろうと、この神の心が変わることは無い。動け。動け。動け。動け。こちらが動かなければ、絶対に動かないのがこの神だ。
例えばそれは、傷ついた幼子を見守るような。
畏れ、怯え、奪われまいと世界に対して威嚇する子供を癒すような。
ちっぽけな人の子だった頃から続く、誓約者にして守護者の立ち位置を崩さないのがこの神だ。
自らの我を押しつけることなく、こちらの思いを願うのでもなく、全身全霊でただ全てを捧げて生きてきた神だ。あの日、自分に告げた言葉の通りに。
あの日の誓約の通りに。
だから――動け。
「オズワルド」
手の中に熱。
僅かにしか動かなくとも。
ずっとずっと、傍に在ってくれた存在。
「おまえがいてくれた」
もう、建前はいらない。
「七百年……待たせて、すまなかった」