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少年と竜

作者: 藍植りん太

 それはまだ、天使や悪魔、妖精や魔女、呪いや錬金術――それらが普通に人々の隣に存在した時代のこと――




 交易路から外れた、寂れた田舎町の酒場の扉を、みすぼらしい見慣れぬ風体の男が潜ってきた。

「らっしゃい。見ない顔だな、旦那。旅の人かい?」

 酒場の主人が暇そうに体を(もた)げながら声を掛けると、男は被っていたフードを脱ぎながら答えた。

「……ああ。人探しの途中なんだ」

 彼の声は意外に若々しかったが、果てしない苦難と長旅の疲れを感じさせる刻まれた深い皺が、彼を二〇は年増に見せていた。

 男は酒を注文し、グラスを受け取ると、噛み締めるようにゆっくりと一口目を喉に通した。

「旦那、一応訊いとくが、お代は出るんでしょうな?」

 どう見ても金には縁がなさそうな男の格好を見て主人が問う。男は薄く笑って「一杯くらいは大丈夫さ」と呟くと、グラスを置いた。

「マスター、ちょいと尋ねたいことがあるんだ」

「なんですかい? うちはツケは無しだよ」

「そんなに金のことが気にかかるかい」

 男は苦笑しながら、懐から一杯分の代金をカウンターに放った。やれやれ、といった様子の主人を眺めながら、男は「なあ主人」と切り出した。

「家三軒分はある、巨大な竜の話……聞いたことあるかい?」




「なあハンス、聞いたかよ、竜の話」

「おう、酒場じゃその話を聞かねえ方が珍しいな。教会の塔くらいでかかったとか、立派な角があって火を吹いただとか、どこまで本当なんだかわかりゃしねえけどよ。確かルーデル村がそのでっけえ竜に踏み潰されちまったんだろ?」

「お前、そりゃ先週までの話だ。ルーデル村に続いて、メッセン村も全滅してたんだとよ」

「お前……メッセン村っつったら北の森挟んで隣じゃねえか! 次はうちの村なんじゃねえか?」

「ああ。司教様は、竜に化けた魔女の仕業だと言っておられる。魔女狩りの兵隊を王都から呼んだらしい」

「ほう、でも兵隊に竜が倒せんのかね」

「さあな……――お、おい! お前ん店の腸詰(ソーセージ)!」

 肉屋のハンスが振り向くと、汚らしいボロを纏った少年が、今まさに屋台に並べられた腸詰に手をかけたところだった。

「ああッ! てめッ!」

 少年は慌てて腸詰をポケットに突っ込むと、一目散に逃げ出した。しかし、すぐに何者かにぶつかって仰向けにすっ転んだ。

「いてぇ……誰だよ畜生!」

 少年が悪態を吐きながら顔を上げると、そこには豪奢な鎧を身に纏った兵隊の姿があった。少年を追ってきたハンスが、その兵を見て慌てて居住まいを正す。

「あ、貴方様方は……もしや王都からおいでなすった――」

「――この者はなんだ」

 兵はハンスの言葉に答えず、冷酷な視線を少年に向けた。彼らは聖マルコ騎士団――魔女狩りの為王都より召喚された教会付きの騎士団であった。

「へえ、こいつは今まさにうちの店から盗人を働いた、親無しのどうしようもない餓鬼でございやす」

「そうか……ならば、竜に化けるという魔女を狩る前の試し斬りには丁度良いな」

 騎士は鞘から銀色に光る鋼の剣をすらりと抜いた。




「畜生……! 畜生……!」

 盗人の少年――ヨハンは遂に膝から地面に崩れ落ちた。騎士団の連中は完全にただの遊戯として、彼を寄ってたかって剣で斬り付けてきた。ヨハンは自慢のすばしっこさで逃げ続け、致命傷は避け続けたが、左腕と左の腹に剣を受け、最早立っていることもままならない状態のまま、なんとか騎士団を捲き、町の外れ――北の森の際まで逃げおおせたが、既に彼は息も絶え絶えだった。

 親の顔も知らず、盗みで暮らし、あらゆる人々に疎まれ、寄ってたかって迫害され、誰にも看取られず死ぬ。

 彼はただ、全てが悔しかった。

 やがて彼の視界は、その心と同じく、真っ黒に染まっていった。




 目を開けると、日光を遮る深い森の緑だった。

 どういうわけか、ヨハンは生きていた。

「……あ、目が覚めたの……?」

 か細い声がした。彼の顔を覗き込む影があった。女の声。黒いボサボサの髪が、酷い寝癖のように首の辺りで上に跳ねている。

(誰だ……?)

 ヨハンの瞳のピントがその影に合い、さらにその女の姿かたちが明確になってくる。青白い顔。痩せた頬。高い鼻。小さな肩。

 そして――頭蓋の左右、丁度両目の一〇センチほど上部から髪をかき分け天を衝くように雄々しくそそり立つ、一対の巨大な角。

 明らかに、人間のものではなかった。

「お前……例の魔女だな!?」

 ヨハンは跳ね起きようとした。しかし体に力が入らなかった。無理やり起こそうとすると、鋭い痛みが走った。

「動かない方が……いい、と、思うよ……」

 角の生えた少女――普通の女であれば、ヨハンと同じくらいの歳に見える――は、今にも消え入りそうな声で呟いた。

「まだ……傷は塞がって、ないから……」

 ヨハンは自分の纏ったボロを捲ってみた。騎士から攻撃を受けた場所には包帯のように布が巻かれ、血が滲んでいる。

「……お前が、治療してくれたのか? 魔女のくせに……?」

「……魔女……?」

 少女は小首を傾げた。角の大きさからして相当な重さがあるように見えるが、そんなものを感じさせない普通の動きだ。

「……お前、名前は?」

「……トリエ」

「俺はヨハンだ」

 ヨハンは抵抗を諦めて、トリエと名乗った少女の治療に甘んじることにした。どうせこの怪我では、逃げることも倒すこともできない、というのが理由。しかし、生まれて初めて他人から受けた無償の親切を無碍には出来ぬと、ヨハンは心の底で思っていた。




 寝たきりの生活が続く中、ヨハンはこのトリエという少女を観察した。彼女は無口で、あまり自分のことを話したがらなかったので、素性は相変わらずよく解らない。角のことも、竜との関わりも、相変わらず謎のままだった。どうやらこの場所が彼女のねぐららしく、食料や薪を探しに行く以外は、彼女はずっとこの場所に居て、ヨハンの包帯を取り替えたり、採ってきた山菜や木の実を共に食べたりしていた。

「――あ、そういえば……」

 やっと体を起こせるようになった頃、ヨハンはポケットを探り、若干萎びた腸詰を取り出した。元々保存用に燻製されていたものなので、まだ問題なく食べられるはずだ。

「なあトリエ、こんなものしかなくて悪いんだけど、手当と看病してくれたお礼だ。食べてくれよ」

 ヨハンは腸詰を差し出した。トリエが持ってくる食料は植物性のものばかりだったので、きっと肉をあげれば彼女は喜ぶだろうと思ったのだ。

「…………あ、ごめん……私、お肉は……」

 しかし、トリエは腸詰を見ると、申し訳なさそうに目を伏せた。

「なんだよ、肉なんて滅多に食えるもんじゃないだろ。遠慮はいいから受け取ってくれよ。俺にはこれが精一杯のお礼なんだ」

「……うん……分かった……ありがとう」

 トリエは恐る恐るといった様子で腸詰を受け取ると、勢いをつけて齧り付き、一気に飲み込んでしまった。

「おいおい、もっと味わって食えよ。せっかくの肉だぞ」

「……う、うん……ごめんなさい……でも、美味しかったよ……?」

 ヨハンは彼女のその言葉に、満足げに頷いた。




 その夜、ヨハンは異様な物音を聞いて目を覚ました。

 獣の唸り声かもしれない。隣を見ると、トリエが居なかった。

「トリエ! どこだ!」

 ヨハンは身体を引き摺って、音のした茂みの影を覗いた。そこには小さな少女の丸めた背中。その頭から伸びる二本の立派な角。

「どうしたんだトリエ! 襲われたか!」

「……ヨハン……ごめん……ごめんね……私……」

 彼女は泣いていた。その下の地面には、吐瀉物の沼。彼女が吐き出したものであることは明白だった。

「……わ、私……ヨハンが……せっかくくれたのに……」

「トリエ……お前……本当に肉が――」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ヨハンは自分が汚れるのも厭わず、彼女を抱き締めていた。彼女の頭に角が生えていようが、もう気にならなかった。




 怪我が治ってからも、ヨハンは変わらずトリエと二人で暮らしていた。歩けるようになってからは、トリエに食料の採り方を教えてもらい、二人で協力して採集生活を続けた。楽しい日々だった。相変わらず彼女の素性は謎に包まれていたが、最早ヨハンはそれを訊こうともしなくなっていた。彼女の角すら魅力的に思えてきた。そんなある日、塩が足りなくなった。流石に塩は森では手に入らない。村で調達してくる必要があった。

「大丈夫、盗みは慣れてる。トリエはのんびりしてな」

 ヨハンはそう言って夜に森を抜け、騎士に殺されそうになった時以来初めて村に足を踏み入れた。誰にも姿を見られぬよう慎重に、慣れた手管で塩を頂戴し、あとはそのまま森に帰ればいいだけだった。

 突如、闇夜の村に響く巨大な咆哮。

 それは今まで聞いたどの獣とも違う、地の底から響くような恐怖の音響だった。

 地が震えた。何か、巨大な生物が村に近づいている。

「現れたぞ! 竜だ! 寝ている者を叩き起こせ! 篝火を灯し剣を抜け!」

 騎士団が慌ただしく戦闘態勢に入る音が聞こえ、街中に設置されていた篝火が次々と灯った。その明かりが浮かび上がらせたもの――ヨハンは自分の姿も煌々と照らし出されていることも忘れて、呆然とした。

 大きい。ただただ巨大。膨大。教会のドームがすっぽりと収まってしまいそうな体躯。それを支える石柱のような二本の後ろ脚。前足は小さくてよく見えない。そしてトカゲの頭を数万倍に膨らませたような頭と、顎の根元まで裂けた口。その中には刀のような太い歯がずらりと並んでいた。

 間違いない。噂の竜だ。

「やはり奴は北から来たか! 臆するな! 敵は悪しき魔女だ! 神は我らをお守りくださる! 一斉に斬り込め!」

 騎士団が果敢に攻め込むが、正直太刀打ちできそうには見えなかった。それよりヨハンが聞き逃せなかったのは――

「北から――トリエは無事だろうか」

 北の森に住むトリエ。ただ角があるだけの、か弱い彼女がこんな怪物と対面してしまったら……――考えるのも悍ましい。

 ヨハンは北の森へ向かって走り出した。騎士の連中は竜に集中しており、誰もヨハンを見咎める者はいなかった。彼は真っ直ぐ住処をめざし、全速力で帰還した。

 そこに、トリエはいなかった。




 何日待っても、トリエは帰ってこなかった。

(俺のことが心配で村に行ってたら……あの竜に……まさか――)

 ヨハンは意を決し、再び村を訪れた。今度は昼間だ。角の生えた女の子が見つかったりしたら、おそらく噂くらいは耳にできるだろうと思ったからだ。フードを深くかぶり、顔を見られぬよう村を歩いた。

 竜の暴れた爪痕が色濃く残る中、消息はすぐに掴めた。広場に聖マルコ騎士団の名で立札が立てられていた。

『明日、正午に、竜に化けて村を襲い、多数の人々を食い殺した魔女の公開処刑をこの場にて執り行う』

 このような文言の隣に、その魔女と思われる似顔絵が張られていた。

 そこには、一対の立派な角が、はっきりと描かれていた。




 翌日、正午前。広場には村人のほぼ全員が、件の魔女の処刑を観ようと集まっていた。その人ごみの中心には、うず高く積まれた油を染み込ませた薪の山と、その中に突き立てられた一本の柱。そして、そこに縛り付けられているのは、黒髪から二本の長大な角を生やした少女――トリエだった。竜に化け、近隣の村を壊滅させ、多数の罪のない人々を無残に食い殺した恐るべき魔女として、これから彼女は火炙りに処され、神の裁きを受けるのだ。

 村の者達はいきり立ち、村人を食い殺された恨みを込めて彼女に石を投げつけた。しかし彼女は、じっと項垂れたまま全く反応を見せなかった。

「皆の者、静粛に。これより魔女の処刑を開始する」

 司祭が群衆の前に立った。聖書を片手に、この魔女がどれ程の悪行を働いたのか、神がいかに魔女の存在を許さず、厳しい鉄槌を下すことを望むかを、大いに誇張を交えて大袈裟に語った。群衆のボルテージは否応なしに上がり続ける。

「では、神の御名において、開始せよ」

 司祭の号令によって、騎士団員の持つ松明によって、火刑が執り行われようとした時だった。

「待て!」

 一人のフードを被った少年が群衆から飛び出し、盗品の剣を掲げて割って入った。ヨハンだ。

「彼女は無実だ! 即刻処刑をやめろ!」

 ヨハンは肩で息をしながら、震える手で剣を構えた。どう見ても剣は初心者。騎士団員は、面白い見世物でも眺めるかのようににやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら、剣を抜こうとした――その瞬間。

 騎士団員の上半身が巨大な竜に食いちぎられた。

 その場にいた誰もが、何の前兆も感じなかった。

 気が付くとあの竜がその場に居て、血の滴る騎士団員の身体を丸呑みにしていたのだ。

 広場は大混乱となった。

「村民は直ちに村の外へ避難しろ! 騎士団員は周りの家に火を放て! こいつを村ごと焼き殺す!」

 騎士団の者達がてんやわんやになっている隙に、ヨハンはトリエの元へ駆け寄り、彼女を縛っていた縄を解いた。

「トリエ、遅くなって悪い。さあ早く逃げよう」

「……ヨハン……ありがとう……」

「最初に助けてもらった恩を返しただけだ。早く! 竜が他の奴らを襲っている隙に!」

「……駄目……私は行けない……ヨハンはひとりで逃げて」

「はぁ!? どういうことだよ! 馬鹿なこと言ってないで――」

「……私もね、魔女なの……あの子と同じ……」

 トリエは震える手で、暴れまわる竜を指差した。

「……どういう……意味だよ……」

「……私じゃなきゃ駄目なの……私しか……あの子を止められない……」

 トリエは衰弱した身体で、しかし確かな力を持って、ヨハンの身体を押しやった。

「何言ってんだ! 早くこっちに……うわっ!」

 彼女を連れ戻そうとしたヨハンとトリエの間を、騎士団が村に放った炎が遮った。

「トリエ! トリエエエエエエエエ――ッ!」

 ヨハンの叫びを聞いて、トリエはにっこりとほほ笑み、何かを言った。それは「ありがとう」とも「ごめんなさい」とも「さようなら」とも見えた。そして、彼女は変身した。

 もう一体の竜に負けない程に大きな四本足の体躯。その首には骨の突起を周囲に配置した襟巻のような扇方のフリル。そして目の上に一対、鼻にもう一本の長大な三本の角。

 その竜――トリエは、もう一体の怒れる竜に真っ直ぐ突進していき、炎の中に消えていった。

 やがて咆哮も消え、どちらの竜もいなくなった。炎が消えた後捜索が行われたが、いかなる痕跡も発見できなかった。




「さあ……竜なんて聞いたことないな」

「そうかい。そいつは残念だ」

「力になれずに悪かったね。つまみでもどうだい。干し肉ならすぐに出せるよ」

「いや、遠慮しておく」

 男は残りの酒をぐいっと一気に飲み干した。

「肉はね、食わないことにしてるんだよ。願掛けってやつさ。俺の探し人が、肉を食えない奴だったもんでな」

 男は、過去を懐かしむように、遠くを見つめていた。




 それから数百年後の現在、彼女たち二頭の竜は、今や全く別の名前で我々によく知られている。

 その名を、ティラノサウルス。

 そして、トリケラトプス。

 しかし、その竜の逸話と、それを追い求めた男の話は、この世界のどこにも伝わってはいない。


〈了〉

部誌用に書き下ろした短編。やっぱり規定ページ数ギリギリだったので展開は駆け足ですが、書きたいことは書けたのでそこそこ満足。

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