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妻の秘密の部屋は、私たちの寝室の壁の中だった。私の隠し扉と同じ仕組みの扉を壁に埋め込み、部屋を作っていたのだ。しかしその部屋は私のものよりもはるかに広く、殺風景だった。部屋の真ん中にベッドが一つあるだけの、コンクリートの打ちっぱなしの部屋だ。そこはとても無機質で、私の拷問器具の部屋より恐ろしいような気がした。
気絶した妻を引きずって部屋から出て、逃げないようにキッチンの椅子に縛り付けた。
「じゃあ、俺の妻を殺したのはあんたの女房なんだな」
「ええ。妻が、申し訳ありません」
「いや、あんたも殺されかけたんだしな」
ジョーンズさんは私にもう暴言を吐くこともなかった。むしろ私よりも落ち着いて見え、先ほど怯えていた彼とは別人のようだ。とりあえず警察を呼び、彼にはリビングで待っていてもらうよう伝えた。警察は三十分ほどで到着するらしい。それまでに私は自分の秘密の部屋を隠し、準備をする必要があった。
彼には、警察が到着するまで外の空気を吸ってくれば良いと提案した。自分の妻の死体を見たのだ。彼は尊敬すべき愛妻家とまではいかないようだが、少なからずショックを受けているはずだった。彼は私の提案をあっさり受け入れ、疲れたように微笑みながら外へ向かった。彼は案外、私が思っているより短絡的な人間ではないのかもしれない。それでも、私の家を荒らしたことは許し難くもあったが。
私はキッチンへ戻り、妻の頬を乱暴に叩いた。呻きながら目を覚ました妻は、自分の置かれている状況が分かっていないようだった。騒がれては困るので、私は早々に妻の口を塞ぐことにした。永久に。
うつろな妻の目を見つめながら、私は刃物を振りかざした。
「私も、君のことはとても好きだったよ」
外に出てみると、ジョーンズさんが玄関ポーチに腰かけてうなだれていた。無理もない。妻は不倫しているどころか殺されていたのだ。彼は私の近づく足音を聞いて顔を上げた。私は彼に微笑みかけた。
「あんたも大変だな、これから」
「そうですね。退屈な休日だと思っていましたが、散々な目に合ってしまいましたね」
私たちはお互い、古くからの友人のように笑いあった。初めて電話で叫ばれたことを思い返すと、とても不思議な気分だった。警察はあと十五分ほどで到着するだろう。
「そういえば、あんた」
ジョーンズさんが私に問いかけた。
「なんでしょう」
「あのおぞましい拷問部屋は、本当にただの趣味なんだな」
「拷問部屋なんて、そんな。あれはただの私の秘密のコレクションルームです」
そう、あの部屋で拷問を行うなんてとんでもない。あの部屋はあくまでもコレクションを並べておくだけの部屋であり、あの場所で血が飛び散ることはこれまでも、そしてこれからも決してない。それに私は拷問道具そのものが好きなのであり、それを使うことに大して興味はない。しかし、私の興味の有無に関わらず、道具は使わなければ古くなってしまう。人の生き血をすすっていれば輝きは失われないが、役目を果たせない道具たちは、どんどん老いて行ってしまうのだ。それだけは避けなければならない。だから私はときどき道具を磨いてやり、手入れをする。しかしただ手入れをするだけでは道具本来の輝きは保てない。やはり血を吸わせることが一番の栄養になるのだ。
「そうか、なら良いんだ。趣味なんて人に言うもんじゃないしな。誰が何を好きだろうが、どうでも良いんだ、そんなことは。あんたがその道具で誰かを拷問にかけるわけじゃない」
ジョーンズさんは根は良い人なのだろう。私は彼に対して好感を持ち始めていた。それと同時に、これまで馬鹿にしてきたことと、これから彼にしなければならないことを思って、心の中で謝った。すると彼が、また口を開いた。
「なあ、本当にあんたはあの部屋を隠しておくつもりだったのか?そんなに隠したい部屋のロックをし忘れるなんてことは…」
彼が言葉を言い終わらないうちに、私は彼の首に刃物を押し当てた。ずっと後ろ手で隠していたのだが、ジョーンズさんは全く気付かなかった。彼は相当思いつめているようで、明らかに不自然な私の歩き方にも何の疑問も持たなかった。私は彼の質問に答えた。
「あり得ないですね、そんなことは。私は潔癖症で、他人を家の中に上げるのは耐えられないんです。でももし、誰かを家に入れなければならないとしたら、自分の秘密は完璧に隠すでしょう。そんな私が、一番大事な自分の秘密を隠し忘れるわけがない。」
私はじりじりと刃物を移動させ、彼の心臓の上を撫でた。刃物を通して鼓動が伝わってくる。早く血を吸わせてくれと、刃物が懇願しているようだった。
「あなたに部屋を見させる。そこでちょっと脅す。本当にそれだけのつもりだったんですよ、あなたが気絶するまでは。でもそのとき、私はあなたとの電話を思い出した…」
そう、私は彼が電話口で言った「でかい中華包丁で殺す」という言葉を利用させてもらうことにしたのだ。
「あなたが私を罵倒したこと、あなたが私の家に来てしまったこと、私の妻があなたの奥さんを殺したこと、私が妻の殺人を暴いたこと、あなたが私を助けたこと。全ては私のために起こったとしか思えないような出来事でした。私、いつも通話は録音しているんです。あなたが私を脅したことも、しっかり記録されてしまっているんですよ」
絶望というのは、こんな表情のことを言うのだろうか。今日はジョーンズさんのいろんな顔を見た。初めて彼の顔を見たときは、こんなに穏やかに話し合う関係になるとは思っていなかった。もっとも、私がこんな風に彼に凶器を突きつけることも想像も出来なかったが。
「けれど、実際にあなたを殺そうと思ったのは、ついさっきですけれどね。私も妻に殺されると思っていましたし。あそこで私が殺されれば、あなたが死ぬことはなかった」
人生とは分からないものだ。先ほどまで、私は映画に退屈して欠伸をしていたのだ。ほんの少しの食い違いが、誰かを殺して生き延びるチャンスを作る。私はこのチャンスを逃したくなかった。この中華包丁に久しぶりに血を吸わせてあげたかった。
「もちろん、少しはこれらの拷問器具を使ってみたいと思っていました。これらの手入れのためだけではなく、私が誰かを苦しめるために」
でも今はそんな時間はなかった。あと少しで警察が来てしまうだろう。この中華包丁も、誰かをじわじわ苦しめるためでなく、あっさりと殺す方が用途として正しいと思う。私は彼の心臓の上にまっすぐ包丁の切っ先を当てた。
「私はあなたを殺します。でもご心配なく、あなたの血は無駄にはしません。私の愛しきコレクションの、大切な養分となりますから」
彼は何か言いかけたが、その言葉が私のもとに届くことはなかった。それより先に、私が中華包丁を彼の心臓に突き立てたからだ。彼は驚いたように私を見て、そして自分の胸を見た。溢れだす血に慄いたのだろうか、彼の目は刃物が自分の体に突き刺さっている部分にくぎ付けになっていた。そこから視線を逸らそうとしない。そこで私は彼がもう眼球を動かすことは出来ないのだということに気付いた。
私は急いで刃物から指紋をぬぐい、彼の手に握らせた。ソフィアの死体は元の位置に戻した。警察が見つけてくれるだろう。妻は殺した後、その体を縛っていた紐をときキッチンの床に転がしておいた。勿論今度は秘密の扉は固く閉じてある。妻の秘密の処刑部屋は開け放っておいた。これで警察は彼女が殺人犯だということを結論付けてくれるはずだ。私は玄関ポーチに座り込み、警察が来るのを待った。
私の言い分は警察に聞き入れられた。警察は、私が家に帰ってきたときすでに妻は殺されており、ジョーンズさんも玄関で心臓を一突きして息絶えていた、という話を信じた。残念ですが、と警察は私から目を逸らして言った。
「奥さんがソフィアさん殺害の犯人ということで間違いなさそうです。彼女の遺体はあなたの家の物置から発見されました」
ジョーンズさんは私とソフィアさんの不倫を疑い、私を殺すつもりで中華包丁を持ち、私の家に乗り込んだ。しかしそこで私の妻がソフィアさんを殺した事実を知り、怒りで私の妻を殺し、あまりの悲しさから気が狂ってしまい自殺した、というのが警察の出した事件の結論だ。ジョーンズさんにとって何とも不名誉な結果になってしまい、彼に申し訳なく思った。自分の思い通りになったが、警察にそう説明されるとなんだかとても信じられなかった。彼らはよくこんな結論で納得したものだ。しかし警察なんて案外そんなものなのかもしれない。私は特に疑われることもなく、凄惨な殺人現場を目撃した憐れな夫として世間に公表された。私はとても悲しかった。妻が殺人を犯したこと、ジョーンズさんが死ななければならなかったこと、全てが悲しかったのだ。そして何よりも、私の愛しいあの中華包丁が警察に押収されてしまったことが、私を落ち込ませた。凶器になったのだから当然なのだが、もうあの中華包丁を手にすることが出来ないと思うと、涙が止まらなかった。せめて最後に浴びた血によって、渇きが癒されたことを願った。
私に今できることは、一刻も早く普段の日常に戻ることだ。とりあえず、あの映画をまた見ることにしよう。八回目になってしまうが、暇つぶしにはちょうど良いのだ。そしてごくたまにあの隠し扉を開けて、愛しきコレクションにそっと触れる。それが私の望む退屈な日々なのだ。




