閑話
緋色の鎖が私を縛る。
しかしそこには苦しみは介在しない。
あるのは只、滾滾と流れゆく時間だけ。
逆さまになったその時計の上側がゼロを示すとき。それは私という存在の消失を意味する。
私は待ち遠しかった。解放の時、その先に待つはずの永遠が。
苦しみのない苦しみから解き放たれる、その瞬間が。
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味気ない部屋だった。置いてあるのは机と椅子、ベッド、それから砂時計がひとつ。
それだけだと説明が足りないのかもしれない。なぜなら、その部屋の七割は砂時計が占めていたからだ。あとから考えてみると普通ではありえない大きさのそれは、その頃の私にとっては当たり前だった。むしろつい最近、砂時計の本来の大きさを知ったくらいだ。
その、上部と下部にそれぞれ人間が二人ずつくらいはすっぽり入ってしまいそうな馬鹿でかいものを設置するためか、部屋の天井は高かった。
そこに私はひとりだった。まるで、かごに入れられているカブトムシかなにかのように、ひとりだった。
そしてそのカブトムシという表現はあながち間違いでもないのだ。子供は自由研究に昆虫を使うだろう。同様に、大人たちは自分の研究に私を用いたのだ。理由は簡単、身寄りがないから。失踪しても、捜索届けが出ないから。
彼らはまず、私から痛みを取り除いた。人体において、危険を回避するためのサイレンのような役割を果たしている、痛覚をだ。これも理由は簡単だ。いらないから。私の痛覚がなくても、研究には支障をきたさない。むしろ、私が痛みに苦しみ泣き叫ぶほうが彼らにとって煩わしく思えたのだろう。
次に、彼らは私の脳をいじってリミッターのようなものの機能を制限した。私には専門的過ぎて理解が及ばない話なのだが、彼らがお偉いさんにめんどくさそうに話していた内容から察するに、外部からの操作によって普段人間の脳が無意識に行っている身体機能の制限を解除することができる云々、ということのようだ。端的に言ってしまえば、さしずめ私は自らの体を顧みずにいくらでも力を発揮して戦うことのできる、都合のいい兵隊といったところか。兵隊というのも、私はどうやらどこぞの軍に売り飛ばされるような話が漏れ聞こえてきたからだ。
それはそれでいいと思った。この地獄のような日々から脱せられるのなら、いくらでも人殺しにでもなんでもなってやろう、心からそう思えた。
それを聞いて道徳がどうとかほざく人は、一度経験してみるといい。自分の指を、小指から順に一本ずつ折っていっても痛くない。目の前のモニターで、自分の脳が弄ばれている光景が繰り広げられている。昨日いたはずの他の被験者が、今日いない。
ここはそんな世界だ。
神なんて、いない。
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ある日、それは突然のことだった。
私は砂時計の部屋を出た。移された先は、今思えばまさに子供部屋、といった様子の空間。
そして先客。大人しそうな男の子が、そこにはいた。そして男の子の両親らしき二人。どうやらこの人たちが私をここへ導いたようだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。
初めての経験だった。同世代の子供と、普通に、おもちゃを使って遊ぶ。私はいくつもの列車を粉砕し、人形の首をもぎ、車のドアをねじ切った。その度に男の子を泣かせてしまい、おろおろしていた私を、二人は叱らなかった。二人が教えてくれた手加減を覚えるのに、ひどく長い時間を要した。しかし、私はそこに暖かな日溜まりのような喜びを見出していた。それまでの私は、覚えることに苦痛を感じるような経験しか積み上げてこなかった。しかしここでの生活は、全てが今までと逆転していた。これまでは、起きている時間は辛かった。眠れば、このまま目覚めなければいいのにと毎回思った。今は、起きている時間が楽しかった。眠っている時間がもったいないほどに、幸せと忘れていたはずの笑顔に満ちていた。
そして、やがて私が物を壊す頻度が半減したくらいの頃、見知らぬ女の子がこれまた見知らぬ女性に連れられてやってきた。その女性は私をここへ連れてきた二人と旧知の間柄だったらしい。三人で何やら難しそうな議論を楽しげに交わしている姿を見るのは珍しいことではなかった。そして新たな子供はというと、当初は完全にその子の親のように見える女性の後ろに隠れてしまっていた。しかし、私と男の子が一緒に遊ぶことの楽しさを説くうちに、徐々にその表情も和らいでいき、いつしか遊び仲間がひとり増えていた。子供というのは簡単で、頭が悪くて、そして何より幸せな生き物なのだろう。私は既に、どん底という言葉すら生ぬるいようなあの日々の記憶を薄れさせていっていた。
しばらくして、再びあの女性がやってきた。今度は、また新しい女の子を連れてだ。その子供は、いつもどこか達観したような目つきで遠くを見ていた。話しかけても、一言二言簡潔な返事が返ってくるだけだった。無感情なその瞳に底知れぬ何かを見たのか、私はその子が苦手だった。しかし、もうひとりの女の子はその子に果敢にアタックを仕掛けていた。男の子もはじめはそれに加勢していたのだが、あまりの無感動さに早々に諦めてしまい私と一緒に遊ぶことを選んだ。しかし、彼女は諦めなかった。何度も何度も、繰り返し。色々なこと、色々な言葉、色々な仕草。彼女は彼女なりに、自分の持てるすべてをぶつけていったのだろう。
その努力が実ったのか、ある日無感動な少女は彼女にこう言った。「どうしてそんなに私に構うの」と。そして彼女は即答した。「たぶんあなたを好きだから」。
少女は彼女にだけは心を開くようになった。そしてそんな二人を遠巻きに見つめる私と男の子の二人との間には、知らぬ間に溝が出来てしまったように感じた。
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変化は突然に訪れた。朝目を覚ますと、あの無感動な少女は忽然と姿を消していたのだ。
彼女は泣いた。一日中、一晩中、三日三晩泣き続けた。泣き疲れると眠り、目を覚ますとまた泣いた。そんな彼女を私たちと一緒の部屋に置くことが良くないと思われたのか、彼女もまた、気づくと部屋からいなくなっていた。
私たちはまた、二人になった。しかし、男の子は時々急に泣き出してこう言うのだ。「たくさんいたほうが楽しいのに」と。私はそれを聞くのがたまらなく嫌だった。私だけでは駄目なのか。私だけでは足りないのかと、そう思ってしまう自分も嫌だったのだ。
そして男の子が何度目かのその言葉を口にしたとき、私の中で何かが切れた。部屋中の物という物を壊し、壁という壁に穴を穿ち、床全面を深く抉りとった。
そして私も、そこからいなくなった。
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それから、その部屋にいた三人やあの女性がどうなったのかは全くわからない。しかし今では、例の無感動な少女でさえも懐かしく思えてくるのだ。
そして私は預けられた二人の元で大きくなり、自分の意志でこの町へとやってきた。
彼がそこにいると、二人から聞いたから。
これが私の物語。
第03研究施設の地獄の底の底から救い出された少女の、記憶が語るストーリー。
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