転調
俺は学校を休んだ。昨日感じた気怠さが、朝になっても解消されなかったからだ。
試しに熱を測ってみると、なんと38度越えをマークした。
これで学校に行くのは無茶な話だろうと判断し、優人にメールで伝えたのだ。
しかしいらない心配をかけるのも良くないと思い、メールには「だるいからサボる」と入力しておいた。今時不良ぶるのは流行らないとは思うが、俺にはこのくらいが丁度いい。
実際、普段の生活には困らない程度には動けるため、だれかの助けが必要というわけでもなかった。
しかし、優人からの返事は意外なものだった。
「今、どこにいる?」
なぜ居場所を聞くのだ、気持ち悪いと思ったが一応嘘はつかずに家にいるとだけ送信する。するとすぐに――今は授業中のはずだが――返信がきて、その内容に俺は目を疑った。
「早夏ちゃんが心配だからって飛び出して行っちまったんだよ。先輩の居場所がわかったら連絡してください、って言ってさ。おかげで後輩の女の子のメアドと電話番号ゲットだぜ!」
優人が馬鹿なのは相変わらずだが、早夏がそんな行動に出るとは全く予想だにしていなかった。つまり、そのうち早夏はここへやってくるということだろう。
意外と押しの強い後輩のことを思うと、俺は掃除をせずにはいられなくなった。
そして数十分後、来客を知らせるインターホンの音が鳴り響いた。
迷いはあったが、俺は鍵を開け来客を迎え入れた。
・・・・・・・・・・・・・・・
少年は少女を家に招き入れたようだ。少年を案ずる声と、それに対して心配するなと答える声がすぐに聞こえてくる。
「本当に大丈夫なんですか、怪我も病気もないんですかっ」
「大丈夫だから。少し疲れてた、それだけだ」
しかし少年は嘘をついている。彼は自分の身体に起こっている異変に気づいていないはずがないのだ。それは普通の人の視点から考えると体調不良、と取ることができるような変化だ。
大きな転機となる、その刻は近い。
「ほんとですか……?無理、してないですか……?」
「だから大丈夫だって。何でそんなに疑うんだ?」
「え、いや、その」
しどろもどろになる少女。雰囲気は和らいだようだ。
そして気づき始めるのだろう。
彼らが今、外界と隔絶した場所で男女二人きりだということに。
「疑ってなんか……ないですよぉ……」
「い、いやそんなつもりで言ったんじゃ……泣くな、泣くなって」
「なんちゃって、嘘泣きです」
「……脱力した!」
互いに懸命に意識しないようにしている様子が見受けられるが、限界に達するのも時間のうちだろう。あと二言三言交わすか交わさないかのうちに、毛色の違う沈黙が場を支配すると予測を立てる。
「先輩ったら、女泣かせなんですからぁ、もう」
「それはちょっと意味が違う……」
「じゃあ、どういう意味なんですか?」
予想が外れた。
少年と、心なしか距離を詰めた少女。
もう少しおとなし目な少女かと思っていたが、案外アグレッシブな一面もあるようだ。この場面で攻めに入るとは、思いもよらぬ展開だ。
「え?」
「女泣かせ、ってどんな意味なんですか?」
「それは……プレイボーイ的なあれだろ」
「先輩は?」
「……?」
「先輩は、ならないんですか?――プレイボーイに」
下手な誘い文句だと思った。
しかしここで突っ込み待ちかと疑うような台詞に釣られて姿を現してしまっては元も子もない。我慢する。
「それってどういう……」
「こういうことです」
少年に身を寄せる少女。
甘ったるい空気が部屋に充満し、今にもこちらまで薫ってきそうだ。
「さ、早夏!?」
「じっとしててください、先輩……」
少女は少年と向かい合わせに立つと、その腕を少年の体に巻きつけるようにして触れた。
こんなところを覗き見しているかと思うと自分で自分を、なんて趣味の悪い、と罵りたくもなる。
と、少年は突然自分の頭を抱えたかと思うと、苦しげにうめき声をあげ始めた。
「う……あ……?」
「……先輩?」
「ぐ……がぁ……ぁ」
「先輩。どうしたんですか、先輩っ!」
少女の叫ぶ声も虚しく、少年は両手で髪を掴むようにしながらその場に崩折れた。
額には脂汗が浮き、喉から絞るようにして出す声も徐々に苦しげなものになっていく。
「う……がぁぁぁぁぁ!?」
「先輩!!成也先輩!!」
少女の叫びすらかき消すような呻きが聞こえるようになってどのくらいが経っただろうか。少女に抱きしめられるような形になっていた少年は、これまた突然呻くのを止めた。
「あ……先輩」
「さ……な……?」
少年は少女の頬に涙の跡を見て取ると、なんのためらいもなくそれを舐めとった。
「ひゃっ!?せ、先輩っ」
「じっとしててくれ……綺麗にするから」
唾液で綺麗になるという話は聞いたことがないが、兎に角少年は少女の顔を舐め回したくて仕方がないようだ。何かとこじつけてペロペロしようという魂胆だろう。
……と、冗談はさておき、どうやら変異は始まったようだ。
あとは事態がどうなるか、その推移を見守るより他はない。
「く、くすぐったいですよ……先輩ぃ……」
「可愛い声出すなよ……襲いたくなるだろ」
「せ、先輩!?」
「早夏が悪いんだぞ……プレイボーイにならないか、なんて言うから」
人のせいにするな。……まあ、スイッチを入れてしまったのは間違いなくその少女ではあるのだが。
「だからって、襲うなんて……そんな」
「襲われるのはイヤか?」
「イヤ……じゃないです。――先輩になら」
完全にふたりして出来上がってしまっている。このままいくと、もしかすると……。
嫌な予感が胸をよぎる。
「早夏……好きだ」
「せんぱ……んっ……」
男とはなんて身勝手な生き物だろう。一方的に言っておいて、相手の答えも待たずに口を塞ぐなんて性急すぎるにも程がある。それほどまでに溜まっていたということだろうか。
そこまでで思考を切り上げ、視線を逸らす。
上を見上げると、さっきまで夜の頂点で輝いていたはずの月が、舞台裏に引っ込んでしまっていた。あるのは只、暗い色のグラデーションだ。
それはまるで今の私の胸の内のようで。
時々嬌声が上がる室内に背を向け、そっと立ち去る。
計画は、大幅に軌道修正しなければならないようだ。
・・・・・・・・・・・・・・
「……ダメね」
「そうね。……そう簡単にいく話ではないもの、仕方がないわ」
「でも、これじゃああの子は……」
「……でも、どうしようもないことよ。人間、あきらめが肝心な時だって――」
「でもそんなの認めたくないッ!!」
「…………」
「……ごめんなさい。取り乱してしまったわね」
「いいえ。あなたは……いえ、それも当然のことだと思うわ」
「でも……こんなのって」
「…………」
「ねえ、碧……?」
「何、夏葉?」
「私って……ダメな母親よね」
「そんなことはないわ。現に、こうしてあの子のことを想っている」
「でも、私はあの子に何もしてやることができない……目を見ることも、手に触れることも、抱きしめてやることも、……今の私には、それができない……そんな資格なんて、ない」
「夏葉……」
「ごめんね、碧。ごめんね……」
・・・・・・・・・・・・・・・