冷氷
俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
行かなければならない。
そう、彼女が待っている、その場所へ――。
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「志島っ!!」
「はいっ!?」
「お前なぁ……居眠りも大概に、というかバレないようにしろ……って、なんだ志島。お前、顔色悪いぞ。大丈夫なのか?」
「あ……いや、大丈夫です。ちょっと悪い夢を見てて」
「やっぱり寝てたのか……今度からは俺に気づかれないようにしろよ」
「すみません」
授業中、俺が居眠りするのは珍しいことではない。
だが、夢を見るほどに深い眠りに落ちたことは今までに一度もなかったのだ。
それが、あんな夢を見るなんて――。
「あれ……?」
「どうしたの、成也君?ホントに体調悪いとかないの?保健室行く?」
「大丈夫だって。ただ、さっきまで見てた夢の内容が思い出せなくて気持ち悪いだけだ」
「そう?ならいいんだけど……」
茜が心配そうに声をかけてくる。そんな茜に嘘をつくのは心苦しかったが、いらない心配をかけさせるよりはマシだろう。
幸い、それほど調子が悪いわけでもない。今日の授業に全て出るくらいはどうってことないだろう。ただし、五、六限の日本史と世界史のタッグは眠り込むに限る。
「おい、成也。どうしたよ、お前。見た感じマジで気分悪そうな奴の顔してんぞ?」
「優人……いや、大丈夫だ。二人とも、心配かけてごめんな」
「おいおいおいおいお前らしくもないな。実はつわりがきてるとかなんだろ?無理すんなって」
「な、……成也君、本当なの……?誰の子なの……?」
「おいおい」
いつも通りのコントが目の前で繰り広げられる。
病は気から、とはよく言ったものだ。楽しい気分になればなるだけ気分の悪さは遠くへいってしまう。
しかし、今の俺はそのコントに混ざろうという気分ではなかった。
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「先輩、大丈夫なんですかっ!?」
「海……早夏。どうした、教室まで来るなんて――っていうかどこで聞いたんだそれ」
「か、風の噂ってやつですっ。それよりも先輩の体ですよ、体!私はそれが目的でわざわざ来たんですから!」
「それじゃあ俺を襲いに来たみたいじゃないか」
「……えええ!?ちがちが、違いますよっ、私は先輩をちがっ」
「……珍しい噛み方したな」
「だからちがっ……あのですね。私は先輩を心配していたのですよ。授業もロクに耳に入ってこなくて、思わず授業中に先輩の名前を叫んでしまうほどに……!」
「それは絶対嘘だろ」
「とにかく!本当に大丈夫なんですか……?」
「ああ、大丈夫だ。心配してくれてありがとな」
「そ、しょんな……私、先輩に何かあったら……って思うと、うっ……」
安心したのか、すごい剣幕でまくし立てていた早夏は急に顔をくしゃっと歪めると、壊れた蛇口のように号泣し始めた。
「う……えええ……ん」
「お、おい……なんだ、どうした急に」
「だって……だって、先輩……よかったぁ……ひくっ」
「お、おい……志島が女の子泣かせてるぞ」
「それにあの子、一個下じゃないか……?」
「うわ……後輩の女の子泣かせるとか、志島最低」
「ほんと……ちょっと、がっかりかも」
俺のクラス内での評価が着実に下がっていく。
このままではまずい、と直感した俺は早夏の手を引いて廊下へ連れ出した。
「ちょっと、落ち着こう。外行けるか?」
「は……い。ぐす、ぐす」
二、三分ほど経った頃、目の周りを真っ赤にした早夏は加えて頬も真っ赤に染めて、
「……ごめんなさい」
「いや、いいよ。それだけ心配してくれてたってことなら、俺は嬉しい」
「先輩……」
なんだかいい雰囲気だ。
そんな時に限って、いらないことを考えてしまい、自分を追い詰めるのが俺の得意技だ。
早夏は俺のことを、本当はどう思っているのだろうか。
慕ってくれているのは、わかる。それは先輩としてか、それとも、
「先輩」
「うあっ!?……ごほん。ど、どうした」
「……どうしたんですか?やっぱり、何かおかしいです。先輩」
「だからなにもないって。それで、どうかしたのか?」
「あ、その……授業が始まっちゃいそうだから、帰ろうかと」
「あ、そうか……それじゃあ、またな」
「あ……いえ、なんでもないです。さようなら、先輩」
……それとも、異性としてか。
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ようやく一日の授業が終わった頃には、俺は何故か疲れきっていた。
もう一刻も早く帰って寝たい。そう思うほどに体はだるく、熱さえあるように感じた。
そしてそんな時に限って、普通ではないことが起こるのだ。
「また会ったわね。志島成也」
「……お前は」
家へ向かう途中の道。その真ん中に、あの夜と同じように黒い少女が立っていた。
こちらを真っ直ぐに捉える瞳には、質のいい宝石のように曇りひとつ見られない。
黒猫は黒猫で、置物かと思うほどに座ったまま不動を貫いていた。
「要件を言うわ」
「待て。こちらも言いたいことが二つある」
「……聞くわ」
「まず一つ。お前の名前をまだ聞いていない」
「……碧。此花、碧。それが私に与えられた名前」
「じゃあ、碧でいいな。……それで、二つ目。俺は今日疲れているから、すぐ帰りたい。だからとっとと済ませてくれ」
「それはできない」
俺の言葉に即答する碧。困惑と怒りがないまぜになったような感情が俺の中に起こる。
「……なんでだよ」
「あの子が寂しがっている」
「あの子?」
「そう。いつもの河原にいる。今すぐ会いに行って」
「河原……って、まさか」
河原というキーワードから連想される「あの子」に心当たるのは一人しかいなかった。
繊細な硝子細工のように輝く、白銀の髪を持つ少女。
メシア。
「どうしてそんなに驚くのかしら。あなただって、心の奥底では私とあの子の関連性を疑っていたはずよ。そうでしょう?志島成也」
「それは……そうだけど」
「早く。急いで、残り時間は少ない」
「どう言う意味――」
「早く」
問いかけは遮られ、ただ物音一つない気怠いような夏の熱気が辺りを包んでいる。
俺には選択肢は一つしか用意されていないようだった。
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ここを訪れるのはひどく久し振りなような気がした。実際には二、三日空いただけのはずだが、それほどまでに密度の濃い日々を過ごしていたということだろうか。鬱蒼と生い茂る緑色に足を撫でられながら、斜面を川辺へと下っていく。橋が近いこの辺りに、あいつはいつも潜んでいるはずだ。
「……遅いぞ、ナリヤ」
「ああ、いたのかメシア」
「ずっといた」
「……お前、泣いてるのか?」
時々鼻をすするような音が聞こえていたかと思えば、注意深く見るとその少女は頬に幾筋もの涙の跡を残していた。
「な、泣いてなどおらん!……か、花粉症だ。ずび」
「花粉症……って、神様の娘が随分と庶民的な悩みだな」
「う、うるさいうるさい!」
腕を振り回しながらこちらへ向かってくるメシアの頭を軽くぽん、と抑えてやると、その回す腕はリーチが足りず、空回りするのみになってしまっていた。
「ぐぬぬ……な、ナリヤのくせに……」
「くせに、とは何だ」
「……ナリヤはいじわるだ」
振り回す腕を下ろしたかと思うと、今度は膝を抱えてしゃがみこんでしまった。
正直言うと、今こんな小さい子供のようなメシアの相手をするのは、非常に体に堪える。
早く帰りたいな、そんなことを俺は考えていた。
するとメシアはその考えを見抜いたかのように、
「……次はいつ来るんだ」
「え?」
「次はいつ来るのか、と聞いているんだ……それがわかっていたほうが、待つ苦しさも少しは軽減されよう」
「メシア……」
一人ぼっちは、寂しい。そんな当然のことを、俺はたくさんの友人たちに囲まれる毎日の中で忘れてしまっていたのかもしれない。
メシアは寂しかったのだ。ずっと、人気のない河原に一人ぼっちで。
俺が会いに来なければ、彼女はずっと一人きりなのだ。そんなの辛いし、苦しいに決まっている。なのに、その小さな女の子は、今の今まで少しの弱音も漏らさなかった。俺が、 自分から気づくのを待っていたかのように。
しかし、彼女は孤独に耐え切れず俺にその片鱗を見せた。ここにきて、初めて弱さを見せたのだ。俺は彼女がこんなにも追い詰められるまで、気づかなかったのだ。
自分が、情けない。
そんな罪悪感を少しでも和らげたくて、俺は答えた。
「明日」
「……え」
「明日、また来る。必ず、来る」
「……本当か」
「ああ。約束する。ついでに言えば、できる限り毎日来るようにする」
「……ナリヤッ」
靡く銀色が、俺の胸に飛び込んでくる。
ずっと外にいるはずなのに、嫌な臭いは少しもせず、それどころかどこか懐かしいような――俺にはよくわからないが、こういうのを久し振りに帰ってきた実家の、というのだろう――心地よい香りが俺の鼻をくすぐった。
しかし、俺は凍りついたように動けないでいた。
「……ナリヤ、ありがとう……ナリヤ?」
「あ、ああ……どうってことないって、そんなの」
「……そうか。でも、我は嬉しいぞ。やっと我の僕らしく従順になってきたではないか!」
「ああ……そうだな」
メシアの言葉に上の空で答えながら、俺は別のことを考えていた。
どうして、こんなに――。
こんなに、こいつの体は冷たいんだ。
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シャワーを浴びることすら億劫だ。
そのままベッドへダイブし、目を閉じる。
今は考えたくない。なにも、何も考えたくない――。
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何も見えない。
あるのは空白のような白一色。
しかし俺の鼓膜は、懐かしい優しい声の群れを受け止めるのに忙しかった。
成也……成也……。
成也君、成也君。
誰の声かはまるでわからない。それはたくさんの声で、あるものは小さな女の子の声、またあるものは母親のような包容力を感じさせる声。
それら全てに共通するのは、女性の声だということだけだった。
俺は聞き分けようとした。記憶を辿り、声の正体を確かめようとした。
しかし膨大な量の声は、断続的に、強制的に、耳へ入り込んでくる。
耳を塞いでも、自分の叫び声でかき消そうとしても、決して消えない耳鳴りのようなそれは止むことなく耳元でささやき続けるのだ。
次第に恐怖を感じ始めた俺は、目を閉じてひたすら耐えた。
悪夢が過ぎ去ってくれるのを、待ち続けた。
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