日常
「何があったんだよっ」
「別に何もねえよ」
「嘘つけっ、だったらさっきのは何なんだよ、説明してくれよ!」
「挨拶だろ」
「だからいつの間に率先して挨拶する仲になったんだよ、って訊いてんだよ!」
「率先するもなにも机を並べて共に勉学に励むクラスメイトなんだ、挨拶くらい当然だろ」
「だーかーらー!!」
朝っぱらから優人が五月蝿い。理由は単純明快、朝起こったある出来事がきっかけだ。
俺がいつものように教室の扉を開け中に入ると、その姿を認めたある女生徒が駆け寄ってきて、「おはよう、成也君」と声をかけてきたのだ。それが某転校生の八津ヶ浦さんだったからには、クラスは若干沸き立った。特に多くの男子生徒の間には、あの「ざ」から始 まる有名な擬音が浮かび上がりそうな空気が流れ始めていた。
そして俺の親友も例外ではなかった。
というわけである。
「だから、なんだよ」
「あれは普通の挨拶、っていう雰囲気じゃなかっただろ?なんというか……そう、恋にときめく乙女が気になる異性にアピールしているかのような!!」
「考えすぎだ」
優人の台詞にぴしゃりと結論を下し、一時限目の用意を始める。
確か一限は、
「おいおいお前も鈍感だなあ、本当に昔っからそうなんだよなあ、お前は」
「……忘れちまったじゃねえか、どうしてくれるんだよ」
「……何をだよ」
「教科書だよ」
「それ確実に俺のせいじゃない!!責めるなら鏡を見てそこに映ってる奴を責めろ!!」
「わかった。じゃあ鏡見てくるからついてこい」
「俺を映りこませようとしてやがる!?どこまで他人のせいにしたいんだよ!?」
馬鹿なやり取りをしているうちに、一限の開始を告げるチャイムが聞こえてくる。
さて、教科書は忘れてしまったことだ。どうせ授業を聞いていても仕方がないから寝てしまおう、そう思った瞬間だった。
ふと何かに気づいて隣を見ると、そこにいないはずの人間がこちらに小さく手を振っている。
そしてこう言うのだ。
「教科書、忘れちゃったんでしょ?私が貸してあげるね、だから机くっつけよ?」
「……なあ茜」
「?なに、成也君」
「どうしてここに座ってるんだ」
「代わってもらったんだけど?」
「……そうですか」
そして恐る恐る優人の席を見る。
そしてすぐに見なければよかった、と後悔することになった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「ねえ成也君、ここわかる?」
「いや、わからな」
「私、いまいち日本語の読み書きが曖昧になっちゃってて……。だから、その……成也君が、頼りなの」
「…………」
適当に流そうとしたのだが、そんな反則的な上目遣いに更には頼りなの、などと言われてしまうと断りようがなくなってしまう。やはり、父が言っていた通り男は女に弱い生き物だ。こんなにも早く身をもって実感することになるとは、思いもよらなかった。
「ここは加法定理を使ってだな……あれ、ほんとにそれで合ってんのかな」
「ねえ、成也君……成也君?」
「うーん……こうして、ここで掛け算して……いや、違うな。分子と分母が逆だ……」
「成也君!」
「……え?どうした、茜」
「むー、成也君が無視するんだもん」
手強い問題に遭遇して、思わず隣のことも忘れて考え込んでしまったようだ。昔からの俺の悪い癖だ、どうせわからないくせに無駄に没頭してしまう。そしてその間、誰の言葉も耳に入らなくなってしまうのだ。
「ごめん、集中しすぎてた」
「ううん、いいの。成也君の真剣な顔、初めて見れたもん」
「……俺そんなに不真面目か?」
「別にそういうわけじゃないよー。ただ、集中してる顔もかっこいいな、なんて」
「ん?なんだ?悪い、聞こえなかったからもう一度」
「なんでもないよ、ひとり言。それより、その問題解けたの?教えて欲しいな」
「あ、ちょっと待って。もうすぐ解けるかもしれない……」
結局、その問題に取り掛かっているうちに授業時間が終了し、ラウンド終了のゴングよろしくチャイムが響いた。俺は、敗北したのだ。
その問題は宿題になっていたため、次の授業の時間も全て費やして戦うことを決意したのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、先輩」
強敵を解き終えたものの、いまいち答えに自信がなかったため次の授業での答え合わせ待ちとなりながらも、昼休みまで戦闘が長引くことはなんとか回避した俺は、学食への道を急いでいた。
そこで、聞きなれた声に呼び止められる。
「ああ、海月か……学食か?」
「はい。先輩もですか?」
「ああ。どうせなら一緒に行くか?」
「はい。あ、でも……」
「なんだ、誰かと約束でもしてるのか?」
「いえ、なんでもないです。ご一緒しても大丈夫ですか?」
大丈夫だ、問題ないと言いながら再び歩き出す。海月は後ろからちょこちょことついてきて、まるで小型犬の散歩のような構図が出来上がっていた。
「今日もおすすめは売り切れかな」
「あ、私はお弁当を持ってきたので……」
「なんだ、それならどうして学食に?」
振り返りながらの問いかけに、僅かにためらう気配。
しかしいつまでも沈黙を続かせるわけにもいかないと思ったのか、頬をほんのり桜色に染めながら口を開いた。
「学食に行けば、会えると思って……」
「会えるって、誰に?」
「だから、その……」
頬の桜は徐々にその蕾を開いていき、ついには満開になり、一層その色を濃くしていた。
体調でも悪いのだろうか、と心配し始めたその時、
「……先輩に」
「……俺か?」
「あ、あのっ」
俯きがちだった顔を勢いよくあげる。顔にかかっていた髪がふわりと持ち上がり、女の子の香りを俺の鼻腔に誘い込んだ。
「お、お弁当……を作ってきたん、ですけど……」
「ああ、それは聞いたけど」
「その、ふ、ふたつ……」
「ふたつ?」
「先輩の分も、です……けど、食べてくれますか……?」
俺の分?海月が?どういうこっちゃ。意外すぎる展開に思考がフリーズする。
ようやく絞り出した言葉は、
「そりゃあ、作ってくれたんならいただくけど……どうして俺に?」
「そんなの……決まってるじゃないですか」
空気が先ほどとは違うことに、俺は気づく暇もなかった。
誰もいない廊下。
目の前には、さっきまでの頬を染めて恥ずかしがっていた後輩の女の子はおらず、覚悟を決めたかのような一人の女がいた。
「先輩のことが、好きだからです」
「……え」
間抜けな声が出た。急すぎる展開に、色恋沙汰とは縁遠い生活を送ってきた俺はついていくことができなかった。場の雰囲気はぴりりと張っていて、これが決して冗談ではないであろうことを物語っていた。
……はずが、告白した女の子は急にその表情を緩めて、
「……なんて、冗談です。びっくりしましたか?」
「……あ、ああ、冗談か……驚きすぎて心臓が止まるかと思った」
「やだ、心臓が止まったら死んじゃうじゃないですか」
うふふ、と笑う少女は先の出来事などなかったかのようにいつもどおりに振舞っていた。
そして学食でお弁当を食べましょう、と言い軽い足取りで今度は俺を先導するのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
早夏が作ってくれた弁当は、とても美味しかった。今まで自分が学食で昼食を済ませてきたことが悲しくなるほどに。しかし、彩り豊かな――内容的にも、見た目的にも鮮やかなその弁当は、俺が食べるには少し可愛らしすぎた。ハートや星型をあしらった野菜や果物を口に運ぶたびに周りの目が気になってしまい、どうにも心ゆくまで味わうことができなかったのが残念で仕方ない。
「どうでしたか、先輩……?」
「ああ、美味かった。すごく美味かった」
「ホントですか……!じゃあじゃあ、また作ってきてもいいですか?」
「でも大変だろ?無理しなくてもいいって」
「無理なんてしてませんから。それに――」
花の咲いたような微笑を浮かべて、
「先輩が喜んでくれるなら、私は……」
「…………」
思わず黙りこくってしまう。
海月のことは、可愛い後輩程度にしか思っていなかった。それが、今では違う意味で「可愛い」女の子として意識してしまうことは避けられなくなってしまっていた。
こんなにも積極的な子だったかな、と思っていると、予鈴が聞こえてきた。
「あ、もうこんな時間……」
「急ごう。遅刻はよくない」
「はいっ」
弁当を片付けると、小走りで教室へ戻る。
階段で海月と別れるとき、
「あ、先輩。そういえば」
と思い出したように言う。
「私のこと、海月、じゃなくって、名前で呼んで欲しいんです」
「……お前もか?」
「えっ」
「いや、なんでもない。えっと……」
「早夏、ですよ。もしかして、忘れてました?」
眉をへの字にして怒ったように言う海月――いや、早夏に、俺は情けないことに平身低頭謝ることしかできなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、成也君おかえりー」
「……ここはお前の家なのか」
「やだなー、こんな広い家に私だって住みたいよー」
微妙に噛み合わない会話。
昼休み後教室に戻った俺を出迎えたのは、茜だった。
「それで、どうしてまだここに座ってるんだ、お前は」
「お前じゃなくて茜だってばー。――あのね、ここの席の子に代わってもらったの」
「いや、そうじゃなくて……」
「そうなの。だからこれからはずっと、おとなりさんだよ」
「……は?」
「は?じゃないよお。担任の先生にも許可は貰ったもんねー」
「いや、なんでそんな」
「なんでなんでって、成也君はちっちゃい子供みたいに質問が多いねー。こう言ったら簡単にオッケーしてもらえたんだよ」
そう言うと、茜は息を大きく吸って、瞳をうるうるとさせて、
「私……よく見知った人の隣の席じゃないと不安で不安で……その、人見知りなんです……」
最後の方は顔を赤らめて、目を逸らしながら。
完璧な演技だった。
「――どう?可愛かった?」
「女って怖いって思ったよ」
「えー、ひどーい!」
女って怖い、そう思ったのは確かに本当だ。が、茜が隣の席になったというのは別に悪くないと思っている。騒がしいやつだし、相手をしていると疲れるがその分彼女との会話は楽しいのだ。暇な授業中も退屈しないだろうと思うと、胸が踊った。
・・・・・・・・・・・・・・・
「リア充とは口きかねえ」
「そうですか」
優人が拗ねている。また非常にめんどくさいことに、だ。
理由は説明するまでもないだろう。俺が茜とおとなりさん同士いちゃついていたように見えたからだ。そんな優人は無視し、教室から出て帰途につく。
そこで前方に立ちふさがる影があった。
「成也くーん。約束、覚えてる?」
「約束?何かあったっけか」
「うわ最低。男の風上にもおけないわねあんた」
毬谷だ。これまたこっ酷い言いざまである。しかし本当に綺麗さっぱり覚えていない自分が悪いと思えなくもない。実際に約束していれば、の話ではあるが。こいつはどうにも信用がならない。常に用心していなければならないと何故か思ってしまうのだ。失礼だとは思っていても、この感じだけはどうしても拭えなかった。
「脅して……じゃなかった、口止め料、あったでしょ?これでも思い出さない?」
「…………ああ、あったなそんなの」
胸の話を思い出す。そして関連した記憶で、今日の昼休みのことが思い起こされる。
先輩のことが、好きだからです――。
「……なに顔赤くしてんの?気持ち悪い」
「うるせえ」
「もしかして妄想でもしてた?やあねえ」
「買い物だっけか?とっとと済ませようぜ」
都合の悪い話題から話を逸らそうと、というかもとの話題に戻そうとして言う。
すると毬谷はなぜだかにやついた顔をして、
「そうね。とっとと、ね」
嫌な予感が胸中を撫でていった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「……おい、ここって」
「し・た・ぎ・屋さん。ね、あたしに似合いそうなの選んでよ成也くん」
たかが買い物、と舐めていた。
こいつはこういうやつだった――!
「ちょっと気分が……」
「逃がさないわよー。気分悪くても吐くまで付き合ってもらうから」
俺の肘に腕を回して逃げられないようにすると、毬谷は店内を巡り始めた。
それからは地獄のような時間だった。毬谷は事あるごとに俺に意見を求め、ついでに肘には何やら柔らかい感触が有り、そのせいで更に意識してしまう。
永遠かと思われた数十分のあと、毬谷はついにお会計と書かれたカウンターへ向かった。
ようやく解放される、そう思った矢先に信じられない台詞が聞こえてきた。
「あの、試着室ってどっちですか?」
「あ、あちらにございます」
「ありがとう。――さ、行こう成也くん。どれが一番似合うか、決めてもらうからね」
下着屋でか。どれが似合うか、視覚情報で決めろと言うのか、この小悪魔は。
流石は俺イジメのプロ、俺を虐めるためなら下着姿を見られることすら気にしないというのだろうか。嫌なプロ意識だ。
試着室に姿を消した毬谷を待っている時間も苦痛だった。下着屋に男が一人で立ち尽くしている、という構図は何かと犯罪の臭いが漂ってくるようで、心苦しいことこの上なかった。
しかしカーテンが開けば違う意味の地獄、開くまでも地獄、どちらにしても俺を待っているのは地獄で相違なかった。
すると、しゃっ、という音と共に視界を遮っていた布が取り除かれ、想像していたのよりもずっと白く、細い肢体が目に飛び込んできた。
「ど、どう……かな」
「あ……えっと」
「あんまりじろじろ見ないでよ……こっちだって恥ずかしいんだから」
「ご、ごめん……綺麗、だと思う」
「そ、そっか」
毬谷が身につけていたのは、大人っぽいという言葉が似合うような黒のレースの上下だった。
思わず目を奪われていた自分に気づき、慌てて目を逸らす。
「じゃ、じゃあこれにしよっかな……あ、でも他にも折角あるんだからこっちも」
「もう勘弁してくれ……お前だって恥ずかしいんだろ……?」
「……うん」
「じゃあそれにしよう。すごくよく似合ってるから」
「……うん」
会計を済ませると、早足で店を出て毬谷と並んで商店街の人混みを抜けていく。
まだ日も落ちていないというのに、体が重く感じるほどに疲れてしまっていた。
更には二人の間には重い沈黙が落ち、疲れの蓄積を早めているかのようだった。
耐え切れずに口を開く。
「えっと……もうチャラでいいんだよ、な?」
「……うん」
「…………明日って何の日だっけ」
「……うん」
「…………お前って可愛いよな」
「……うん」
急にしおらしくなってしまった後は、上の空だ。こんな毬谷では、こっちが調子を狂わされてしまう。
「おい、毬谷」
「……うん」
「茉里亜!」
「うん……えっ?」
「これからは茉里亜って呼ぶからな。……ってあまり変わってない気もするが」
「……どうして急に。なんか企んでるわけ?」
「うん。それだ」
「は?頭おかしくなったんじゃないの……救急車でも呼ぼうか」
「そっちの方がお前らしい。いきなり大人しくなられても調子狂う」
そう言うと、沸々と笑いがこみ上げてきた。馬鹿にされているのに笑っているなんて、マゾヒストか貴様はと言われてしまうかもしれないが、それでもいつもどおりの喜びに、俺は笑う以外の表現方法を知らなかった。
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いつもよりずっと早く家に着いたが、今日は疲れてしまって一刻も早く眠りたい気分だった。
シャワーを浴びるとすぐに倒れこむようにベッドへ寝転がる。
疲労は思ったよりもずっとスムーズに俺を夢の世界へと誘った。
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目を開くと、そこにはやはり「友達」たちの姿はなかった。
失意に飲まれ涙を流しそうになる。が、男の自分が人前で涙を見せるのは恥ずかしいことなのだと「友達」は言っていた。我慢しよう、と心に決める。
すると一人の男性が現れた。その男性には、「今」の俺が見覚えがあった。
おじさん。両親が海外を転々とする間、俺を預かり育ててくれたおじさん。
彼は俺の名を呼び、抱き上げると、両親のことについて説明を始めた。
他にも、俺の生まれからこれまでの経緯、様々なことを言って聞かせるように話した。
そして何故か俺は、それを他人事のような顔で聞いているのだ。
疑問が湧く暇もなく、意識は再び闇へと堕ちてゆき、反転する。
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