茜色
この世の終わりのような絶叫が聞こえた。
驚きに満ちて飛び起きる。
目覚まし時計は、いつも起きる時間の一時間半前をさしていた。
鏡を見ると、頬に何かが流れたような跡が幾筋もあった。唇に達しているものもある。
舐めとると、それは塩の味がした。
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彼は困惑していた。
眠りの中で流した涙にもそうだが、それよりも目の前の相手に困惑していた。
「今日の放課後空いてる?空いてるよね?よし、空いてるって。じゃあ、ちょっとお願いがあるの」
昼休みが始まった直後のことだった。その転校生は突然話しかけてきたかと思うと、口を挟む間もないほどの勢いでまくしたてておまけにお願いがあるの、ときたものだ。自分勝手なやつだ、と思う隙すら与えてもらえなかった。
「あのね、私を――」
「ちょっと待てっ」
慌てて遮る。このままでは、一方的に約束をさせられてしまうような気がした。
思い浮かんだのは少し苦手な奴の顔。もしかしたら似ているかもしれないな、と思いながら問いかける。
「俺はまだ何も言ってないだろ?この後予定が入っているかもしれないじゃないか。えっと……」
「茜でいいよ。と、いうかもしかしてまだ名前覚えてくれてなかったの?」
「あんま話す機会なかったから……ごめん」
謝罪すると茜は手と首を同時に激しく振りながら、
「そんな、謝らなくていいよ。私だってクラスみんなの名前を覚えてるわけじゃないし」
「でも、」
「めっ!」
でも、の後に続けようとした言葉は茜の人差し指を立てて放たれた一喝で断ち切られた。
さらに、
「だって、とでも、は私の前では禁止です。わかりましたか?志島君」
「あ、ああ。わかった。しかし――」
意識的にでも、を避けようとして変な言葉遣いになってしまうが、気にせず続ける。
「俺のことも成也でいいよ。せっかくの縁だし、仲良くしようぜ」
手を差し出す。
それをじっと見つめる茜。
沈黙の時間が流れる。
「…………あ!ああ、うん、わかった!握手ね!」
天然な奴なのかな、と思った。
そして握手を交わした後、ふと思い出す。
「そういえば、用事は……」
「あ、ああ、そうだった!あのね、成也君。――私を、商店街へ連れてって」
「ああ、なんだ……そのくらいどうってことない、行けるよ」
「ほんと!?やった!」
そして既視感。
安易な気持ちで快諾して……というやつだ。
特に見つかりたくない、あいつの顔を再び思い浮かべ。
そういう時に限ってタイミング悪く遭遇するんだよな、と。
じゃあ放課後校門でね、と残して走り去った茜を見送りながら、そんな悪い予感を抱いていた。
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悪い予感というものは案外当たってしまうものだ、というのは今まで生きてきて感じたことの一つだ。
現状は、想像した最悪のシチュエーションを上回っていた。
「…………なにやってんの、成也くん」
「いや、これはだな」
「んっ……成也君、そんなに動いたら……はうっ」
なぜこうなったのか。
正直自分でもよくわからないのだ。
順を追って考えていこう。
まず、言われたとおり、放課後校門へと向かったのだ。そこには既に茜が待っていて、いきなり、ううん待ってないよ!今来たところ!とこちらが何も言ってないにも関わらず突然叫び始めたのには驚いた。
そして並んで歩き商店街へ向かったのだった。どうやら茜はこちらに越してきたばかりで、この商店街に行ったことがなく、それで俺に案内して欲しかった、ということらしい。
商店街に着くと、色々な店――書店や文房具屋、駄菓子屋にゲームセンター。本当に多彩な店があるのだ、我らが水町通り商店街には。そうして様々な店を冷やかして回り。
そうだ、ここまでは何もおかしいところはない。
しかし、商店街をだいぶ進んだところにある書店からある人物が出て来たのを目撃してしまったのだ。
毬谷。奴の顔は、まさしく今、一番見たくなかった。しかし、奴の家はこちらの方面。このまま進めば間違いなくすれ違ってしまう。
切羽詰まった俺がとった行動とは。
「ごめん、ちょっと隠れるぞっ」
「え、成也君、ちょっ……きゃっ」
可愛い悲鳴をあげた茜を店と店の間の本当に狭い路地に押し込むと、自分自身も無理矢理に入り込む。
この路地に面した窓はないので、ここは暗がりとなっていて表の通りからは非常に見づらくなっているはずだ。ここなら毬谷をやり過ごせる。
そしてその時がやってくる。通り過ぎる毬谷、その横顔。こちらに気づく様子はなく、そのまま毬谷の顔は見えなくなる。
安堵のため息をつき、
「ふう……もう大丈夫だ、ごめんな。さて、出るか……あれ」
「いやいや謝らなくても……って、あれ?」
外に出ようとする。しかし。
動けない。
なんだか、すごくうまい具合にはまり込んでしまったようで、どんなに力を入れても外に出られない。
さらに、今まで全く意識していなかったが実は現在志島成也は八津ヶ浦茜と体と体をぴったりくっつけた状態だ。
これはいろんな意味でまずい。そう、いろんな意味で、だ。そのいろんな意味を考えることすらできないほどに今の俺は動揺しまくっていた。
「うわ、これどうしよう……茜、出られそうか?」
「え、ちょっと無理かも……な、成也君、あの……」
「どうした?」
「その、足が……んっ」
首は辛うじて動いたので、下を向く。
右の膝が、茜のスカートの中に伸びていた。
脳内が一瞬で恐慌状態になる。
「うおっ、ご、ごめんっ!?すぐ戻……らないっ!?」
「ひあっ……そんなに動いちゃ……だめぇっ……」
茜の漏らした吐息が耳にかかる。
まずい、昂ぶってきた。
パニックを越えて頭がどうにかなってしまいそうになる。
もういっそのことこのまま、
「…………なにやってんの、成也くん」
そしてなぜか毬谷がこちらを見ているのだ。
先ほど通り過ぎたはずだ。
しかしこの状態を見られたからには、
言い訳を考えて、
「いや、これはだな」
「んっ……成也君、そんなに動いたら……はうっ」
もう言い逃れできないような気がした。
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「ん、しょっ……ったく、なんでこんなとこに嵌ってんのよ意味不明」
「まったくだ」
「あんたが言うな、馬鹿成也」
毬谷に手を貸してもらい、なんとか脱出する。もちろん、茜を先にだ。救出された茜は、まともに立てずにへたり込んでしまい、
「はあ、はあ……成也君、激し過ぎて……ん、はぁっ」
誤解しか招かないような台詞を吐くのだった。
「…………成也くん?」
「説明させていただきます喜んで」
そして何が起こったのかを説明しようとして気づいた。
思えば俺はこいつを避けるために隠れたのだということに。
そしてそれを本人に言えるのか。面と向かって。
「何黙ってんのよ」
「いや、それは……」
つい返答を先延ばしにしてしまう。そんな俺に苛立ちを募らせたのか毬谷は、ターゲットを変更した。
「もういいわ。被害者……だと思われる方に訊くから」
「え……わ、私?」
毬谷は茜の方に目を向けて言った。
「で、何されたの?」
「俺が何かした前提かよ」
「うるさい黙れ。あたしはこの子に訊いてんの」
口を挟んだ俺を速攻で斬り捨てると、なおも茜の方を向いたまま続けた。
「正直に言っていいから。脅されてたとしても、あたしがこいつを脅し返してあげる。だから心配しないで、ほら」
「お前は俺にどんなイメージを持っているんだ……」
「あ……の」
茜がおずおずと口を開いた。
そして意外にもはっきりとした口調で、
「私……成也君に、その……暗い路地裏に無理矢理連れ込まれて……そして……あんなことやこんなこと、果てはそんなことまでっ!?」
「な……み、見損なったわ、成也くん……」
「お、おいちょっと待て!?俺はそんなことはっ」
暴走してあることないこと言い始めた茜と、それを聞いて軽蔑の眼差しでこちらを見てくる毬谷に、俺は慌てて弁解しようとした。そのとき。
「……という妄想が私の脳内を駆け巡ったわけなんです」
「……は?」
「いやだからですね、つまるところ私と成也君の間にはなんにもナッシング。成也君は清廉潔白な青年ですよ、と」
思わず間抜けな声をあげてしまった俺と毬谷に、悪びれない様子で語る茜。
そうして俺の誤解は解けたのだった。
しかし一つ気になることがあって、傾きかけの日差しに眩しそうな顔をしている毬谷に尋ねた。
「そういえば毬谷、お前一回ここの前通ったよな?なんでまた戻ってきたんだ?……いや、そうじゃなければ俺たちはまだ挟まってたかもしれないわけだし、感謝してはいるけど気になってさ」
「……なに?あたしが通ったとこ、見てたんだ?別に、ただ買い忘れた漫画があったからもう一回本屋に行こうとしてただけだけど。……ああ、なるほどね。そういうこと」
理由を語ると、突如として得心が行ったような顔になった毬谷。それを見て一つの予感が俺の中に沸き起こる。勘のいいやつのことだ、もしかすると、
「あたしから隠れようとしたな?成也くん?……そりゃあ、隠れたくもなるわなぁ。そんなに可愛い子と二人っきりでデートしちゃってさ。あたしに知れたら、大変だもんねぇ」
「……ってことは、もしかして成也君は……?」
毬谷の言葉に邪推した様子の茜。このままでは、またあらぬ誤解を生むことになるのではないだろうか。
それはまずい、と口の中で呟くと俺は、
「たぶんそれは間違ってると思うぞ、茜」
「え……?成也君は毬谷さんの知り合いと不倫中で、それが毬谷さんにはばれてて、それでどうにかこうにかで毬谷さんとイケない関係に……っていうのじゃなくって?」
「突っ込み待ちか?おい」
やはり茜は天然だった。
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「で。ほんとに何もしてないし、されてないのね?」
「してないって。俺にそんな度胸があるとでも?」
「えー、成也君は場慣れしてそうなんだけどなー。ほら、あの時の手つきも……良かったし」
「誤解を招こうとしてるとしか思えない言い方はよせ。そして毬谷はそんな目で俺を見るな」
帰り際、毬谷はまだ訝しんでいるようで、俺たちに再び確認をし始めた。そして茜がふざけて毬谷がそれに乗っかり、俺が突っ込むという謎のサイクルが出来上がってしまっていた。
この状況を端的に表すとすると、俺はいじめられていた。というのがしっくりくる。
見た目は美少女だが、中身がアレな二人に両脇を固められた俺は、ぱっと見羨ましがられる状態だったのかもしれない。しかし当の本人からしてみれば、これは生きたまま鍋でぐつぐつと煮込まれているかのような、まさに生き地獄だった。
自分がここに存在しているだけでその価値をどんどん下げられていっているかのような気がして仕方がなかった。
「あ、あたしこっちだから。じゃね、茜ちゃん、成也くん。また明日、学校で」
「私はこっち。成也君は?」
「ああ、なんだ。皆別々の方向なのか。俺はこっちだ」
「そっか。それじゃ、さよならだね」
「ああ。また明日」
「うん。ばいばい」
そしてその時は唐突に訪れた。
我が家から程よく離れた十字路で、三人は各々の家の方向へと別れていった。
ついに俺は針のむしろから解放されたのだ。
しかし。
俺にはひとつ、あの二人に言いたい放題言われている間も、心の片隅に引っかかっていることがあった。
知らず知らず、足は帰途とは別の方向に向かっていた。
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目的の場所に辿り着くと、俺の目はまずその姿を探してあちらこちらを彷徨っていた。
そしてそれはしばらくして見つかった。月光を反射して光る、白銀。明らかに日本人ではない色の髪は、俺の主に勝手になったそいつがそこにいることを教えてくれる目印になった。
「見つけた」
「うひゃいっ!?」
奇妙な声を出して、小さな身体が草陰から飛び出してくる。
驚かせてしまったようだが、面白い反応が見れたのでよしとする。自分勝手な決定だが。
「お、驚かすな!びっくりするだろうがっ!」
「被ってる被ってる」
「う、うるさいっ」
「でもなんでそんなに驚いてるんだ?隠れて悪いことでもしてたのか?」
「するか馬鹿っ」
興奮しているのか、息を荒げて反論してくる少女に、しかし俺はあくまで冷静に、
「だったら、何をしてたんだ?」
「それは……教えん」
「なんだよ。そのくらい教えてくれてもいいだろう」
「うるさいうるさい!あ、主に対してなんて口の利き方だっ、我はそんな子に育てた覚えはないぞっ」
「俺はお前に育てられた覚えがないぞ」
するとその言葉のどの部分かに反応したのか、頭頂部のひと束の髪の毛が猫の耳かあるいはしっぽのようにぴん、と立ち上がった。
そしてその反応の速さとは対照的なか細い声で、
「我はお前、ではない……メシアと呼べ」
「だったら俺だって貴様、じゃない。俺には志島成也という立派……かどうかは甲乙つけがたいがちゃんと名前がある」
緩やかに時間だけが過ぎていく。その場には時計はないはずなのに、秒針が時を刻む音が耳の奥で響いているような錯覚に襲われる。
そんな沈黙を破ったのは、少女の声だった。
「……ナリヤ」
「うん、そっちの方がしっくりくる。これからもそう呼んでくれ」
「また、偉そうだな」
言うものの、言葉とは裏腹に彼女の顔は何故か晴れやかだった。
そしてその笑顔が期待の色を持ってこちらに向けられていることに気がつく。何を求められているかは、話の流れから明白だろう。
「メシア」
「ああ」
「……それだけかよ」
「ナリヤこそ、呼んでおいて何もないのか」
そうしてその後、しばらくの間用もないのにふたりして名前を呼び合っていたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
ベッドに潜り込み、頭の中で何度もその名前を反芻する。
メシア。
河原に棲む、謎の少女。
彼女に対して、俺は不思議な感覚を抱いていた。
懐かしいのだ。
あれほどまでに特徴的で、一度見たら忘れられないような容姿の持ち主だ、以前に会ったことがあれば確実に覚えているはず。しかし俺にはそんな覚えはなく、それでいながら何故か彼女の声が、顔が、髪が、香りが、全てが俺の記憶の奥底のドアを次々にノックしていくのだ。
俺は何かを忘れているのだろうか。何を忘れているのだろうか。
そんな俺が思い出したのは、答えとは別のことだった。
もうひとりの、記憶にないはずの少女。黒いドレスに身を包んだ、氷のように冷たい雰囲気を醸すその少女は、久しぶり、確かにそう言った。
彼女は誰なのか。そして、メシアは誰なのか。
問いかけても答えの出るはずのない問題に苛まれながら、今日も睡魔に徐々に意識を蝕まれていく。
・・・・・・・・・・・・・・・
夢をみた。
今日に限って、内容がよく思い出せない。
確かなことは、その夢の中で俺が小さな子供だったということだ。
そして他には子供が三人いた。
四人は楽しそうに笑い合って、仲がとても良さそうだった。
しかし夢の途中でそのうちのひとりがいなくなった。
そのうち、子供は二人になって、最後には俺ひとりが取り残された。
寂しさに押しつぶされそうな俺は、目を閉じた。
……よく考えたら、夢の中の出来事も案外思い出せるものだ。
俺の記憶力も、捨てたものではないのかもしれない。
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