黒の少女
時は近いのね。
黒の少女が呟く。
その碧い眼が見つめているのは遥か遠く、空の向こうの向こう……。
黒猫が一声鳴いた。
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日常は、常に変化の連続であるからこそそれを常と呼称することが可能なのである。
いきなりややこしいことを言ったが、つまりは日常というものはそんなに変化のないものではない、ということを言いたかったのだ。
そうでなければ日常の中で、予想外の、こんな出来事は起こり得ないだろう。
もしこれを日常の範疇から外したとしたなら、……と考え出すと止まらないので、現在の状況を端的に説明するとこうなる。
例の転校生に話しかけられた。
以上。
それだけのことではあるが、俺からしては起こり得ないと思っていたことだ。驚きは大きかった。
さらには仲良くしましょうね、ときたものだ。
あらぬ想像をするのも仕方あるまい。
たったそれだけの話ではあるのだが。
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「なるほどなぁ」
「何がなるほどなぁ、だ。ちゃんと話聞いてたんだろうな」
「聞いてたとも。つまりお前はそれだけのことで、あの転校生ちゃんに惚れてしまったと」
「いや惚れてはいないが」
昼休み、珍しく優人と共に学食でのひと時を過ごしているとき。試しに例の転校生の話を持ちかけてみたのだった。
この親友には、だいたいのことは話せる。昔からよく相談したり、相談されたり、深い付き合いを続けてきた唯一の存在とも言えるほどだ。
勿論喧嘩も多かったが、その度に友情を深めてきた、と俺は思っている。今ではどんなヘビーな冗談も笑って許せる仲だ。
「惚れてはいない、ってだったらなんなんだ?向こうがこっちに惚れちまったぜ、っていう思い上がりか?」
「恐らくそれに近いな」
「それはないな」
「なんでだよ」
「なぜならな……」
そこで大袈裟に溜めをつくる。こういうときは、決まっている。
「奴は俺に惚れちまってるからだっ!」
「はいはい」
大袈裟な冗談をぶつけてくるときだ。まともに対応しても疲れるだけなので、軽く流すのがコツだ。
「はいはいって、あのな、お前は……」
「あっれ、珍しくない?二人?」
運がいいのか悪いのか、優人の冗談を流す大きな助けになるタイミングで割り込んできたのは毬谷だった。
しかしこんなときでも思うのが、やはり俺はこいつが苦手なのだろうな、ということだった。
「なんだ毬谷か。久々だな。大きくなった?」
「またストレートね、あんたは。――CからDに、大成長よ」
「ほー。ま、俺はFくらいがいいから、頑張れよ」
「あんたに好かれても嬉しかないわ」
「俺は大きさじゃないと思うんだ」
男女の会話とは思えない話をしている二人の間に今度は俺が割り込む番だった。この話題に関しては、譲れないものがある。
「ふむ……なるほどな、確かに成也は昔からそう言っていたが……詳しく知りたいな」
「そうね、大きさじゃなかったらなんだっていうのよ?形?」
問いに答える前に、大きく息を吸う。勿論答えを強調するためだ。
そして自信を持ってこう答える。
「これは太古の昔から決まっていることだが――触り心地だ」
相対する二人の表情に衝撃が走る。それを見て満足気に続けて言うのだ。
「大きすぎてはいけないんだ。手の平に収まるくらい……」
「このくらいですか?」
「そう、このくらい……このくらい?」
そこではじめて気が付く。背後の気配に。
「こんにちは、成也先輩。とそのお友達……ですか?なんだか楽しそうにお話してたので、気になって来ちゃいました」
振り向かずとも声と口調でわかる。そう、彼女こそ理想の手の平サイズとして俺が想像していた、まさにそれだった。
しかし今の今まで想像していただけあって、気まずい。いやそれを知っているのは自分だけだということは分かっているがやはり気まずさは消えないものだ。
そしてその気まずさは動揺となって表れる。
「どうした成也。手が震えているぞ」
「成也くん、中毒性のあるものはダメだとあれほど」
「あ、あれ……?成也先輩、どうしたんですか……?」
三人から言われ、我に返る。
「あ、ああ……いや何でもない」
しかし毬谷の目が光った。女の勘、というやつだろうか、この鋭いやつは、
「ははーん……?その手……理想の大きさ……ふーん……なるほど……?」
「なっ……」
驚きを隠せない。しかし、少しでもその驚愕を表に出してしまったことを後悔するまでそう時間はかからなかった。
「やっぱり、図星。へー……成也くんの理想はそれかー……」
意味ありげな視線を海月に注ぐ毬谷。このままでは海月に何かを勘付かれるのも時間の問題だろう。
そこで毬谷に目配せをして、
「ちょいと面貸せよ……」
「いいじゃない。受けて立つわ」
連れ立って食堂を離れるのだった。
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「どこまで気付いたんだ?」
毬谷を連れ出して、とりあえず聞きたいことを単刀直入に切り出してみることにする。
毬谷は少し考えるような顔つきになり、
「うーん……と、ね。
あんたが『手の平サイズ』っていってベストな大きさだと思ってるのがあの早夏って子とだいたい同じくらいで、それをあんたはあの時想像してたからあの子が急に現れて動揺した。で、手が震えた。
――こんなとこかな?」
こいつを敵に回してはいけない。
そう強く思い直した瞬間だった。
毬谷に口封じを試みると、交換条件として今度買い物に行くから荷物持ちをしろ、ということだった。
何を要求されるか内心ビクビクしていた身としては、安堵の息が漏れるのを止める術はなかった。
これで一件落着だろう。
しかしここで疑問が生じる。
――俺は一体何を解決したのか?
『理想の大きさ』事件に関しては、よくよく考えてみると、海月に正直に「理想の大きさです」と言えば済んだことではないか?若干のぎこちなさは残るかもしれないが、それで万事解決だったはずだ。
それが俺は何故か毬谷にその件で口封じの代償として荷物持ちをやらされる羽目になっている。
さらに言うと、『理想の大きさ』については何も解決などしていない。なんの説明も無しに毬谷を連れて出ていった俺を、海月も優人も少し不審に思っているかもしれない。
つまり結論として、俺は無駄に毬谷に使われることになった。そう考えて相違ないのではないか。
どうしてこうなった。
理由は単純。
毬谷の脅し方が効果的だったから、それだけである。
やはり奴は恐ろしい。
より一層毬谷への苦手意識が強まったような、そんな気がした。
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いつも通りに佐倉川沿いを一人で歩いて帰る。寂しくなど、ない。断じてだ。
不意に昨日の記憶が蘇る。歌。謎だらけの少女。中二病。
元から興味はあった。彼女なら、飽き飽きしてきていた日常から、不可思議な非日常へと俺を連れて行ってくれるのではないか。そう、勝手に想像していたのだ。
足は河原へと向かっていた。
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「我と契約せよ」
「はぁ……」
唐突に命令される。
少し意味がわからないが、これも設定のうちなのだろう。
そう勝手に一人で納得したところで、尋ねる。
「……契約内容は?」
「……そうだな」
考え込む少女。
契約しろ、と言っておきながら内容を考えていなかったのか、と愕然とする。
しばらくすると少女は口を開いた。
「……よし、こうしよう。――我の元に、一日置きに来い。
……いや、我が元へと召喚されよ」
「わざわざ言い直さなくても」
「うるさいな。貴様は黙って聞いていればよいものを」
少しむきになって突っかかってくる少女。それを見て微笑ましい気分になっている自分に気付く。
ああ、やはりこの子も普通の、年相応の――女の子なのだな、そう思って。
「いいな?わかったら返事は『イエス・マイ・マスター』だ」
「…………本当に言うのかそれ」
「契約主には従いたまえ」
「……はあ」
「なんだそのため息は」
「なんでもない。――イエス、マイ、マスター」
半ば投げやりな気持ちで復唱する。完全に棒読みなのは目をつぶってほしい。
「……棒読みなのが気に食わんが、まあいいだろう。合格」
こいつはどうしてこうも偉そうなのか。腹が立つのを通り越して呆れ果てているとき、追い討ちをかけるように声がかかった。
「もう帰っていいぞ」
「……なんでそんな上から目線」
「当たり前だ。何を言っている?主が僕に上から目線で何が悪い」
俺は何時の間にこいつの僕になったのだろうか。
しかし反論する気すら削がれていた俺は、素直に従うことにしたのだった。とにかく、早く家に帰り着きたい気分になっていた。
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家路を急ぎ、人気のない住宅地を早歩きで進む。辺りは閑散としていて、誰一人ここには住んでいないのではないか、と疑うほどに静かだった。
そして一帯を包む静寂ゆえ、その澄んだ鈴の音は俺の耳に高く響いた。
その方向に目をやると、一匹の黒猫が優雅に佇んでいる。黒猫はこちらを一瞥すると、まるでついてこい、とでも言っているかのように、ゆるやかに尻尾を振りながら細い路地へ消えていった。
猫は嫌いではなかった。むしろ好きと言ってもいい。しかしそれとは関係のないところで、黒猫に興味を抱いている自分がいた。あの猫は普通ではない、そう直感が告げていた。と、言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、俺はそれ以外にこの感覚を説明する術を持ち合わせていないのだった。
後を追うことに決めると、黒猫を見失わないように、先ほどと同じくらいの早歩きで路地へと進入した。
街灯が明滅を繰り返している。それでも明かりを求める羽虫が群がっているのが、点滅する光に照らされて、よく見える。
しかしそれを眺めているのはほんの短い間だった。
俺はすぐに、目の前の少女に意識を奪われたからだ。
黒い少女。
そんな端的な表現が似合うような、そんな女の子が、暗い路地に立っていた。
艶やかな黒い髪、漆黒の衣を纏った華奢な身体、ところどころに散りばめられた闇色のリボン。喪服のように黒一色で統一されたその少女は、道の真ん中で黒猫を従えてこちらを見つめていた。
「……久しぶりね、志島成也」
黒い少女が呟くように言った。
しかし彼女とは面識などないはずだ。これほどまでに印象的な人物を忘れる訳がない。
しかし、向こうはこちらを知っているような口振りだ。
それを尋ねようと口を開きかけたとき、被せるようにして黒い少女が言った。
「……突然で悪いけど。
――あなたは、世界を救う自身はあるのかしら?」
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眠れやしない。
思考がループし続けている。
帰り道に出会った少女。いや、正確には、というか恐らくは、出会わされた、あるいは案内された、と言うべきなのか。あの黒猫は少女に従順な様子を見せていた。あの猫が俺を少女の元へ連れて行ったと考えることもできるのだ。むしろそれが正しいのだと、ほとんど確信に近い気持ちでいる。
しかしそんなことはどうでもいい。問題は、彼女がぶつけてきた質問だ。
――世界を救う?
まるで、漫画かアニメの話のようだ。まるで現実味に欠けている。
だから俺は答えることができなかったのだ。そして黒い少女は、そんな自分に失望したのか、何も言わずに路地の闇の向こう側へ消えるようにして去っていった。
その後、そう、あの河原の少女も似たようなことを言っていたのを思い出したのだ。
我は救世の天空神の末裔だ。
彼女はそう言っていた。救世、それはつまり世界を救うという意味だ。
立て続けにそんなぶっ飛んだことを言う女の子に会った、これが偶然の一言で片付けられるものなのか、という疑念が広がっている。まるで白いシーツにジュースをこぼした染みが広がっていくかのように、脳内を蹂躙していく。
しかし考えれば考えるほどから回る思考に疲れたのか、徐々に眠気が沁みるように襲ってくる。
再び、深い眠りに意識が沈んでいく。
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またここに来ることができた。
喜びに満ちた笑みをたたえて彼女に振り向く。
だがそこに見えたのは彼女の悲しげな笑顔だった。
どうして。
どうして、そんな悲しそうな顔をしているんだ。
そう口走る。口走った、はずなのに。その声は、自身の耳に届かない。
この声は彼女に届いているのか。急激に不安が襲い来る。
懸命に叫ぶ。聞こえますか。聞こえていますか。
彼女は悲しげな笑顔のまま、首を横に振り続けるのだ。
一体どっちなんだ。聞こえていないのか。聞こえているのに、首を横に振っているのか。
俺には彼女がわからなかった。
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