追憶
「成也、約束だからね。――忘れたりしたら、許さないんだから」
古い記憶が溢れてくる。
あれは遠い日々、確か十年前の……季節のない場所でのことだった――。
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「里依、この子が。――ほら、自己紹介。ちゃんと自分でしなきゃ」
「あ……う……。ん、わ、わたしは……みなづき、せかいです……よ、よろしくおねがいします……ぅ」
ある日、見知らぬ女の子が見知らぬ女性に連れられてやってきた。
彼女の名は水月世界。変わった名前だな、と思ったがそれは「でりかしー」にかける発言だと思ったから口にはしなかった。
とても恥ずかしがり屋なのか、いつも女の人――たぶん、その子の母親だろう――の後ろに隠れてしまって、一緒に遊ぼうと誘ってもふるふると首を横に振るのだった。
それが淋しく思えた俺は、茜と相談した。どうしたらその子――世界と一緒に遊べるだろう。
結論は単純明快。ひたすら、話しかけた。ねえ遊ぼうよ、ぜったい一人より二人、二人より三人の方が楽しいよ。
その単純な作戦が功を奏したのか、いつしか世界は一緒に遊ぶ相手のひとりになっていた。三人で遊ぶ日々はひたすら楽しかった。
そんなある日、また別の女の子がやってきた。連れてきたのは、恐らく世界の母であろう女性だ。彼女はその女の子を、碧と呼んだ。
しかしその碧と呼ばれた少女は簡単ではなかった。話しかけても「うん」「ええ」「そうね」「いいえ」といったぶつ切りの言葉しか帰ってこないのだ。おまけに、いつも何をしているかといえばじっと壁を見つめているか、本――絵本などではない、きちんとした装丁の本を読んでいるか、あるいは親たちが話している専門用語が飛び交う話をひたすら聞いているかだったのだ。変わっている、という言葉が生ぬるいほどの変人だったのだ、彼女は。
しかしとあることがきっかけで、碧は世界にだけは心を開くようになった。
そのことを世界は無邪気に喜んでいた。これがきっかけで、四人がバラバラになってしまうことも知らずに。
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気づくと、何故か俺は世界と碧と三人でいた。そして二人が俺を囲んで――二人で囲むというのも変な話だがその頃の俺はそう感じたのだ――言い争いをはじめる。
「成也。新しい服、貰った。どう思う」
「ねえ成也、私のが可愛いよね?」
「……世界。いくらあなたでも、こればかりは譲れない」
「ちょ、碧!ねえ成也。成也は大きくなったら私のお婿さんになるんだもんね?」
「いいえ。成也は私のものにする……!」
そしてそんな二人に迫られて最早涙目になってしまっていた俺が助けを求めるように母たちの方を見ると、彼女たちはあろうことか俺の有様を笑って、
「あらあら、成也君はモテモテね」
「ほんっと、将来が楽しみなモテっぷりよねえ」
「うふふ、本当に」
俺は途方に暮れて二人に向き直った。
まるで「どっち!?」と訊いているかのような二人の表情に、俺はただただ時が過ぎて二人が飽きてしまうのを待つことしかできなかった。
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しかし母親たちの中では俺の相手は決まっていたようだ。まるで政略結婚のようだ、と今では思うのだが、明らかに意図的に、俺は碧とくっつけられようとしていた。
しかし。俺は、俺の気持ちはいつしか世界の方を向いていた。
そんな俺に、母――里依は、諭すように言って聞かせるのだ。
「いつかわかってくれる日が来ると思うけどね?世界ちゃんと一緒になることは、成也のためにならないの。わかるかな……?ま、わかんないよね。いいや、とにかく世界ちゃんはダメです。そっちのがわかりやすいでしょ?」
母は比較的大雑把な性格だった。こんな言い方で小さな子供に分かれもクソもないだろう、と思う。確かに当時の俺は全く納得していなかった。
そしてそれゆえ、二人きりになると決まってこう言い合うのだった。
「いつか、本当に大人になったら。結婚しようね、世界ちゃん」
「成也、約束だからね。――忘れたりしたら、許さないんだから」
しかしその場面を碧がいつか目撃してしまっていたようで、碧は目に見えて元気がなくなっていった。そんな碧を見るのは友達として辛かったが、どうすることもできなかった。
そしてある日、碧はこんなことを言いだしたのだ。
「私、考えたの。三人一緒なら、一番幸せだと思うわ」
「えー?どういう意味、碧?」
「うん……僕もちょっと、わからない……」
「だからね、こういうこと」
わかっていない様子の俺達二人に腹を立てたのか、碧は少し声を荒げて言った。
「成也が二人共と結婚すればいい。それが出来る国もあるって、本で読んだわ。三人で、ずっと一緒にいれば――」
たーんっ。
何かが破裂する音が響き渡った。
碧はそのままの表情で、そのままの格好で、床に倒れ込んだ。黒い色の服に、何か別のもっと黒く見える色が染みていくのが見えて、
「成也――見ちゃ、駄目ッ!!」
母の叫び声とともに、俺の視界は真っ暗になった。普段なら、いきなりこんなことをされれば暴れて嫌がっただろう。しかし、母の切迫した声を聞いて俺は凍りついたように動けなくなっていたのだ。
ばたばたと暴れるような音と、怒号がこだまする。
そして、こんな台詞が聞こえてきたのを、記憶している。
「もう終わりなんだよォォ!!こんな実験続けてたら俺も俺も俺も俺もイカレちまってよおおおおお!!!!」
ただわけもなく怖かった。体が震えて、でもそれは母の体が震えているせいでもあって。
そしてもっとも強く脳の髄に刻み込まれた記憶。
それが、そのあとに聞こえた絶叫だった。
「あ…………お…………あ、あ、あ、あああああああああああああああああああ、ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
完全に、何かが壊れてしまった音。
しかしその時の俺は、ただ恐怖の中で母の体にしがみつくしかできなかった。
そしてその絶叫の中、別の叫びが混ざるのを聞いた。
「世界……?せかい、せかい!!!どうしたの、ねえ!?せかいっ!!!!!」
世界の母の声のようだった。
どうしてそんな声で世界の名を呼ぶのか。
どうして涙声でしゃくりあげているのか。
その時の、まだ小さかった俺には理解することは到底できなかった。
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俺は、日本に暮らすことになった。
俺を預かる、ということになっていたその人物は俺の「おじさん」という設定だったようだ。
俺には叔父などいなかったのだ。
推測するに、母が信頼を置いていた部下――あるいは、研究仲間に頼んだということなのだろう。しかし、実際のところはどうなのかはわからない。本人に聞くしか、それを知る方法はないだろう。
しかしなぜ俺はこんなにも大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
夢の中で見た光景が蘇る。俺はそこで、おじさんに俺の身の上話を聞かされていた。そのほぼ全てが、今思えば正しいものではないということがわかる。しかし俺は今の今までそれを頭から信じ込んで生きてきたのだ。
理由として考えられるのは、母かあるいはほかの誰かが俺の記憶を封印した――封印、というのも大仰な話だが、やはりこの言葉が一番しっくりくる。そして「おじさん」がその俺のぽっかり空いた記憶の穴に、偽りの思い出を流し込んで固めたのだ。
とは言っても、おじさんや母を恨んでいるわけではない。どちらも、俺を育ててくれた恩人なのだ。彼らがいなければ、俺は再び世界と会うこともできなかっただろう。むしろ感謝しているくらいだ。
しかしまだ疑問は残る。
あの出来事のあと、俺は目隠しをされたまま日本へ連れてこられたようなのだ。
故に、その後世界や世界の母、そして碧がどうなったのかは知らないのだ。
碧については、本人の言葉から推測するにそのままこの世を去ってしまったのだろう。
しかし世界は。
そしてそれは、本人の口から語ってもらうべきことなのだと思った。
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「……私は」
世界が、閉ざしたままだった口をようやく開いた。
既に日は落ち、辺りは徐々に闇と静寂に包まれていく。
そんな中、静流の音にすらかき消されてしまいそうな世界の声が混ざった。
「……思い出したく、ない」
「いいんだ、ゆっくり……ゆっくり思い出していけばいい。無理に痛みを背負うことはないんだ、世界」
「でも……思い出さなきゃいけない」
矛盾した二つの言葉、しかしそれは世界の中心で起こる葛藤をそのまま、生々しく表しているかのようで。
世界の頬に、何度目かの光条がつっと伝う。
落ちた光の粒は、生い茂る緑の中に吸い込まれて一瞬だけ輝いた。
無口な風が二人の間を行ったり来たりする。早く話せと催促しているのではないかと疑うほどにその風は忙しかった。
空を見上げれば、雲という雲を燃やし尽くさんばかりの朱色が覆う。眩しさに目を背けても、赤く照らされた建物の群れが再び網膜を焼いた。
そうしているうちに光の発生源は少しずつ隠れていき、やがて夜の帳が降りようという時、震える声が鼓膜を揺らした。
「私は……見たの。――碧が……ぁ、うあ……」
「もういい。もういいよ、世界。碧は――」
「駄目……!これは私が今一番やらなければいけないことだから……!」
「……そう、か。それなら――聞かせてくれ。あの後、何があったのか」
視線を上げ、こちらを見つめる世界の瞳には決意の炎が宿っていた。
それでも溢れ出す涙を拭わずに、彼女は話し始めた。
「碧は……死んだわ。私の目の前で」
「…………」
「私はそれが信じられなかった。認めたくなかった。だから、私は自分の記憶を――楽しかった日々すら全部なかったことにしてしまうほどに、叫んだ」
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目覚めると、白衣を着た人々が私の顔を覗き込んでいた。
そのうちの一人が、目を覚ましたようです、と事務的な口調で誰かに伝える。
その直後、ひとりの女性が室内に入ってきたかと思うと私の手を握り締めて言った。
「世界……よかった……本当に、よかった……!」
しかし私にはわからなかった。
なにがよかったのか。
そして、この人物は誰なのか。
だから、正直に訊いた。
「貴様は何者だ」
「…………え?」
「それと、父上はどこにいる?案内するがよい、人間」
女性の表情が一変した。
一番深くその顔に刻まれていたのは、絶望。次に色濃かったのが、疑問。
「どうして……ねえ、どうしてよ?世界、どうして?ねえ、あなたたち、教えてよ。どうしてこうなってしまったの?どうして、ねえどうして――」
「世界……?なぜその言葉を使うのだ、貴様は」
「だって!あなたの……私の一番大切な娘の、名前だものっ!!」
「我か?我はそんな名前ではない――そう、我は……『メシア』。そう、メシアだ」
どうしてそれが自分の名前だと思ったのか、それは自分に訊いても答えが出そうになかった。
ただ、目の前で必死に叫ぶ女性が不思議だった。
なぜそんなことを言うのかが、全く理解できなかった。
女性は、私の言葉をゆっくりと咀嚼するとそのまま泣き崩れた。
どうして――誰に向けるでもなく、ただ繰り返しながら。
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私はしばらくの間ひとりきりで部屋にいた。
しばらく、といっても恐らく数年単位だっただろう。
その中で時々白衣が部屋に現れては、不可思議な会話を繰り広げて去っていくのだ。
「あの女――水月はどうしましょうか」
「そうだな。まあ、放っておいても害はあるまい」
「それもそうですね。一個人で何ができるわけでもありませんし。それで、ここの構造はこうなっていてですね、そして同様にしてこの部分も――」
そんな日々は苦痛だったが、あるひとつの約束が私を縛っていた。
ここにいれば、いつか父親に会わせてやろう――。
そんな見え透いた嘘を、私は信じていた。
父がいつか迎えに来てくれる、そう思っていた。
そしてある日、扉が開くとそこには白衣はいなかった。
代わりに、いつか見た女性が立っていてこちらに手を広げているのだ。
「世界――迎えに来たよ」
そして私はその女性に連れられるがまま、どこか別の場所へ移動した。
そこがどこなのかは、今でもわからない。ただ、私のための部屋が存在した。
そして、時折扉の向こうから話し声が聞こえてくるのだ。
ごくまれに、女性が声を荒げるとそれがはっきりと聞いて取れる。
「こんな……こんなのって!!」
「……方策がないわけでは」
「でも!こんなの……非人道的という言葉すら微温いっ!!!」
「落ち着きなさい。別に、追われることももうないのだから」
「けど……」
「……行きましょう」
「……どこへ」
「……彼のいる場所――日本」
「……!」
息を呑む気配。
日本――そこへ行けば父に会えるのだろうか。
その時の私はそんなことしか考えていなかった。
扉の向こうでは、話が決まろうとしていた。
「彼なら――あの子のことを、もしかすると……」
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「……そして私は日本へ来た」
世界はもう涙を流してはいなかった。
夏の夜の風は生ぬるく頬に触れる。ふと気づけば、世界とつないでいた手のひらはじっとりと汗で湿っていた。それでも、俺たちはきつく結ばれていた。
「聞かされたの……父は、忙しくて私に会いに来てくれないの、って。私はそれを聞いて、飛び出した」
「……それで」
「そう。あの、河原にいたら――あなたと出会った。……二度目の、出会いよね」
それからは語るまでもなかった。
二人はその日々を、それぞれに何かを喪った状態で共に過ごした。
しかし、取り戻した過去と同じくらいにそれらの思い出も大切だった。
理由はわからない。
ただ――ただ、今は世界とつながっている。それだけが全てだった。
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