知恵の輪
学校へ行くのはひどく久しぶりな気がした。
連続してサボると癖がついてしまうという話は聞いたことがあったが、確かにそれは正しいかもしれない。体は怠く、ともすればそのままベッドへ戻ってしまいたいような気分だった。
しかし、俺には学校へ行く理由があった。
会いたい。会って、声を聞きたい、話がしたい、その小さな体を抱きしめたい。
その甘美な妄想を実現するため、俺はずしりと重い体に鞭打ち家を出るのだった。
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「あ、成也君……」
「……茜」
教室に入って早々、気まずい沈黙。
そんな空気も読まずに馬鹿がこちらへ向かってくる。
「おーう、成也。もう体はオッケーみたいだな……って、ん?変な空気だな」
「気づくのおせえよ」
「あ、あは……なんでもないよ?ただちょっと……ね」
「む!もしやあの日俺が帰ったあと何かあったな?」
「なんもねえよ」
「あの日……」
茜が意味深に遠くを見るような目をする。
そして口を開いたかと思うと、とんでもないことを口走った。
「嫌がる私を無理矢理ベッドに連れ込んで服を破り取ると飢えた獣のような目つきでじっとりと体中を睨めまわし、そのまま自分のズボン――」
「言わせてたまるか!?妄想力逞しすぎて驚きの一言だよ!?」
「おい、成也」
ぽん、と俺の肩に手を置いた優人。
ふと振り返ると、クラス中が俺のことを冷ややかな目つきで見ていた。
その後、俺は教壇に立ち授業が始まるまでの間でクラスメイト達に必死に弁解したのだった。
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昼休み、待ちに待った時間がやって来る。
チャイムとともに席を立ち、予め打ち合わせておいた場所へまっすぐ向かう。
立ち入り禁止、ときつい赤文字で書かれているにしてはあまりに戒めの緩いその扉は押せば簡単に開いた。
少し早すぎたか、と思いながら足を踏み入れた屋上には人の気配はなく、ただ物言わぬ無骨なフェンスが四方に張られていた。
早夏が来るまでの時間を持て余した俺は、扉を入ってすぐの場所に壁に寄りかかるようにして腰を下ろした。
人を待つことがこんなにも切ないとは想像もしたことがなかった。
永遠にも続くかと思われる時間の中、俺は不意に訪れた睡魔に襲われて目を閉じた。
すべての音が遠い世界で、俺はひとり考えていた。
それはここで感じた違和感について。
思い出すのにそう時間はかからなかった。
人を待つことがこんなにも切ないとは――。
それは彼女も感じたことなのだろうか。
俺を待ち続けたはずの、あの少女も。
そこまで考えたところで、俺は眠りのさらに深い所へ沈んでいった。
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「ごめんなさいっ、授業が長引いちゃっ……先輩?」
やっとの思いで約束の場所に着くと、先客は壁にもたれかかって目を閉じていた。
気持ちよく眠っているようだ。邪魔をしてはいけない――そう頭では解っていながら、沸き起こる悪戯心に抗うことができずに。
つい、その頬に触れる。あたたかい。
人の肌、そのぬくもりをこれほどまでに愛おしく思い、そして求めた経験はなかったため、未だに彼女の心の内には戸惑いがあった。
しかし、彼女はそれ以上に幸せを全身で感じていた。
自分の知らなかった世界を、簡単に――それも、信じられないほどたくさん見せてくれる。そんな彼を、彼女は心底愛していた。
しかし。
彼女はどこか心の片隅で、不可思議な罪悪感を抱えていた。
しかしそんな不安材料は見なかったことにして、彼に体を寄せる。
こんな時間もいいかもしれない――そう感じながら、彼女も目を閉じる。
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「――、約束だ――ね、忘れ――――よ」
これは俺の幼い頃の記憶だろう。その得体の知れない確信を、俺は疑わなかった。
幼い俺と指切りを交わしている少女。
今までに、何度も夢に見たはずの、その少女は。
忘れるはずもない――その容姿。
一度見たら忘れないだろう。なのになぜ俺は今の今まで思い出せなかったのだろう。
そして彼女の名前――そう、名前。
全てのピースが一直線に繋がり、一つの道を指し示す。
もう、迷わない。
その過程で傷つけてしまう人もいる。
それでも俺は決めたんだ。
この、一番大切だったはずの暖かい記憶の中。
そして一番大切だった人と交わした。
約束を果たしに――。
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どうしてだろう。
涙が溢れて、とどまることを知らない。
嬉しい。そして同時に、辛い。
いつの間にか肩に頭をもたせかけて寝息を立てている女の子の顔を見る。
そっとその頬を撫でると、くすぐったそうに身震いをした彼女はすぐに目を開いた。
「あ……先輩、ごめんなさい……私も寝ちゃっ……ふぁ……」
「いいや……俺の方こそごめん。先に来たのに、寝てた」
「のに、って言いますか?それ」
ふふ、と笑う早夏。
しかしそんな彼女を見ても、つい最近まで感じていたはずの劣情は湧き上がってこなかった。
俺は大きな間違いを犯していた。
その精算をしなければならない。
固く決意した俺は、できるだけ真剣な気持ちで早夏に言った。
「早夏……ちょっと、話があるんだ」
「え……ど、どうしたんですか先輩。いつになく真剣な顔しちゃって」
「大事な話なんだ。放課後……そうだな。また、ここで」
そう言って、俺は屋上をあとにした。
去り際に目の端で捉えた早夏の顔に困惑と動揺の色を見てとって、俺の心はずきりと痛んだ。
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授業なんて当然耳に入ってこなかった。
茜の心配そうな顔がちらりと見えるが、俺はそれどころではなかった。
一刻も早くこの苦しさから解放されたかった。
それと同時に、この先に待っている場面を想像すると、この苦しみが一生続いてもいいのではないかと弱気な心持ちも顔を覗かせる。
いっそのこと誰かにすべてを話して楽になってしまいたいという昏い願望すらその芽を伸ばしてくる。
しかし俺は理解していた。
この問題は、自分の力で解決しなければ意味がないものであると。
誰かの力を借りるなんてことは以ての外だ。自分の言葉で、自分の口で。決着をつけなければ、先へ進めない。
それがたとえどれほど辛くても。
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屋上には相変わらず人気はなく、壁のペンキはもう何年も塗り直されていないようでコンクリートの肌をところどころ覗かせている。中途半端に残ったペンキは、よく見ると泣いている人の顔の形をしているようにも見えた。
今度はそう長い間を置かずに待ち人が現れる。望んでいない時ほど早く訪れるものだ。
早夏が扉から出て数歩歩いたところで立ち止まると、俺から切り出した。
「……話があるんだ」
「……はい」
早夏の表情は硬かったが、昼休みの時に比べるとどことなくどっしりと構えているような面持ちが見られた。俺と同様に、彼女もこの二時間考えたのだろう。
どんな話が始まるか、大体の見当はついているようだった。
「謝らなければならないことがあるんだ」
「……はい」
「……俺は」
そこで言葉が続かなくなる。覚悟はしていたつもりでも、いざとなると俺は弱い。その弱さをまざまざと目の前の女の子に見せつけていると思うと、惨めさと自分に対する怒りがこみ上げてきた。
言ってしまえ。
だが決してそれで楽になろうなどとは思うな。それは俺が背負わなければならない責だ。
自分の勝手な都合で女を泣かせるのだ。
「……俺はほかに好きな人がいるんだ。――いや、いたんだ」
「…………」
「それなのに俺は……俺はっ……!」
「いいんです、先輩。いいんです」
言っているうちに溢れ出した自責の念に駆られ、つい語調が尖る。
すると早夏がそれを遮って言葉を発した。
はっと気づいていつの間にか地に落ちていた視線を上げると、こぼれ落ちる粒を拭うことすらせずに――ただただ優しい、慈愛に満ちた笑みを湛えた少女がいた。
そして彼女はその笑顔のまま背を向けると、
「さようなら……ごめんなさい。先輩……!」
扉を勢いよく開け放ち、外へ飛び出していった。
俺は呆けた顔でそれを見送ることしかできない――本当に情けない男だった。
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どのくらい経っただろうか。
何時間も経ったように思えるが、恐らく十数分程度だろう。
扉の影から姿を現したのは、茉里亜だった。
無言で俺の顔を見据える。
そして俺の名を呼んだ――そう思った瞬間、左の頬に鋭い衝撃を感じた。
目の前に星が散るような痛みが突き抜けたあとに、俺は顔の両側を挟み込まれるように掴まれていた。目の前には、見たこともないような表情の茉里亜がいた。
「女の子泣かせといて……何ぼけっとつっ立ってんのよ」
苛立たしげに言う。
顔をつかみ直して、向きを変えさせられる。目の前に茉里亜の顔が見える向きだ。
泣きそうな顔をしていた。
「とっとと行きなさいよッ!!この……バカ成也!!!」
かちりと。どこかでスイッチが入る音が聞こえた。
そうだ。
そうだよ。
俺はこんなところで何をしているんだ。
行かなければ。そして伝えなければ。
それに気づかせてくれた、大切な友人の顔をはっきりと正面に捉えて言う。
「……ありがとな。おかげで目が覚めた――」
言い終わらないうちに、俺は屋上を飛び出していた。
大切なものを探すために。
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……見つけた。
建物の影にうずくまって、静かに泣いている姿はまるで叱られた子供のようだった。
叱られなければならないのはあいつの方なのにね、とひとりごちてその少女に近づいていく。
名前を呼ぶと、小さな体をびくっと震わせ。
こちらを見る目の周りは見事なまでに真っ赤に腫れあがっていた。
「あ……茉里亜さん」
「や。早夏ちゃん、元気……なわけないよね」
話したいことがあったら聞くよ、そう言って小さな女の子の隣に腰を下ろす。
すると彼女は思ったよりもはっきりとした口調で語り始めた。
「私……薄々、気づいてたんですよね。先輩、初めての夜も様子がおかしくて……」
「…………」
「それなのに、先輩は優しくて。それは先輩にとっては当たり前だったのかもしれないですけど……嬉しくて」
「……そっか」
「それなのに……私、は……ひくっ、先輩の弱みに付け込ん、で」
「辛かったらいいんだよ?無理しなくても、ゆっくりで――」
「大丈夫、ですっ。私が、話したいから」
「……うん。わかった、続けて?」
「それで……私は、ずるくて。先輩が辛そうにしている時に支えになってあげられたらなんて、そんな――そんな、ピュアな感情じゃなくて」
言葉を探しているのか、少女はしばらく黙り込んだ。
そのあいだも、しゃくりあげる声だけは隣から聞こえてくる。
思わず、抱きしめた。
「……!茉里亜、さん……?」
「大丈夫。早夏ちゃんは何も悪くない。何も気に病むことなんてない」
「でも……でも、私は――」
「誰も悪くなんてないんだよ、こういう場合は。もしどうしても、誰が悪いって決めたいんだったら――いい方法、教えてあげる」
不思議そうな顔をしている後輩を見て、再びぐつぐつと煮え立つような感情が今にも噴出さんばかりに暴れだす。
まだ、殴り足りないから。
絶対、絶対に明日、顔中腫れ上がるまで殴り倒してやるから。
だから――だから、しっかりケリつけて帰ってこい。バカ野郎。
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当てはなかった。ただ、直感にも似た何かが俺をこの場所へと連れて行ったとしか言いようがなかった。
そこは、昨日彼女を見つけられなかったはずの場所だった。
それでも俺は、確信していた。
だから高らかに叫んだ。
「話したいことがある。とても大事な話だ」
期待はしていなかった。ただ、それが当然だった。
その緑の中から、彼女が現れるのは俺にとって必然的な出来事だった。
泣きそうな顔をした彼女は、俺を見るなり怒っているとも泣いているともいえない、中途半端な表情を浮かべて立ち止まった。
「ナリ、ヤ……!」
「聞いて欲しいことがあるんだ」
一歩、また一歩と。ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めていく。
「まず、謝りたい。約束を守れなくて、ごめん。なんでもするから許して欲しい」
「ゆ、許すわけ……あるか――ばかぁ……」
完全に泣き出してしまった彼女と、また一歩距離を詰める。
あと十歩も歩けば、触れられる距離。
「それと、もうひとつ」
一歩。
「俺の本当の気持ちを伝えたい」
一歩。また一歩。
「俺は――俺は。心の底から、お前が好きだ」
立ち止まる。
ぽかん、としている彼女にもう一度伝える。
「好きだ」
「…………もう一回」
「好きだ」
「……もっと」
「大好きだ」
「まだ足りない!」
「愛してる」
いつしか二人の距離はあと一歩。
そして俺は一番伝えたかった言葉を紡いだ。
「この世で一番、愛してる――愛してるよ、世界」
「ぁ…………」
言葉がなくなるような、錯覚。
彼女は深呼吸を繰り返すだけで、言葉を発することができないでいた。
そして――そして。ようやく、待ち望んだ瞬間がやって来る。
「なり、や……成也。――成也。成也!」
「そうだ。そうだよ。世界」
「成也……戻ってきた……戻ってきたっ!成也、成也、成也っ!!」
「ああ。ただいま……。そして、おかえり。俺の――俺だけの、世界」
「ううう……ああ、成也……大好き。好き、好き。愛してる……愛してるっ!」
この時をどれだけ望んだだろうか。
忘却の果てで見つけた世界は、あの頃と変わらない姿でそこにいた。
そこにいたのに、すぐそばにあったのに。
本当の幸せを見つけることがこんなにも難しく、これほどまでに愛おしいとは。
お互いに其処に在る。それだけを確かめるために、きつく身体と身体を寄せ合う。
救世主――メシアは、本当のメシアは俺だったのだ。
この世界を、水月世界という儚い少女を救うこと。
それが俺の望んだたった一つの願い。
叶えた――。
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