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とんぼは二度微笑む

作者: サトリ
掲載日:2026/03/20

初投稿です(・・;


今朝の蕾


「困ったなあ」

恵次郎(けいじろう)が嘆息したのはその夕刻のことである。

朝の五月(さつき)の空は曇っていた。

雨が来る前にと張り切って売り声を上げる恵次郎は、十年目の植木売り稼業にも随分馴染んで今日も往来を流していた。

気風いなせが取り柄の性分、江戸の粋を形にしたような二十八歳の植木売りは、天秤棒に一杯の鉢を、棒から伸びた紐に狭い台を三段に敷いてぶら下げ、威勢よろしく大音声を上げて神田の町を流していく。

「植木やぁい、植木ぃぃ」

売り声を放り上げては振り散らし、新石町の路地へ入ろうとした時だ。

「あの、もし」

後ろからだしぬけに声がかかった。

お客かな、そう思って振り返ると、若緑の着物を纏った頬のふくよかな娘が立っていた。

とんぼ細工の施された撥の簪が飴色に光っており、年の頃は十七、八だろう、なかなかめんこい娘だ。

「へいへい、お若いお客さんから声かけてもらえるなんざ植木売り冥利に尽きるさね、お使いかな、さて、どれにするかい?」

笑顔を弾けさせて恵次郎が向き直ると、娘は少し口ごもるように顎を下げた。

そこを笑顔で誘っていく。

この子も笑えばとても素敵だろうに、どうにもそんな気配は見せない。面妖だが、お客に下手なことは言わないのが恵次郎だ。

じいっと、娘が品物の名前を口にするのを待っていると、娘は意を決したように小さな口を大きく開いた。

「あの、蛍袋が欲しいんです」

蛍袋と聞いて、恵次郎は少し面食らった。

文政に入り、確かに神田界隈でも蛍袋や桔梗の類を愛でる御仁も増えてきているご時世だが、今の恵次郎の品揃えにはない代物だ。

仕入れるだけでも数日はかかってしまう。

「あいやすまねえ、今は持っちゃいねえんだい、あと何日か待ってくれねえかな。必ず仕入れてみせるからさ」

まるで照れるように月代を掻いて言うと、娘は眉を寄せ、困ったような顔をした。

植木売りを何人も聞き回ったのか、その表情には憔悴さえ見えた。

「……駄目なんです、明後日までに手に入らないと困るんです。ご無理は承知ですが、どうか」

これには恵次郎も困ってしまい、唸り込む。

明後日、どだい無理な話のように思えたが、ふと考え付いた。

既に蛍袋の鉢を持っている家から分けてもらうことはできるだろう。商っている植木売りが他にいればそこから仕入れることもできる。

無謀なことではない。

「おう! 任しときな、明日にでも必ず渡してみせるぜ」

気風任せの安請け合いが悪い癖だが、それが恵次郎の味わいでもある。

娘の頬にふっと桃の花のような淡い色合いがさし、笑顔にはならないまでも口角はほどけた。

「恩に着ます、なんとお礼すればよいか」

慣れた所作で頭を下げる娘をにっこり笑んで見遣り、恵次郎は満足な心地で首を振った。

「いいのさ、お礼ならあんたの名前を聞かしておくれ、お客さん」

顔を上げた娘の頬に少しのほころびが宿った気がして、恵次郎は心の根から思った、この子が満面に笑んだらどんなに綺麗だろうかと。

「みやと申します、明日、またここに参りますね」

おみやはちょこんと首を傾けた。

ふと、恵次郎は瞳の裏に何かを見た。

このおみやの首を傾げる様子、ふくよかな頬、顔の造形全てが、前に一度見た姿のように思えたのだ。

「あの、お前さん……」

恵次郎の声が届く前に、小柄な若緑の着物は鍛冶町の方へ去って行った。

安請け合いしてしまった恵次郎だったが、それよりもさっきの違和感の方に気持ちを持っていかれてしまう。

どこで、いつ、なぜあのおみやの姿を目にしたのだろう。

初めて会ったような様子だったあの子に、いったいどうしてこんな印象を覚えるのか、恵次郎にはとんと分からなかった。

そこからしばらく威勢よく商いに励んだが、内心は物思いに耽っていた。

あのまなざし、顔立ち、所作、全てが記憶にあるものだ。

かつての記憶をまさぐると、どうしてもあつの思い出が浮かんでしまう。

あつとは三年も連れ添い、周囲から囃されるほど夫婦仲が良く、とても器量の良い女房だったが、二年前に疱瘡でこの世を去ってしまった。

何もできずただ去り行くあつを見守るのみだった己が憎く、しばらくは商いにも出ることができなかったものだ。

ようよう天秤棒を担ぐ気になれた時、往来を流す町娘を見るたびにやり場のない寂寥の思いに浸され、売り声も湿って歩くことすら辛かった。

そんなことを、ふとしたことで思い出しては同じ気持ちに入ってしまう。

「いけねえや」

独り言して首を振り、集まる客に片っ端から蛍袋のことを尋ねていく。

辺りを流す植木売りにも聞いてみたが、「前になら商ったんだがなあ」といった返事があるだけで、仕入れもせずに手に入れる方策はなかなか見つからなかった。

「困ったなあ」

夕刻、棒手振り稼業も畳む頃、そう呟いて下を向く。

明日にはおみやがまた来るというが、笑顔を見るどころか落胆させるのは目に見えているのだ、恵次郎の気分が上向くはずもない。

「ありゃ、なんだい随分萎れてるんだねえ」

急に横合いから声がかかったので、恵次郎はふっとそちらを向いた。

鼻筋通った華奢な姿は、辻八卦のおりくだ。

昔からの馴染みで、辻八卦とはいうものの、『狐落とし』という一風変わった商いを主にしている。

なんでも己の体にお狐様を憑依させて客にご託宣をするのだとか、曰く紛い物だ。

二十三歳で独り身を通し、恵次郎のよき相談相手でもある。

「なんでもねえ……と言いたいとこだが、知恵貸して欲しいんだ、実は――」

恵次郎はおりくに事の次第を全て話して聞かせた。

「なるほどねえ、そいつは困った話だけれど、無理なことはないんじゃないかい? 蛍袋なら鉢植えを嗜む旦那衆がお好きだろ? 神田以外の他の植木売り伝いにも辿れば案外するりと片付くかも知れないよ」

おりくはほんのりと笑む。

前向きな言葉で背を押してくれるのがおりくの良さだ。

『狐落とし』はともかく、辻八卦の商いには端から向いていたといえるだろう。

そんなおりく相手なので、恵次郎はもう一つ押してみる。

「それだけじゃねえ、あの子をどっかで見たような気がするんだ、で、昔にもおんなし願いをされたように思えてならねえ。そう……遠い昔のどっかだ」

聞いておりくはふと顎に手を当てて考え込んだが、すぐ顔を上げた。

「興味の湧くお話じゃないかい、あたしの方でもちょいと探ってみるからさ。あんたは蛍袋探すのに力を籠めなよ。どこで見たかの探し物はあたしが手伝うから」

頼りになる、あつを引きずっていなければ惚れていたのかも知れないと、心根からそう思った恵次郎だった。

「じゃあ頼むぜ、なにも危なっかしいことはしなくていいんだ、分かる限りでいい、おみやがどこから来て、なんで俺に声かけたのか、かつて見たような気がしたのはどうしてなのか、その三つさえ分かりゃそれで十分なんだぜ」

ふっと頷いて、おりくは恵次郎とすれ違って大路に溶け、探りに向かった。

あいつのことだ、興味本位で動いたと言って謝礼の銭も受け取らないだろう。

江戸の粋を絵に描いたようなのは恵次郎だけではない、おりくもそうなのだ。

さばさばした気持ちの良い女子だ。

さて、恵次郎は己の担当する蛍袋探しに邁進しなければならない。

まずは過去の得意客を虱潰しに当たって探っていこう。

「しっかし、俺はなんでここまでするんだろうな」

思えば妙な話だ、おみやは大金を詰むとは一言も言っていないし、あの高級でもない着物を着込んだ娘に出せる金などたかが知れているだろう。

それでも何かが恵次郎を突き動かす、今動かなければいけないように思えてしまうのだ。なぜか、それは己にも分かり得ない。

ただ、確かに過去に目にした同じ顔した同じ姿、光景に原因があるような気がするのだった。

翌日、商いを止めてまで、朝から昼まで恵次郎は上得意の先を回り蛍袋を探したが、どうにも簡単には見つからなかった。

咲く季節が丁度今だから誰かが商っていてよさそうなものの、周囲の植木売りも誰一人として天秤棒にぶら下げてはいない。

弱ってしまい、己の商いも放っておく訳にいかず、かといっておみやの指定した日付まで余裕もなく、途方に暮れてしまった。

須田町の板塀にもたれかかって憔悴していると、横に馴染みの焙烙屋が屈み込んでいたので、無理は元々で声をかけてみた。

「おい勘八(かんぱち)、尋ね事ですまねえが、ここらで蛍袋を商ってる奴か鉢を置いてる家を知らねえかい」

達磨のような腹をした焙烙屋の勘八は上を向き、味噌っ歯を見せて大仰に笑う。

「植木売りが分からねえことをなんでおいらが知ってるってんだい」

それはそうだが、藁にも縋るという状況だ、恵次郎は食い下がる。

「なら、ここらにおみやってえめんこい娘がいねえかい、若緑の着物した、いや今日もそれかは分からねえが、とんぼ細工の簪した十七、八の娘だ」

言い切って、恵次郎はふと恍惚のような心地に入った。

とんぼの簪が瞳の後ろに揺れる。

そこに立っているのはおみやではない、いや、幼い頃のおみやだ。それが己の前で微笑んでいる。

あれほど笑顔を見せない娘が、今己の白昼夢の中で優しく微笑んでいるのだ。

ただし、どこか悲しげにも見える様子で。

「おい恵次郎、どうしたい」

勘八の声にはっと我に返れば、いつもと同じ、人波が無秩序に流れ行く往来が広がっていた。

行き交う人は数知れず、誰が誰やら不確かな市井だが、ここに一つだけ確かなことは、己はあのおみやにどこかで必ず会ったことがある、それもかなり昔に、ということだった。

「やあすまねえ、ちょいと考え込んじまってな」

勘八はなお不思議そうに恵次郎を見上げていたが、すぐにふふんっと鼻息を大げさに抜いた。

「おめえさんの言うおみやならきっと、鍛冶町の一膳飯屋の一人娘だ、今も店に出てるはずだぜ……まあ、色々と訳のある育ちをした娘っ子らしいぜ。細かくは知らねえがな」

勘八の言葉の最後は、ほとんど恵次郎の耳には入らなかった。

聞こえてはいたが気に留める余裕はなかった。

恵次郎は既に、一目散に鍛冶町へ駆け出していたからである。


昼のほころび


鍛冶町の一膳飯屋は賑わっていた。

さして上等な料理は出さないものの、昼時に簡単な飯を求めて群がる人は多いらしい。その奥の方で、相変わらず若緑の着物に身を包んだおみやは几帳面なまでに細かく働き回っていた。

二親と思しき鉢巻きの亭主、こめかみの近くにあばたのあるかみさんが店を取り仕切り、茶碗に小さく飯を盛っていく。

恵次郎は入口の傍から隠れるように覗いていたが、おみやが己に頼み事に来た時とは打って変わって機敏に生き生きと動いているように見えて、安心半分、戸惑い半分といったところだった。

戸惑いは、命を燃やすように働くおみやの横顔にますます見覚えがあるように思えた故だ。

「……飯屋じゃあしゃんと笑うのかな」

独り言しながら見つめていたが、どうにもおみやは客商売でも安易に笑わず、どことなく客との遣り取りをかわしているように思えてしまう。

なぜ笑顔を見せないのか、そんな不思議を心にぽつんと浮かべていた時だ。

恵次郎の瞳の奥に、目を輝かせて微笑むおみやの顔が彫り上がった。

思いの外小さな背丈をしたおみやは、柔らかく優しい口許を見せてこちらに向き合っている。

恵次郎は頭を両の手で押さえた。

迫るような記憶に取り込まれるのではないかと思ったのだ。

ただ、瞳の奥から底までおみやの笑顔に浸されて仕方がなく、どうあがいても去ってはくれなかった。

驚いたが、同時に確信した、これは紛れもなくどこかで目にした表情で、見たことのある光景だ。

困惑し、狼狽している恵次郎の方へ、若緑の着物は寄って来る。

「お気を付けて」

声とともに、帰る客の茶碗を片付ける様子でおみやが入口近くまで来たものだから、恵次郎は慌て、さっとその場を離れると、何も見ていなかったかのように大路を素早く歩んで新石町の方へ引き上げた。

冷や汗なのか脂汗なのか、ともかく肩にどっぷり汗して疲れ切り、麦湯を買って喉を湿す。

すれ違う一人一人がおみやに見えて、幾重にもあの子の群れが重なり、不安な心地に苛まれていく。

「いけねえ、いけねえぜ」

麦湯を飲み干して首を振り、恵次郎は日陰に入って心を静めにかかった。

蛍袋とおみやになんの関係があるのかも分からず、過去にどこで見たのかも見当が付かない。

恵次郎は途方に暮れるより他なかった。

空に雲が増えていく、風が出てきたようで、砂埃が舞う。雲の流れも速くなり、ひっきりなしに日陰と日なたが移ろいでいく。

無為に時間を過ごしてしまったな、そう感じていた頃合いだった。

「あの、植木売りさん」

板壁の間際に憔悴して屈み、俯いていた額の上から声がかかり、恵次郎は跳ね返るように立って前を向いた。

おみやがきょとんと佇み、恵次郎に相対していた。

余程に時を潰してしまっていたらしい、おみやの商いにも隙間が生まれたほどだから、もう午後も深いのだろう。

「お、おう」

ぎこちなく返事して、気まずく月代を小突く。

「すまねえ、蛍袋はまだ見つかっちゃいねえんだい。もうしばらく……といったって明日までなんだよな、植木売り恵次郎の面目もあったもんじゃねえさ、本当にすまねえ」

威勢の良い気質も鳴りを潜め、答えは湿る。

前を見遣れば、おみやの頬も寂しそうに斜に向けられていた。

笑顔どころか落胆させるという予想が当たり、申し訳ない限りだと恵次郎は心から思い、胸を棘で刺された気分に落ちてしまう。

ただし、そこで恵次郎の心はそれまでさして気に留めていなかった疑問に満たされていき、ついには抑えられずに口を開いた。

「なあ、お客のことは詮索しねえのが性分なんだが、今日だけはちょいと聞いていいかい、蛍袋なんざなんのために必要なんだ? 一膳飯屋のおめえさんがなんで……」

そう言うと、おみやがはっと目を丸くしたので、恵次郎はしまったと思ったがもう遅い。

「……よくご存知ですね」

ばつが悪く、恵次郎の目は焦点も定まらず宙を泳ぐ。

「すまねえ、つけてた訳じゃねえんだが、みやちゃんがそこにいるって人づてに聞いちまったのさ」

吐露されておみやはやんわり口角を許し、笑顔とはいかないが優しい表情を作って語り紡ぐ。

「なにも店先に飾ろうって訳ではないんです、ただ……思い出の花ですから、川開きの花火が上がるまでに手に入れたかった、私の大切な日、大切な絆ですから」

そこまで言って押し黙ってしまうおみやを前に、恵次郎は訝った。

両国川開きの初日、五月の二十八日に花火が上がるのは今年も同じだと聞いているが、蛍袋となんの関係があるのだろう。

と、それを聞こうとしたところで恵次郎は酷い頭痛に襲われ、何か心のうちでのたうつような熱さを感じた。

我慢して顔を伏せ、顔をゆがめながらも痛む姿を見せまいとしていれば、おみやの声がこめかみに降る。

「面倒をおかけしました、潔く諦めますので、少ないのですが、これを……」

俯いた顔の前に幾らかの銭を持った華奢な手が伸びる。

この手は、一膳飯屋でおみやが身を削るように汗を散らして働く手だ、品物を渡せないのにそこから銭を受け取る道理はないと、恵次郎は渾身に頭痛を振り切った。

「いや、もう少し、もう少しだけ待ってくれ。そしてしばらく一人でいてえんだ……ああ、思い出せそうだから」

「え、何を……」

「いいんだ、いいからさ」

ぼうっと不思議そうに見つめるおみやを置いて、恵次郎はようやく絞り出すと、ふらふらとした足取りで須田町を抜け、己のねぐらも越えて大川の方へ向かった。

両国橋の上で風に吹かれて、欄干に腕を組み、顎を乗せる。

なぜここに来たのか、両国川開き、花火と聞いた時に己を襲った強烈な痛み、心がこじ開けられそうな怖さに負けたのか、それと対峙しに来たのか、どちらだろうか。

「何度も来たことがある、何度だって何時だって、良い景色だぜ」

川面に白波が立つ様子を見つめ、時折り跳ねる小さな魚影をぼうっと望む。

あつが生きていた頃、ここで花火を見ていた。それは一度ではなく幾度も重ねた日々だったが、あつの亡くなった二年前からぱたりと大川に来なくなった。

ここに来るのが怖かった、幸せを思い返す分だけ、今の辛さが寄せてくる。

遠く遠くに引いてしまった日々の面影は、時にもう二度と寄せ波にはならないこともあるのだ。

だから、さっきまでの恵次郎には両国川開きも、花火もなにもかも失われた過去を蒸し返す存在に他ならなかった。

ただ、今は違う。

おみやのために奔走した己は、自ら進んでここへ来た。誰に強いられる訳でもなく、己の意思でここに再び立っている。

なぜ、おみやと川開きと花火が重なることが、両国橋へ来ることに繋がったのだろう。

記憶の淵に刺さっていた小さな棘が、今になって大きな存在になろうとしている。何かを思い出せる気がするのである。

「あんた、最近は萎れるのがお気に入りになっちまったのかい?」

心の中であつとおみやが交錯していた時、馴染みの声を背中に聞いた。

欄干から顎を上げて振り返れば、ほんのり笑んだおりくが佇んでいた。

「おう、手を煩わせたな、おみやは一膳飯屋の娘だった。そこまでは知れたんだが、前にどこで会ったのか分からねえ。肝心の蛍袋も見つからねえままだ」

すっかり気落ちしている恵次郎の横におりくは立ち、欄干に手を置いた。

「半分は分かった訳だね、でも続きがある。あの子は双子、忌み子の妹の方だよ。方々聞き回った限りじゃあ、生まれてすぐ一膳飯屋の亭主に預けられたらしい。ただ元の親にも一膳飯屋にも情があったと見えて、実の親に会えないまでも姉妹の方は忍んで会ってたらしいよ。互いに姉妹だと教わってたのさ。飯屋の娘が違うってんならあんたが会ったのは姉の方かもね」

その時、恵次郎の瞳は大きく見開かれ、大川の流れも周囲の喧騒も静止したように感じた。

記憶が甦ったのである、それも鮮明に。

八年も前だったか、往来で声をかけてきた、かやと名乗った十歳くらいの娘は言ったのだ、蛍袋を探して欲しいと頼み事をしたのである。

飴色のとんぼ細工の簪をした、首を傾げる癖のある大人しい娘だった。

そして、微笑みの柔らかい子だった。

かやに訳を聞くと、ふくよかな頬に優しい目をしたかやはちんまり笑み、語ってくれたものだ。

『――会うたんびにどこか沈んでる、どこか引け目を感じてるみたいな妹に蛍袋をあげたいんです。あれは道端に落ちているのを見つけて二人で拾って遊んだ花、妹の笑顔が弾けてた最後の思い出、二人の絆だから』

そうだった、かやはあの頃から妹の存在を隠していなかった。

それどころか切に妹を思い、頬に満開に咲く笑顔を取り戻そうとしていたのだ。

探しに探した恵次郎だったが、当時はまだ珍しかった蛍袋をどうしても見つけ出すことができず、かやに詫びを入れた。

まるで夕の花のように萎れていた恵次郎に向かい、かやは優しく微笑んでくれたのである。

『いいんですよ、あの子はきっと、きっと、己の力でもう一度笑ってくれるから』

そして、詫びのつもりでその夜の川開きの花火を一緒に見に行った。

妹は来られなかったようだが、かやはそれでも微笑んで小さな横顔をもたげ、満開の花火に向けていたのだった。

『綺麗……妹に見せてあげられたらいいのに。来年もここに来たい、恵次郎さんとみやと、一緒に花火を見るんです』

恍惚に入っていた恵次郎の耳に、大川の水の跳ねる音が木霊する。

おりくはそんな横顔を不思議そうに見つめながら、柔らかく言葉を紡いだ。

「六年前だったらしいよ、その子は――」

「死んじまったのさ」

恵次郎が言葉を途中から継いだ。

もう思い出した、あれからかやが恵次郎の前に現れることはなく、大路で商いしていた時、客の話からかやの死を聞いた。

名の売れた職人の娘だったかやは、江戸わずらいの末に十二で世を去ったという。

植木売りが頼まれておきながら、幼い子が懸命に所望する花を手渡せなかった。そしてもう、その願いが叶うことはない。

恵次郎の心に小さな棘は、深く深く刺さった。

大川に来るのが、嫌いになった。

あつと出会い、そんな記憶を封印できるほど幸せな日々の中で、大川の花火をまた見ることができるようになっていき、かやの記憶は朧のように霞んでいったのだ。

だが、面影は消えた訳ではなかったらしい、こうして今、しっかり思い出したのである。

「俺は……どうすべきだ」

独り言した恵次郎を見つめ、おりくは呟く。

大川は優しく強く流れている。

「見つけちゃどうだい、なんだか知らないけれど、それはみやちゃんにとってだけじゃなく、あんたにとって大事なことなんだろ?」

はっと思いが燃え上がった。

萎れかけていた心は、今この時にほころび、咲き直そうとしていく。

もう一度、もう一度だけ、当たってみよう。

「……りく、恩に着るぜ」

「ん?」

恵次郎はぽかんとしたおりくの肩に手を置くと、一目散に駆け出した。

神田須田町に最後の希望がある。

八年前はまだ上得意ではなかったが、ここ数年珍しい鉢を集めている好々爺がいるのだ。そこに賭けてみるしかない。

恵次郎は草鞋の緒を切らすような勢いで駆け続け、須田町の横丁を曲がった。

「おや、恵次郎やい、どうしたねそんなに息を切らして」

数年の間にすっかり髪の白くなった老爺は驚き、恵次郎の肩を叩く。

むせ込みながら、恵次郎は縋るように老爺の腕を掴んだ。

「蛍袋、蛍袋はありゃしねえかい、俺は旦那に売ったことはねえが、他の植木売りならあるんじゃねえかい?」

老爺は緩く笑み、黙って奥の方を指さす。

あった。

数々の珍しい花や苔の鉢の合間に、小さな蛍袋の鉢が置かれていた。

「いるならひと房抜いていきな、よう分からんがそんなに血相変えて来るからには、余程の理由(わけ)があるんだろう」

ごくりと唾を飲み、恵次郎は涙ぐむ。

「旦那、今度いっとう良い鉢を持って来る、必ずだ」

恵次郎は鉢の前に屈んだ。

これでようやくおみやとの約束を、いや、八年越しの願いを叶えることができる。

震える手を伸ばした先に、照れくさがるように俯いた蛍袋は揺れていた。

約束の日は、もうすぐそこだ。


宵の花


翌朝早く、恵次郎は新石町の路頭に佇んでいた。商いは今日も休みだ。

鍛冶町から若緑の着物が近付いて真っ直ぐ歩んで来るのが見えたので、恵次郎は目を細める。

二つの影は、新石町の板塀の傍らに重なった。

「あの……」

緊張した面持ちでおみやが口を開くと、すぐに恵次郎はにっと笑み、右手に携えた蛍袋の房を、薄紫の三輪が恥じらうように身を寄せたそれを差し出す。

おみやの瞳が見開かれていく。

そこへ恵次郎の声が降る。

「なあみやちゃん、かやちゃんの分まで届けに来たぜ」

おみやはふと、仄かに口を開いて驚きを示し、見開かれたままの目で恵次郎を見つめる。

「八年前、かやちゃんが俺におんなし頼みをしたんだ。蛍袋を探してくれって、沈んでる様子の妹を力づけたい、もう一度笑って欲しい、だから二人の思い出の、絆の花が必要なんだって」

薄く開かれていたおみやの唇は緩く閉ざされ、震えを帯びる。

柔らかな風が吹き抜けて、雑踏も、喧騒も、なにもかも溶けていくように静まるのを恵次郎は感じた。

そっと、寂しそうに目を上げたおみやは囁くように語った。

「かやがそんなことをしてたなんて……知りませんでした。不思議ですね、八年越しに同じ人に同じ願いをしてしまったんです。ええ、かやにもらった簪と蛍袋は二人の絆、大切な思い出です。今日は両国川開き、そしてかやの七回忌の祥月命日ですから、私は実の親にも会えず家にも戻れないけれど、せめてかやの大好きだった花を大川に、大花火の上がるその時に両国橋から手向けたいんです」

恵次郎の目頭が熱くなり、おみやの肖像がかやの笑顔に重なる。

堪らず恵次郎はおみやの心に届くように大きな声を被せた。

「笑いなよ」

「え?」

頬を染めて驚くおみやに、恵次郎は微笑む。

「花を手向ける時は笑いなよ、かやちゃんはそれが見たいはずだから、きっと、そいつを願ってるはずだから」

ほんのりと、おみやの頬が穏やかに緩められた気がした。

「……引け目、負い目、それで笑えなくなってもかやはいつだって笑いかけてくれた。でもかやがいなくなっていよいよ……もう、それを終わりにしないと」

恵次郎はそっと歩み寄り、おみやの両の手に蛍袋を持たせると、鼻の先に顔を寄せてゆったり誘った。

「両国の大花火、見に行こうぜ。俺はみやちゃんと行きてえ、行きてえんだ」

おみやは薄っすら涙ぐみ、すとんと頷いた。

その夕刻、両国橋の上は満杯の人波に満たされていた。

棒手振りで培ったしぶとさで恵次郎は人の群れを掻き分け、おみやの袖を引いて欄干の傍まで寄る。

歓声、囃し声、笑い声、どやし声――全てが入り混じって両国の川開きだ。

人の海に酔わされて少し怖気づいているようなおみやの傍にぴたりと添って、恵次郎は空を見上げる。

花火が上がるまでの暫しの時ほどわくつくものはない、少なくともかやと、あつと見た時まではそうだった。

だが、そんな気持ちを今まで忘れ切っていたことに、今の恵次郎は染み入っている。

「大川なんか嫌いだ」

「え?」

きょとんとして振り向いたおみやに気付きながらも、恵次郎は川面の遠くをぼうっと見つめた。

「ここはいっつもおんなしように流れてる、止まっちゃくれねえ。激しい時も穏やかな時も、流れは絶えねえ。そんな大川を好きになった、かやちゃんと出会って、女房と出会って、ここが大好きになった。そして全部失ったら、もう大川なんざ嫌いになった。だが今は違うんだ、俺はもう一度、ここを好きになれるような気がするんだ」

恵次郎は目を下げておみやに微笑みかけた。

おみやの頬は柔らかくほぐれかけている。

「……私も、そんな気がするんです」

その時、わっと大きな歓声が上がり、恵次郎もおみやも勢いよく前を向いた。

花火の先駆けが昇り、すぐに砕けて舞い散っていく。

「みやちゃん!」

「はい!」

おみやの手元から、蛍袋の花が欄干の上を滑っていく。

おみやの思いを乗せた花火と、かやへの思いを込めた花が呼応していく。

その花が川面に消えていった頃、二発目の茜の花が天に昇った。

爆ぜた火の粉が散る色彩に包まれて、恵次郎はおみやを見つめた。

ぎこちなく、とても優しく微笑んだおみやがそこに佇む。

天を見上げ、もう橋の下を見据えることをせず、真っ直ぐ前を向き続ける。

「綺麗……恵次郎さん、どうしてでしょう、私前にもここで、あなたとこの景色を見た気がするんですよ。可笑しいですね、可笑しい……でも、ほんとに綺麗」

おみやとかやの表情は、八年の時を経て同じ微笑みに重なった。

恵次郎の瞳に滴が湧いていく。

「ああ、ほんとに……綺麗な花だ」

その声は歓声に消えたのか、おみやの微笑みは揺らがない。

幾つもの見物の船、欄干を覆う人の波。

大川の流れは続いていく。

恵次郎の心に燻っていた棘が吹っ切れた。

二人の時が、前に進み出そうとしていた。

という初投稿のお話でした✨

これからもランダムにアップしていきますので、よろしくお願いいたします!

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