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第三話 火野大生

「態々ご案内頂き、ありがとうございます。火野ひのさん」

「なーに。役場の恩地さんの頼みですから」


 同時刻。静岡県からやってきた植物学者の曳田ひきた勘助かんすけは、地元の猟友会に所属する火野ひの大生たいせいの案内受けて、夜墨村の象徴である常夜山とこよやまの登山道を歩いていた。日常的に村の住民が利用している道なので、整備が行き届いていて歩きやすい。


 曳田は助手の伊草いぐさ信隆のぶたかと共に、常夜山に自生するとある植物について調査をするため、県を跨いで夜墨村を訪れた。調査にあたり、村役場の職員である恩地おんち幸篤ゆきあつとも打ち合わせを行い、目的地までの案内役として火野大生を紹介してもらい、こうして常夜山へと入山していた。


「それにしても曳田さん。村に到着早々山に入るとは、なかなかにタフだね。失礼ながら、それなりのご年齢だろうに」

「フィールドワークのために体力作りは欠かしていない。探求心こそが私の原動力でね。いざという時に動けなかったら意味がない」


 先頭を行く火野が、曳田に感嘆の眼差しを送る。猟友会として山を知り尽くし、肉体的に若くて体力のある火野のペースにも、五十六歳の曳田は息を切らさずについてくる。大きなリュックを背負いながらも足取りは衰えず、その健脚ぶりは年齢よりもかなり若々しい。その一方で。


「大丈夫かね。伊草くん?」

「だ、大丈夫です。ご心配なく」


 曳田が振り返ると、助手である伊草がやや遅れ始めていた。伊草は曳田よりも二十五歳も若いが、日頃の運動不足が祟って息を切らしていた。確かに伊草は体力不足には違いないが、移動の疲れを感じさせない曳田のパワフルさは、比較対象としては規格外だ。小さな山とはいえ、はぐれれば一大事なので、曳田と火野は少しだけペースを落とすことにした。


「安心しろ伊草さん。間もなく自生地に到着するから」

「それはありがたい」

「もうすぐこの目で、常夜山のたちばなが拝める」


 火野の言葉に伊草はホッと息を撫でおろし、師である曳田は貴重な発見へと近づきつつある高揚感に溢れ、プレゼントを前にした子供のように目を輝かせていた。


「俺ら地元の人間にとっては当たり前に存在していたものだが、常夜山の橘ってのはそんなに貴重なものなのか?」

「とても貴重だよ。神奈川県内でも栽培自体は行われているが、自生する橘が発見されれば、ここが北限の地ということになるからね」


 橘とは日本に古くから野生に存在していた日本固有の柑橘かんきつで、五百円硬貨の裏面にデザインされている植物としても有名だ。本州では和歌山県、三重県、山口県、四国地方や九州地方の海岸に近い山地に希に自生している。国内で確認されている自生地は静岡県沼津市戸田地区が北限であるが、今回神奈川県夜墨村の常夜山で橘の自生地が発見されれば、北限の記録を更新することになる。これこそが曳田と伊草が夜墨村を訪れた目的であった。


「村の住人は常夜山に自生する橘を、非時ときじく様と呼んでいるよ」

「非時か。神秘的だが実に橘らしい名前だ。さぞ立派な橘に違いないな」

「ああ、良い木だぜ。曳田さんにも拝んでもらいたかったんだがな」

「火野さん。どうかしましたか?」


 突然、先頭を進んでいた火野が足を止めた。靴紐でも解けたのだろうか? 火野を気にかけて曳田が近寄ったが。


「悪いが、俺が案内出来るのはここまでだ」

「何を――」


 火野は振り返りざまに、腰に携帯していた草木を薙ぐためのなたを抜き、躊躇なく曳田の胸を切り裂いた。何が起きたのかも理解出来ぬまま、曳田はその場に倒れ込んだ。震える体で曳田は必死に両手で傷を抑えるが、火野は負傷した曳田を容赦なく蹴り飛ばす。まだ息はあるが、かなりの重症だ。


「……曳田先生? えっ? 何で火野さんが」


 二人からやや遅れていた伊草は、目の前で起きた惨劇に思考がフリーズしていた。出会ったばかりではあるが、火野にこれまで怪しい動きはなかった。むしろ親しみやすい人柄で、ここまで和気あいあいとした雰囲気で山を登ってきていた。それなのにどうして。豹変と呼ぶには、火野はあまりにも冷静で手慣れている。それが余計に恐ろしさを加速させていた。


「逃げてもいいが。あまりお勧めはしない」


 曳田の返り血に染まった鉈を手に、火野の鋭い眼光が伊草を捉えた。運動不足の伊草が山を知り尽くした火野から逃げ切れるはずがない。そんなことは百も承知で、伊草は踵を返して、全速力で駆けだした。根源的恐怖だけが肉体を突き動かしている。息が切れるが、体はそれでも前へ進み続ける。自分の体のどこに、これだけの走力が眠っていたのか。今ならどこまででも行ける気がする。このまま本当に逃げ切れるのではないか? そんな根拠のない自信さえも湧いてくる。


「人だ! 人がいる!」


 山道を必死に駈け下り、開けた場所に出た瞬間、伊草は希望を目にした。警察の制服を着た男性が、背を向けて立っていたのだ。これで助けてもらえる。安堵した瞬間、ドッと体が重くなったような気がしたが、伊草は最後の力を振り絞って警察官へと駆け寄る。


「助けてください! 山で人が殺され――」


 振り返った瞬間、警察官は回転式拳銃で発砲。銃弾は伊草の膝を撃ち抜き、伊草は駆け寄った勢いで、つんのめるように倒れ込んだ。


「終わったみたいだな。松葉まつば

「一人でもやれただろうに」

「あんたのいる方に逃げたから、俺は先に仕留めたもう一人を運んでたんだよ」

「貴重な銃弾を消費した」

「権俵に頼めばいくらでも調達してくれる。別に問題ないだろう」


 ゆっくりと伊草の後を追ってきた火野が、夜墨村駐在所の警察官、松葉まつば克士かつしに合流した。重傷の伊草にはもう、顔を上げる余裕もない。


「新鮮なうちに運んでしまうぞ。松葉は足を持ってくれ」

「その前に上着を着させてくれ。今日は村に外部の人間もいるし、制服に血がついた警察官は目立つ」


 火野の言葉に渋々頷くと、松葉はレインコートを着てから伊草の足を持った。


 ――僕は……どうなるんだ?


 助けてもらえるという伊草の希望は呆気なく打ち砕かれ、伊草は二人がかりで運ばれ、再び常夜山へと連れ戻された。


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