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立春

 まだ冷たい冬の空気が室内に満ちている。穏やかに眠る神は春の神。ここは蓬霧の住処である。誰しもが彼の眠りを妨げてはならないと声を落とすこの場所。

 いま少し季節の変わり目には早い時分に、いそいそと穴倉から出てきた狐はさっそく、姦しく主の周りを歩き回った。

蓬霧(ほうか)さま、蓬霧さま。もう直に立春でございます。春の準備の時期でございます。待ちきれず、花を綻ばせている木々もございますよ。蓬霧さま、春でございます。お目覚めください」

 もぞり。寝具は動くも起き上がる気配は無い。されとて未だ眠りの淵にいるわけでもないようで、蓬霧は普段よりももっとゆったりとした口調で応えた。

「……あぁ変わらずうるさいねぇ。まだ外は寒かろうに。狐、こっちへおいで。いっしょに温まろう」

 言うなり寝具から伸びてきた右手に狐は慌てて飛び退いた。

「やや、なんとも甘美なお誘いでしょうか。ですがなりませんよ、蓬霧さま。春はもう目の前なのでございます。狐とて心を鬼にして申し上げているのです。さぁ蓬霧さま、お目覚めください」

 右へ左へ、頭へ足先へ、忙しなく狐は歩き続ける。蓬霧の右手はそれを追うようにぱたぱたと動いた。

「起きてはいるさ。お前がここへ来るよりも早く夢からは覚めていたよ。だから花がほころんでるんじゃないか。起き上がらずとも、春は来るよ」

「あなた様の手で呼ばねば来ない春もございます。こら、蓬霧さま! そんな人の子のように聞こえないフリをするものではございませんよ」

 うぅん。唸る蓬霧はまだ半分夢の中。カタカタと戸を揺らす冬の風に肩をすぼめて狐の話を聞き流し続けた。

 特別、今年ばかり目覚めが悪いということではない。ほかの神々の事情は知らないけれど、少なくとも蓬霧は毎年狐とこの押し問答を重ねている。

 肝心なのは、これを双方が楽しんでいると言うことだ。

 無事に冬を越し、また蓬霧の世話をやけると狐は喜び。蓬霧もまた、狐が訪れてくるその日を心待ちにしていたのだから。

「蓬霧さま、さあ、顔を洗ってさっぱりしましょう。良い日でございますよ、蓬霧さまっうわっ!」

 ついに蓬霧の手に捕まり、布団の中へと引きずり込まれた狐がじたばたと手足を動かし、身を捩る。そんな様子をくすくす笑う蓬霧は懐深くに狐を抱き込み、豊かな毛並みを楽しんだ。

 はふりとため息をひとつ。抵抗を止めた狐が文句を垂れる。

「まったく、あなた様という方は。どうして毎年狐の手を煩わせるのです」

「嬉しいからさ。冬は静かで寂しいからね。姦しいお前の声が聞けて、私は嬉しいんだよ」

「それは、光栄なことでございます。私もまたあなた様の元へ来れた事を嬉しく思っておりますよ。ですから、さあ! 参りましょう。立春はすぐそこでございますよ」

 あっはっは、やはり、姦しい。

 笑ってようやく身を起こした蓬霧はそれでも狐を手放す事なく抱え続け、柔らかな腹に鼻の頭をうずめた。

 俄に風が変わる。

 ざわり、神の目覚めを察した木々は枝先を震わせ。

「狐、春が来るよ」

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