咲かずとも
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
夜に覆われた空が白みだす。鳴き交わす小鳥の囀りは徐々に重なり、目を覚ました緑がざわりと枝葉を揺らした。
まだ遠い夜明けの中、迷いない足取りで進む山神の側では早起きの狐が飛ぶようにその後をついていた。
「おはようございます蓬霧さま。今日も晴れてよい一日となりそうですね。今日はどこへ行きましょうか。西の中腹辺りなどはいかがです? そろそろ雪解けの合図を送ってくれと先日便りもきていたことですし。どこへでも狐はついて回りますよ」
「おはよう、狐。朝からうるさいねお前は、猫のように静かに出来ないのかい」
「何を仰いますか蓬霧さま。朝ですから狐はきちんと声を抑えておりますよ」
「そうか、そうか、姦しいね」
鷹揚に笑うその耳には、山に住む様々な生き物たちの声がひっきりなしに聞こえてきていた。その中でもとりわけ騒がしい所へと歩みを進める。
そこは人の作った神の社がある場所だった。近頃は、何故だか手紙を溜める丈夫な箱が用意されているため、時おり人が訪れる場所ではある。佐保姫に連なる者だと昔話したことがあるのだが、何をどう捉えたのか、そこには多くの恋の成就の願掛けが投函されていた。
また誰かが来たのだろうと箱を開ければ案の定、水色の紙に包まれた文がひとつ入っていた。触れれば匂い立つ人の願いは、しかし恋の相談ではないらしい。寒々と蕾も付けずに立つ梅の樹に、花を咲かせて欲しいとのことだった。
「錆、何か知ってるかい?」
尋ねれば、猫は眠たげに片目を開いて耳を揺らした。
「山の下にある家だね。家主が病気で手術をするとか。手紙を持ってきたのは孫娘。祖母の好きな梅の花を見舞いに持って行きたいんだと」
「なるほど。半分なにを言っているんだか分からんが、好ましい気配の持ち主だ。案内を頼みたいが、お前の縄張りかい?」
「行くのですか、人里へ。今日は霧も薄うございますが」
「そんなもの、お前が静かにさえしていれば、どうとでもなるだろう」
それはそうだと、笑った猫はゆらりと尻尾を動かした。
「蓬霧さま、案内はそこの黒に頼んでください。私の縄張り内だが、そいつの方が道をよく知っている」
「ありがとう、じゃあ頼むよ」
呼び掛けに、鳴き声をひとつ。金色の二つ灯りが導いたその場所には、古びた梅の樹が一本寒空の下に立っていた。
「おや蓬霧さま、遥々こんなところまで、よういらしゃいました」
「そなたの主の孫娘、だったかな。彼女の願いを聞いてきたんだ。君に花を咲かせて欲しいと」
「それはまた、酷なことを言うものだ」
カラカラと笑う老木の言うことは確かだろう。この樹にはもうほとんど生気が残っていない。後はゆっくり枯れるだけのつもりなのだろう。そんな樹に、花を咲かせろなどとは普通言えないものだ。
「なれど梅よ、その娘の願う気持ちも分かるだろう」
「そりゃあねぇ。あの子はよい子だ。それに、あの人が私を見て笑うあの顔が好きだったからね、枝葉の一部でもいいからあの人の元へ行きたいとも思うよ」
だから共にゆこうとしているのだろう。その幹に触れた蓬霧はそうだなぁと、梅の言葉に頷いた。
「あぁ私もあの願いを、好ましく思っているよ。だから特別、この春は私の力を貸してあげよう。梅の樹よ。最後の春を楽しむといい」
そうして歌った言の葉は、優しい春の風となって梅の老木を包み込む。
――東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ。
それは、老婆の願いか、少女の願いか。はたまた、満足げに笑みを浮かべ頭を垂れた老木の願いだったのだろうか。
柔らかな朝陽を浴びるその一枝には、紅白の梅が綻んでいた。




