第九話:姫騎士様は情報を受信する
八月二十八日。木曜日。
大学のレポート課題の提出期限が、刻一刻と迫っていた。夏休みの終わりとは、猶予期間の終わりだ。私のリアルは、ゲームのようにリセットも、ログアウトもできない。
あの日、一方的にKiteとの接続を切断してから、一週間が経とうとしていた。
私は『アストラル・フロンティア』にログインしていない。机の隅で、VRヘッドセットが静かに埃を被っている。
彼が新しいパートナーとダンジョンに潜っていた、あの光景が目に焼き付いて離れない。
私の下した「最適解」は、彼の成功という結果に繋がっているはずだ。
それなのに、私の胸に居座るこの鈍い痛み――この非効率なバックグラウンドプロセスは、一向に終了する気配がなかった。
「はぁ…」
無意識に、ため息が漏れる。レポート作成に集中できない。
意味もなくスマホでニュースサイトを眺め、SNSのタイムラインをスクロールする。脳を、思考を、停止させたい。
その時だった。
ピロン、と軽い通知音。
滅多に通知が来ないはずの、Discordからのダイレクトメッセージだった。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。彼だろうか。いや、彼が今更、私に連絡してくるはずがない。
恐る恐る画面を見ると、送り主は意外な人物だった。
『Mikan』――ギルド《ヘリオドール》でヒーラーをしている、快活な女の子だ。
Mikan: ルナちゃん、生きてるー?><
Mikan: みんな心配してるんだよ!特にギルマスが!
Mikan: ちょっとだけ、お話できないかな?
(私に…?何の用だ…?)
面倒だ、と思った。他者とのコミュニケーションは、今の私にとって最も避けたいタスクだ。
しかし、メッセージに含まれた「特にギルマスが」という文字列が、私の思考に強く引っかかった。
>何か?
私がそう返すと、すぐに着信があった。Discordのボイスコール。
私はためらった末に、マイクはミュートにしたまま、応答ボタンを押した。
『あ、もしもし、ルナちゃん!?良かった、出てくれた!』
スピーカーから、Mikanの元気な声が聞こえてくる。
『ごめんね、急に!でも、どうしても言っておきたくて…あのさ、ルナちゃんがパーティ抜けてから、ギルドの雰囲気、最悪なんだよ』
「……」
『ギルマスね、全然笑わなくなったんだ。無理して明るく振る舞ってるけど、空回りしてるの、みんな気づいてる。あれから、他のメンバーと何回か「双星の試練」に行ってるみたいだけど…』
Mikanは、少しだけ声を潜めた。
『…全っ然、ダメなんだって。昨日も、ギルドチャットでボヤいてた。「ダメだ。タイミングも、呼吸も、全部違う。ルナじゃないと、ダメなんだ」って』
その言葉は、私の耳を疑わせるのに十分だった。
私がいない方が、効率的だと。彼はすぐに、もっと優れたパートナーを見つけると。
私の立てた仮説が、根底から覆されていく。
『それにね、もっとすごいんだよ!ヴァルハラのLilyさんとか、他のギルドの有名なプレイヤーからも、パートナー申請が来てるらしいんだけど、ギルマス、全部断ってるんだって!』
「え…」
思わず、声が漏れた。
『「俺の相方はルナだけだから」って!もう、少女漫画かよって感じなんだけど、本人は本気で、すっごい追い詰められた顔してるの!』
Mikanの声は、本気で心配しているようだった。
『私、二人の間に何があったか、根掘り葉掘り聞くつもりはないよ。でもね、もしルナちゃんが、「自分が足手まといだから」とか、そういう理由で辞めちゃったんだとしたら…それは、絶対に違うから!』
「……」
『お願い、ルナちゃん。もう一度、ギルマスと話してみてくれないかな』
通話が切れた後も、私はしばらく動けなかった。
Mikanがくれた、大量の情報。
私の知らないところで、Kiteは――天宮さんは、苦しんでいた。
私がいないせいで。私ではない誰かとでは、ダメだと。
(私の、最適解は、間違っていた…?)
彼を解放するための、論理的な判断だったはずだ。
なのに、結果は、彼を、そして私自身を、深く傷つけていただけだった。
胸に居座っていた鈍い痛みの正体。それは、パートナーを失った、彼と同じ痛みだったのかもしれない。
このバグは、私一人で発生させていたものではなかった。
彼と私の、二人で共有していた、特殊な接続のエラーだったとしたら…?
(分析が必要だ)
私は、立ち上がった。
埃を被ったVRヘッドセットを、ゆっくりと手に取る。
逃げるのは、もう終わりだ。
このバグの正体を、きちんと突き止めなければならない。
彼のこと、そして、私自身のことを。
そのために、まず私がすべきことは、一つしかない。
私は、震える指で、Discordのダイレクトメッセージ画面を開いた。
宛先は、『Kite』。
点滅するカーソルを前に、私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。




