第八話:姫騎士様は接続を切断する
Kiteの問いが、静寂の中で重く響く。
『君は、一体何をそんなに怖がっているんだ?』
その言葉は、私の心の最も深い階層に突き刺さり、思考回路をショートさせた。
怖いもの。
その答えは、もう分かっている。けれど、それを言語化し、このチャットウィンドウに表示させることは、今の私には不可能だった。
それは、私の積み上げてきた全ての論理を、私自身が否定することに他ならなかったからだ。
点滅するカーソルが、私の無力さを告げている。
応答できない。肯定も、否定も。
このままでは、サーバーリソースを無駄に消費するだけの、無価値なオブジェクトになってしまう。
私が導き出した、唯一にして、最悪の最適解。
それは、エラーの原因となっているプロセスそのものを、強制終了させることだった。
私は、震える指でメニュー画面を開く。
パーティ編成画面。KiteとLuna、二人の名前が並んでいる。
私は、その横にある『パーティを抜ける』というボタンを、ただじっと見つめた。
>Kiteさん
本当に久しぶりに、私は彼の名前をチャットに打ち込んだ。
彼が、はっとしたように私のアバターを見る。
>現状、私のパフォーマンスは、サーバーファーストという目標を達成するための要求水準に達していない
>これ以上の継続は、ギルド全体の利益を損なうと判断した
>したがって、私は「双星の試練」攻略パートナーの任を、これをもって辞退する
まるで、業務報告書のような、感情の欠片もないテキスト。
それが、私の精一杯の抵抗であり、最大の臆病だった。
「な……っ、何を言ってるんだ、Luna!?」
Kiteの焦った声が、ボイスチャットから聞こえる。
しかし、私はもう、それに応答することはしない。
彼の言葉が、私の決意を揺らがせる前に。
私は、『パーティを抜ける』のボタンをクリックした。
そして間髪入れずに、システムメニューから『ログアウト』を選択する。
「待ってくれ、Luna!」
彼の最後の声が途切れると同時に、私の意識は光の粒子となって霧散した。
幻想的な星空の世界が消え、目の前に広がるのは、見慣れた自室の、薄暗い天井。
ヘッドセットを外すと、自分の頬に冷たいものが伝っていることに気づいた。
涙だった。
私の身体は、私の論理的な判断に対し、明確なエラー信号を発していた。
私はそれを無視し、布団に潜り込んだ。これでいい。問題が発生したのなら、原因を取り除けばいい。私が身を引けば、彼はもっと相応しい、優秀なパートナーを見つけるだろう。それが、最も効率的な解決策なのだ、と。
その日から、私は『アストラル・フロンティア』から距離を置いた。
大学の講義が終わっても、まっすぐ家に帰らず、図書館で時間を潰す。夜、K-POPやアニメを見る時間が増えた。彼を、彼のいる世界を、意識的に避けていた。
胸の奥にあった、あのドキドキするような「バグ」は、もう感じない。
その代わり、常にシステムリソースを微量に消費し続ける、鈍い痛みのようなものが居座っていた。
数日後の深夜。
どうしても気になってしまい、私はこっそりとゲームにログインした。ギルドメンバーには通知が行かない、ステルスモードで。
フレンドリストを開く。
Kiteの名前は、緑色に光っていた。ログイン中だ。
そして、彼の現在地を示すステータスには、こう表示されていた。
――『双星の試練』攻略中。
パーティメンバーの欄には、Kiteと、そしてギルドのナンバー2アタッカーの名前があった。彼は、新しいパートナーを見つけたのだ。
(これで、よかったんだ)
そう、思ったはずだった。
なのに、私の胸を突き刺した、この鋭い痛みは何だ。
まるで、自分の大切な場所を、他の誰かに奪われてしまったかのような。
非論理的で、非合理的で、説明のつかない、強烈な喪失感。
私は、自分の下した「最適解」が、何一つ問題を解決していないことを悟った。
それどころか、バグはさらに深刻化し、私のシステム全体を蝕み始めている。
エラーの原因を取り除いたはずなのに、エラーは消えない。
ならば、エラーの原因は、私自身の中に――。
私は、逃げるようにログアウトした。
暗い部屋の中、モニターの電源ランプだけが、孤独に点滅していた。




