第七話:姫騎士様は応答できない
八月も終わろうとしている。大学生にとって、長かった夏休みの終わりを意味する時期。
それは、自由な思考と行動が許された猶予期間の終わりであり、現実という名のメインクエストに引き戻される合図でもあった。
今の私にとって、それはKite――天宮さんとの差を、より残酷に突きつけられる期間でしかなかった。
あの日以来、私のパフォーマンスは明らかに低下していた。
脳内で完璧なシミュレーションを繰り返しても、いざダンジョンに潜ると、指先がこわばる。彼の隣に立つ自分は、本当にここにいていいのだろうか。彼の輝かしい経歴に、学生である自分が傷をつけてしまうのではないか。
そんな、以前の私なら「非論理的なノイズ」として一蹴していたはずの思考が、まるで呪いのようにこびりついて離れない。
「よし、Luna!今夜こそ、あいつら(ライバル)より先に第三階層のボスを倒すぞ!」
ログインしたKiteの元気な声が、逆に私の胸を締め付ける。
>はい
そう返すのが、精一杯だった。
その日の私たちは、明らかに噛み合っていなかった。
第三階層のボスは、タンクとアタッカーが定期的に立ち位置を入れ替わり(スイッチ)、特殊なデバフを互いに解除し合うというギミックを持っていた。成功させるには、完璧なタイミングと、パートナーへの絶対的な信頼が不可欠だ。
(次の攻撃は『星屑の斬撃』。Kiteさんがヘイト2位の私に近づき、デバフを解除するタイミングは、3秒後…)
頭では分かっている。分かっているのに、身体が動かない。
私が彼に近づきすぎることで、彼の動きを阻害してしまったら? 私の判断が間違っていたら?
そのコンマ数秒の逡巡が、全てを狂わせた。
私の行動が遅れたことで、デバフ解除のタイミングがずれる。Kiteの足元に赤いダメージエリアが広がり、避けきれなかった彼が大きく吹き飛ばされた。私が慌ててヘイトを取り戻そうとするが、ボスのターゲットが揺らいだ隙に、強烈な全体攻撃が放たれる。
画面が、ゆっくりと灰色に染まっていく。
私たちの目の前に、無慈悲なシステムメッセージが表示された。
【 YOU HAVE BEEN DEFEATED 】
「双星の試練」に挑み始めてから、初めての全滅だった。
階層の入り口に強制送還される。気まずい沈黙が、私たちを支配した。
祝祭のようなBGMが、今はひどく耳障りだ。
>申し訳ない。私のミスだ
私は、震える指で謝罪の言葉を打ち込んだ。全て、私のせいだ。
Kiteは、チャットでは返事をしなかった。
彼の分身が、私の目の前にゆっくりと歩み寄ってくる。そして、普段の快活さとはかけ離れた、真剣で、少し困ったような声が、ボイスチャットから聞こえてきた。
「…Luna。君らしくない」
責めているのではない。ただ、事実を告げるような声だった。
「ここ数日、ずっとそうだ。何かに迷ってる。さっきのミス一つじゃない。何かが、おかしいんだ」
(バレている。私が、もう彼のパートナーとして機能していないことが)
>集中力が欠けていた。次は修正する
そう返信するのが、私の最後の虚勢だった。
しかし、Kiteはもう、そんな言い訳を許してはくれなかった。
「そういう話をしてるんじゃない。戦略とか、集中の問題じゃないんだ。君自身の問題だ」
彼は、はっきりとそう言った。
「俺たち、このままじゃあのライバルたちには勝てない。このダンジョンもクリアできない。だって、シンクロしてないんだ。君は今、俺の隣にいるのに、ずっと遠くにいるみたいだ」
彼の言葉が、私の心の壁を突き破ってくる。やめてくれ。それ以上、言わないでくれ。
静寂の中、Kiteは、まるで迷子の子供に語りかけるように、優しく、そして、核心を突く問いを投げかけた。
「Luna……君は、一体何をそんなに怖がっているんだ?」
その質問に、私は息を呑んだ。
怖いもの。
分かっている。私が怖いのは、目の前の竜でも、ライバルでもない。
あなたにふさわしいパートナーでなくなってしまうこと。あなたの期待を裏切ってしまうこと。
ゲームのキャラクターではなく、ただの大学生である私が、あなたの隣に立つ資格がないと、あなた自身に気づかれてしまうことだ。
けれど、そんな、非効率で、非論理的で、あまりにも子供じみた本音を。
このチャットウィンドウに、打ち込めるはずがなかった。
点滅するカーソルが、私の無力さを嘲笑っている。
初めて、ゲームの中で、答えの分からない問題に突き当たった。
私は、彼に、何も応答できなかった。




