第六話:姫騎士様は再計算する
Discordの画面を閉じた後も、私の思考は完全にフリーズしていた。
ノートパソコンのディスプレイに反射する、自分の呆然とした顔。情報科学を学ぶ、どこにでもいる、ただの大学生。
『Kite』
本名、天宮陽介。
年齢、推定25歳前後。
職業、大手ゲームパブリッシャー『Nexus Games』社員。
更新されたユーザー『Kite』のパラメータは、私との間に、絶望的とも言える断絶を示していた。
彼は、私が夢見る世界の、ずっと先を歩いている「大人」だった。
今まで私が感じていた、あの原因不明の「バグ」。胸の高鳴りも、顔の熱さも、全ては年上の社会人に対して、子供である私が抱いた、身の程知らずの勘違いだったのではないか。
そう思うと、全身の血の気が引いていくような感覚に襲われた。
(……いや、違う)
私はかろうじて思考を再起動させる。
(彼のリアルがどうであれ、ゲーム内でのタスクは変わらない。私たちのクラスシナジーは依然として最適解だ。余計な情報はノイズだ。シャットアウトしろ、月城静音)
自分にそう強く言い聞かせる。だが、一度インストールされてしまった現実は、そう簡単にアンインストールできるものではなかった。
翌日の夜。約束の時間にログインすると、いつもと同じようにKiteが待っていた。
「やあ、Luna!今夜もよろしくな!」
その快活な声を聞いただけで、私の指先はわずかに冷える。昨日まではただの「頼れるギルマス」だった彼の姿に、今は「年上のエリート社会人である天宮さん」の幻影が重なって見えた。
>よろしくお願いします
私が返したチャットは、いつもより少しだけ、硬かったかもしれない。
彼は、それに気づいたようだった。
「ん?どうした、Luna。今日はずいぶん静かだな。何かあったか?」
(気づかれた。私の動揺が、外部パラメータに影響を及ぼしている。これではダメだ。私は『完璧なタンク』でなければならないのに)
>問題ない。始めよう
私は思考を振り払うように、ダンジョンへのゲートをくぐった。
しかし、その日の私のパフォーマンスは、自分でも分かるほどに不安定だった。
敵の攻撃パターンは完璧に頭に入っている。なのに、反応がコンマ数秒遅れる。完璧なタイミングで発動させていたはずの防御スキルが、ギリギリになってしまう。
一度、致命的な攻撃を避けきれなかった私を、Kiteが咄嗟のスキルで庇ってくれた。
「っと、危ない!大丈夫か、Luna?」
>すまない。感謝する
(私が、彼に守られた…?)
それは、タンクとして最大の屈辱だった。そして、年上の彼に「世話を焼かせてしまった」という事実に、私の心はさらに縮こまる。
そんな時だった。
ダンジョンの中継地点であるセーフエリアに、私たち以外の二人組がいることに気づいた。
一人は、長身痩躯で、白銀の鎧に身を包んだ、クールな印象の男性プレイヤー。槍を携えている。
もう一人は、快活そうな笑顔が印象的な、小柄な女性プレイヤー。魔道士のようだ。
「あれ? もしかして、ギルド《ヘリオドール》のKiteさんと、Luna姫?」
女性プレイヤーの方が、人懐っこく話しかけてきた。彼女の頭上には、うちのギルドとサーバー1位を争う、トップギルド《ヴァルハラ》のマークが輝いていた。
「やっぱり!私、Lilyって言います!こっちはうちのギルドのエース、Silver!」
『Silver』と呼ばれた男性プレイヤーは、こちらを値踏みするように一瞥し、静かに会釈だけした。
Kiteは笑顔で応じる。
「ああ、ヴァルハラの。君たちが噂のペアか。奇遇だな」
「奇遇ですねー!私たちも、もちろん『双星の試練』のサーバーファースト、狙ってますから!負けませんよー?」
Lilyと名乗る魔道士は、屈託なく笑いながら、ごく自然にSilverの腕に自分の腕を絡めた。その親密な様子は、彼らがゲームの内外で、本当のパートナーであることを示唆していた。
私とは、違う。
(彼らは、釣り合っている)
実力も、雰囲気も、まるで対になるために生まれたかのような二人。
それに比べて、私とKiteさんはどうだ?
年上の社会人と、内向的なだけの大学生。彼が私をパートナーに選んだのは、ただ私の『タンク性能』というパラメータが、彼の目的にとって都合が良かったからに過ぎないのではないか。
ライバルたちの姿は、私の心の弱さを映し出す鏡のようだった。
やがて彼らが去った後、Kiteは、初めて見るような真剣な顔で私に向き直った。
「…手強いな、あいつら。一筋縄じゃいかないぞ」
そして、私を励ますように、力強く言った。
「だけど、関係ない。俺には、最高のパートナーである君がいるんだからな。Luna、君さえいれば、俺たちは絶対に負けない」
その言葉は、以前の私なら「バグ」を発生させるだけの、ただの甘い響きだったかもしれない。
しかし、今の私には、それは、重く、冷たいプレッシャーとなって突き刺さった。
(最高の、パートナー…?)
自信がない。今の私に、その言葉を背負う資格があるとは思えない。
もし、私のせいで、彼が負けてしまったら?
「大人」である彼に、私が「子供」のせいで、恥をかかせてしまったら…?
私は、Kiteに何も返すことができなかった。
初めて、彼の信頼が、恐怖に感じられた。
私の完璧だったはずの世界に、ノイズが走り、計算式が崩れていく。
再計算の時間は、もう残されていないのかもしれなかった。




