第五話:姫騎士様は計測できない(再)
Kiteへの返信メールの作成画面を開いたまま、私の指は十分近くもキーボードの上を彷徨っていた。
「了解」「感謝」「承知」。どの定型文も、なぜか違う気がする。この、正解が見つからない感覚。最適解を導き出せない思考の迷路は、私をひどく苛立たせる。
(…非効率的だ)
このメール一通に、これ以上の処理リソースを割くわけにはいかない。私は最終的に、論理と感情の中間のような、最も無難な文字列を打ち込んだ。
>アイテム感謝。今夜も、効率的に行きましょう。
送信ボタンを押した直後、また心臓が小さく跳ねる。もう、このバグの発生を予期してしまっている自分がいる。本当に厄介な、常駐型のエラーだ。
その夜。再び「古の星見の丘」でKiteと合流する。
彼は私の姿を認めると、昼間のメールがよほどおかしかったのか、楽しそうに笑った。
「メール、読んだよ。『効率的に』なんて、いかにも君らしいな。そういうところ、俺は好きだけどね」
(…好き)
その単語が、私の思考フィルターをやすやすと貫通し、脳の中心でエラーコードを吐き出す。ダメだ。冷静になれ、月城静音。これはただの認知エラー。彼は友人に対して、親愛の情をカジュアルに表現しているだけ。意味を深読みするのは、最も非効率的な行為だ。
私は自分にそう言い聞かせ、無言でダンジョンへの入り口を指差した。
「双星の試練」の第二階層は、第一階層とは全く違うギミックが待ち受けていた。
そこに広がっていたのは、星空の海に浮かぶ、無数の小さな足場。そして、二つのクリスタル。
「うわ、うっとうしいアスレチック系か…」
Kiteがげんなりしたように呟く。
説明を読んだ私の分析は、もっと深刻だった。
これは、「信頼の回廊」と呼ばれる特殊なギミックだ。一人が青いクリスタルに触れている間だけ、もう一人の前に安全な足場へのルートが光って見える。だが、クリスタルに触れている側は、そのルートを見ることも、動くこともできない。
つまり、パートナーの言葉だけを頼りに、この見えない道を渡りきらなければならない。
「…なるほどな。俺が先に渡るから、Luna、指示を頼めるか?」
「…了解」
私が青いクリスタルに触れると、Kiteの足元から、頼りない光の道筋が伸びていった。
>Kiteさん。三歩前進。次に、右45度、二歩
>ストップ。足場が3秒後に出現
私のチャットは、まるで機械のコマンドのように、正確に、無駄なく、彼を導いていく。Kiteは私の指示を完璧に信頼し、迷いなく足を進めていった。彼が対岸に渡りきり、今度は私が彼の指示で渡る番になる。
「よし、Luna!今度は俺の番だな!……えーっと、まず、まっすぐポン、と飛んで!」
「『ポン』の移動距離を、メートル単位で定義してください」
「ええっ!?感覚だよ、感覚!信じて飛べって!」
彼の指示は、驚くほど非効率的で、擬音語だらけだった。
しかし、なぜだろう。その不器用なナビゲーションに、私は不思議と不安を感じなかった。彼の声には、私をゴールまで導くという、絶対的な意志がこもっていたからだ。
無事にギミックを突破し、小部屋で一息つく。
次の扉が開くまでの、わずかな待機時間。
「いやー、今のハラハラしたな!変な汗かいちまったよ。こういう時って、甘いものが欲しくなるんだよな。そういや今日さ、会社の同僚が、すげードギツイ色のドーナツ差し入れてきてさ」
会社。同僚。
その単語が、私の耳に引っかかる。彼は、大学生ではなかったのか…?
「写真なら、ギルドのDiscordに上げといたぜ。『飯テロ』ってチャンネルにさ。マジでやばいから、見てみろよ」
Discord。私はギルドの連絡事項を確認するためにしか使っていない。雑談用のチャンネルなど、開いたこともなかった。
だが、その時、私の心に宿ったのは、「彼のことを、もっと知りたい」という、これまで経験したことのない、非論理的な好奇心だった。
その夜、私はダンジョン攻略を終えると、初めてギルドのDiscordサーバーを開き、「飯テロ」と名付けられたチャンネルをクリックした。
そこには、Kiteの投稿があった。
『同僚からの挑戦状(物理)』というコメントと共に、一枚の写真が添付されている。
写真は、毒々しい緑色と紫色のアイシングがかかった、見るからに体に悪そうなドーナツだった。
しかし、私の目は、ドーナツそのものには向いていなかった。
そのドーナツが置かれている、オフィスのデスク。
その背景に、ぼんやりと写り込んでいるもの。
――人気ゲーム『ブレイブ・サーガ』のマスコットキャラクターの、ぬいぐるみ。
そして、その横に立てかけられた、青いネックストラップの社員証。ストラップの先端には、特徴的なロゴが印刷されている。
それは、国内大手のゲームパブリッシャー、『Nexus Games』のロゴだった。
(……会社員? それも、ゲーム会社の…?)
私の思考が、完全に停止する。
彼の大人びた雰囲気。卓越したリーダーシップ。平日の夜に集中したプレイ時間。
全てのピースが、パチパチと音を立ててはまっていく。
彼は、私と同じ学生なんかじゃなかった。
私が将来、その門を叩きたいと夢見ている業界で、すでに活躍している「大人」だった。
私と彼の間にあると思っていた距離が、本当は、計測できないほどに、遠いものであることを。
私は、その事実を前に、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




