第四話:姫騎士様は分析する
昨夜の「秘密の特訓」の後、私は『アストラル・フロンティア』からログアウトし、自室のベッドの上で天井を見つめていた。
ダンジョンは、第一階層を危なげなくクリア。戦闘におけるパフォーマンスは、ほぼ理論値通りの完璧なものだった。問題は、そこではない。
問題は、私の、生身の身体に発生した、あの致命的なエラー。
(……再現性のある、深刻なバグだ)
私はベッドから起き上がると、ノートパソコンを開き、新規のテキストエディタを立ち上げた。プログラマーの端くれとして、この原因不明のバグを放置することはできない。やるべきことは一つ。バグの特定と、そのデバッグだ。
私は、キーボードを叩き始めた。
【バグレポート】
件名: 特定条件下における、ユーザー『月城静音』の非自発的生理反応について
トリガー条件:
VRアプリケーション『アストラル・フロンティア』実行中。
ユーザー『Kite』のアバターが、パーソナルスペース(半径1メートル以内)に侵入。
上記ユーザーから、ポジティブな音声フィードバック(通称「褒め言葉」)を受信。
発生する事象:
心拍数の異常な上昇(推定120bpm以上)。
顔面領域における急激な体温上昇。
思考プロセスの一次的な停止。
期待される正常な動作: ・心拍数、体温、思考プロセス、全てにおいて平常値を維持する。
書き出したレポートを眺め、私は腕を組む。
まるで未知のウイルスに侵されたかのような症状。しかし、原因は外部ではなく、私の内部にある。
私はブラウザを開き、検索ウィンドウにキーワードを打ち込んだ。
『ドキドキ 原因』『人と話す 顔が熱い』『褒められる 思考停止』
表示された検索結果は、私の予測を裏切るものばかりだった。
「社会不安障害の可能性」「人見知りのメカニズム」…そして、最も多くヒットした、全くもって非論理的な単語。
――『恋』。
(……馬鹿げている)
私はその単語が表示されたタブを、即座にクリックして閉じた。
恋? 私が? 非効率で、非生産的で、論理のかけらもない、ただの感情の暴走に? あり得ない。そんな非科学的なもので、私のシステムエラーを説明してたまるか。
もっと、論理的な裏付けのある原因があるはずだ。
さらに検索を続け、私は一つの心理学用語にたどり着いた。
「吊り橋効果(Suspension Bridge Effect)」
吊り橋のような、不安や恐怖を感じる場所で出会った相手に対し、そのドキドキ感を恋愛感情だと誤って認識してしまう、認知のバグ。
(これだ…!)
私の脳内で、全ての事象が一本の線で繋がった。
高難易度ダンジョンという、緊張感とスリルに満ちた環境。そこで共に戦うパートナー。戦闘による興奮と、心拍数の上昇。
――私の身体は、その戦闘による生理的興奮を、トリガーとなったユーザー『Kite』への特別な感情だと「誤認」しているに過ぎない。
そう。これは恋などではない。ただの、人間の脳というOSに元々備わっている、既知のバグだ。
原因が特定できれば、対処は簡単だ。
「これは吊り橋効果だ」と常に意識し、データを客観的に処理すればいい。決して、このバグに感情を紐づけてはならない。
(解決した)
私は満足げに頷き、パソコンを閉じた。これで、次の特訓からは冷静に対応できるはずだ。
翌日の夕方。
ログインすると、ゲーム内のメールボックスに一通の通知が来ていた。送り主は、Kite。
件名は「昨日はお疲れ様!」だった。
(…メール? 用件があるならチャットの方が効率的では?)
わずかな疑問符を浮かべながら、私はメールを開いた。
『昨日の特訓、最高に楽しかったよ! Lunaと組むと、難しいダンジョンもただのデートみたいに思えるな(笑)。これ、俺が作ったポーションだけど、良かったら次の特訓で使ってくれ。今夜もよろしく! Kiteより』
添付されていたのは、手作りの上級回復ポーションが10本。
彼の合理的な貢献に感謝しつつも、私は文面に含まれた「デート」というノイズの多い単語を読み飛ばした。
重要なのは、今夜も特訓があるという事実だ。私は、昨日立てた仮説を実践する機会が、すぐに訪れたことに満足していた。
だが。
読み終えたメールを閉じようとした、その瞬間。
ドクン。
静かなはずの自室で、また、あのバグが私の心臓を叩いた。
吊り橋は、どこにもない。緊張状態でもない。ただ、彼の文章を読んだだけ。
それなのに、私のシステムは、またしても異常な反応を示している。
(仮説が、違う…? 吊り橋効果では、説明できない…?)
私の完璧だったはずの論理に、ヒビが入る。
このバグは、私が想定していたよりも、はるかに根が深く、厄介なものなのかもしれない。
私は、彼への返信メールの作成画面を開き、十分近くも、入力と削除を繰り返すことになった。
「了解」「感謝」「承知」。どの定型文も、しっくりこない。
この非効率な時間の浪費こそが、私が最も嫌うものであるはずなのに。




