第十三話:姫騎士様は初めてのデートに挑む
八月三十一日、日曜日。夏休み最後の日。
その日は、私にとって、人生で最も長い一日のように感じられた。
クローゼットの前で、私はもう一時間近くも固まっている。
昨夜、あれからずっと考えていた。天宮陽介さんと会うのに、何を着ていけばいいのだろう。
ゲームのアバターなら、最強の装備、最高のステータス、それだけを考えればよかった。でも、現実の私は違う。正解が分からない。
(このワンピースは、防御力が低すぎる…じゃなくて、可愛すぎないかな…)
(こっちのブラウスは、知的で冷静に見える…でも、地味だと思われたらどうしよう…)
頭の中で、普段は使わない回路が、ショート寸前になるほど回転している。
結局、一番「私らしい」と思える、シンプルな白いブラウスと、ネイビーのスカートを選び出した。これが、今の私の、精一杯の装備だ。
待ち合わせは、午後二時に駅前の時計台の下。
緊張のあまり、私は約束の三十分も前に着いてしまった。心臓が、まるでダンジョンのボス戦前みたいに、うるさく鳴り響いている。
もし、彼が私を見つけられなかったら? もし、本当の私を見て、がっかりしたら…?
不安が、夏の終わりの生ぬるい空気と一緒に、心を侵食してくる。
その時だった。
「もしかして…月城さん?」
聞き覚えのある、優しくて、少しだけ大人びた声。
顔を上げると、そこに、天宮さんが立っていた。
ゲーム内のKiteのアバターよりも、ずっと背が高くて、がっしりしている。シンプルなTシャツとジャケットというラフな格好なのに、彼が着ていると、何だかすごくお洒落に見えた。
彼は、少し緊張したように、でも、見慣れた太陽みたいな笑顔で、私を見ていた。
「…あ、まみやさん」
私の口から出たのは、蚊の鳴くような声だった。頷くのが精一杯で、きっと顔は真っ赤だ。
最初の会話は、ぎこちなかった。
「いい天気ですね」「そうですね」。当たり障りのない言葉だけが、気まずい沈黙を埋めていく。
そんな私を見かねてか、彼が「とりあえず、どこかカフェでも入らないか?」と提案してくれた。
カフェに入り、向かい合って座る。何を話せばいいか分からず俯いていると、彼が口を開いた。
「昨日の、ギルドのチャット見たか? Mikanたちが、俺たちのこと、めちゃくちゃ冷やかしててさ」
「…はい。見ました」
「あはは。まあ、でも、ああやって祝ってもらえるのは、嬉しいよな」
ゲームの話。それが、私たちを繋ぐ、最強の魔法だった。
『アストラル・フロンティア』の話をしている時の彼は、ゲーム内のKiteそのものだった。戦略について熱く語る時の真剣な眼差しも、仲間の話をする時の楽しそうな笑顔も、全部、私が知っている「Kiteさん」だった。
私も、いつの間にか緊張が解けて、彼と普通に話せていることに気づく。
現実の天宮陽介さんと、ゲームのKiteさん。二つの姿が、私の心の中で、ゆっくりと一つに重なっていく。
カフェを出て、駅ビルの中を並んで歩く。その、何気ない時間が、夢みたいに幸せだった。
その時だった。
「あ、天宮くーん!こんなところで何してんの?」
明るい声と共に、お洒落なワンピースを着た、綺麗な女性が、私たちの前に現れた。
「佐伯さん。お疲れ様です」
「お疲れー!って、あれ? もしかして、日曜にデート? この可愛い子、誰?」
佐伯さんと呼ばれた女性は、人懐っこい笑顔で私を覗き込んできた。
「あ、いや、えっと…こちらは、友人の、月城さんです」
友人。
その言葉に、私の心臓が、ちくりと小さく痛んだ。
佐伯さんは、陽介さんと同じ、ゲーム会社の人らしかった。二人は、私の知らない仕事の話を、楽しそうにしている。キラキラした、大人の世界。私にはまだ、入れない場所。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるのを感じた。
「じゃあ、お邪魔虫は退散するね!また明日、会社で!」
佐伯さんは、私に小さく手を振ると、颯爽と去っていった。
後に残された、気まずい沈黙。
さっきまでの温かい空気が、嘘みたいに冷えていく。やっぱり、私と彼とでは、世界が違うんだ。私が「友人」なのは、当たり前のことなんだ。
そう思った、その時。
「…ごめん」
陽介さんが、申し訳なさそうな顔で、私に言った。
「さっき、佐伯さんに『友人』なんて紹介して。月城さんが嫌な気持ちになったよな」
「え…」
「いや、だって、まだ俺、君のこと、なんて呼んでいいか、許可もらってないし…。でも、本当は、ちゃんと言いたいんだ」
彼は、一歩、私に近づくと、まっすぐな目で、私を見つめた。
「俺の、彼女ですって。…そう、紹介しても、いいかな。静音ちゃん」
彼女。
その言葉が、私の心のモヤモヤを、全部、吹き飛ばしてくれた。
嬉しくて、恥ずかしくて、顔が熱くて、俯くしかできない。
でも、私は、精一杯の勇気を出して、こくりと、一度だけ、頷いた。
すると、彼は、本当に嬉しそうに、くしゃりと笑った。
そして、おそるおそる、私の右手に、彼の手を伸ばしてきた。
初めて触れる、大きくて、少しだけ汗ばんだ、温かい手。
「良かった」
そう言って、彼は、私の手を優しく握った。
「じゃあ、行こうか。俺の、自慢のパートナー」
繋がれた手から伝わる温かさに、もう、不安なんて、どこにもなかった。
夏休み最後の日。
私の、本当の恋が、今、静かに始まった。




