第十二話:姫騎士様は新しい世界にログインする
二〇二五年、八月二十九日、金曜日。
私の、忘れられない夏休み最後の日々が始まった。
Kiteさん――天宮さんの手と、私のアバターの手が、月見台の上で重なる。
ゲームの中の、触れることのできないはずの体温が、まるで本当に伝わってくるかのような、不思議な温かさを感じていた。
「はい」
私の返事を聞いた彼は、本当に嬉しそうに、安心したように、ふわりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の世界から、すべての音が消えた。
彼の周りだけが、キラキラと光っているみたい。背景で流れていたはずの穏やかなBGMも、遠くで瞬く街の灯りも、彼の存在の前では色褪せてしまう。
心臓が、ドキドキと、今までとは全く違うリズムを刻み始める。
エラーなんかじゃない。これは、私のための、特別な音楽。
「そっか…」
彼は、少し照れくさそうに私の手を離すと、空に浮かぶ二つの月を見上げた。
「じゃあ、行こうか。俺たちの、本当のスタートだ」
その声は、いつもよりずっと優しくて、私の心に直接染み込んでくるようだった。
私たちは、もう一度「双星の試練」へと向かう。
彼の隣を歩く、この当たり前の時間が、今は何よりも愛おしい。彼のアバターが動くたびに揺れる赤い髪も、まっすぐ前を見つめる真剣な横顔も、全部、全部、私の目に焼き付いて離れない。
第三階層。先日、私たちが初めて敗北した、あのボスの前に立つ。
以前はあんなに怖かったのに、今は不思議と、心が凪いでいた。隣に、彼がいるから。
戦闘が始まると、魔法が起きた。
頭で考えていないのに、身体が勝手に動くのだ。
(Kiteさんが、次にああ動く)
そう感じた瞬間に、私は彼の進む先に盾を構え、敵の攻撃を完璧に防いでいた。
私がピンチになれば、まるで心を読んでいたかのように、彼の剣が割って入り、私を救ってくれる。
論理じゃない。計算でもない。
言葉にしなくても、彼が何をしたいのか、何をしてほしいのかが、手に取るように分かる。
これが、彼が言っていた「絆」…?
だとしたら、なんて温かくて、なんて力強いんだろう。
私たちの動きは、まるで美しい舞踏のように、完璧にシンクロしていく。
そして、あれほど苦戦したボスが、光の粒子となって消えていった。
【アチーブメント達成:パーフェクトシンク】
システムメッセージの表示と同時に、ギルドチャットが爆発した。
Mikan: きゃああああ!二人とも、すごい!討伐タイム、新記録だよー!
ギルドメンバーA: え、マジ!?さっきまであんなに苦戦してたのに何が!?
Mikan: 決まってるでしょ!愛の力だよ!( ´ ▽ )ノ♡`
Mikanさんのメッセージが、私の目に飛び込んでくる。
愛。
その一文字が、とてつもない熱量を持って、私の心を駆け巡った。
VRヘッドセットを付けているのに、自分の顔が真っ赤になっていくのが、自分でもはっきりと分かった。恥ずかしい。でも、それ以上に、胸の奥がくすぐったくて、嬉しくて、どうしようもなかった。
「ははっ、見られてたか」
Kiteさんが、楽しそうに笑っている。
彼は私に向き直ると、少しだけ真面目な声色になった。
「なあ、Luna……いや、静音ちゃん」
不意に、私の本当の名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。
「今週末で、夏休み、終わりなんだろ?」
「…は、はい」
「じゃあさ、夏休みが終わる前に、本当のお祝い、しないか?」
彼は、優しい目で、私をまっすぐに見つめて言った。
「KiteとLunaとしてじゃなくて。天宮陽介と、月城静音として」
それは、紛れもない、初めてのデートのお誘いだった。
もう、チャットを打つ指なんて、動かない。
私は、ただ、こくこくと、アバターの頭を何度も縦に振ることしかできなかった。
その夜。
ログアウトした私は、ベッドに倒れ込むと、枕に顔をうずめた。
彼の優しい声が、耳から離れない。
「静音ちゃん」という、特別な響き。
胸の奥で、甘くて、少しだけ切ない気持ちが、何度も何度も繰り返される。
もう、この気持ちが何なのか、分析する必要なんてなかった。
ただ、早く、日曜日が来てほしい。
そう、心の底から願っている私がいるだけだった。




