第十一話:姫騎士様はバグを告白する
二〇二五年、八月二十九日、金曜日。
私の夏休み、最後から二番目の日。
月見台の静寂の中、Kiteの真剣な眼差しが私を捉えて離さない。
『俺も、一緒にデバッグする』
彼のその言葉が、私の心の奥底で凍りついていた、最後の論理回路を溶かしていく。
もう、逃げることはできない。
このバグから目を背け、彼から、そして自分自身から逃げ続けた結果が、この一週間の空白と痛みだったのだから。
私は、VRヘッドセットの中で、ゆっくりと、深く息を吸った。
「…私の、エラーの正体は…」
ボイスチャットから漏れた自分の声が、震えていることに気づく。
「トリガーは、Kiteさん、あなたです」
私は、まるでバグレポートを読み上げるかのように、淡々と、事実だけを彼に伝えた。
あなたといると、心拍数が異常に上昇すること。思考がフリーズすること。
吊り橋効果という仮説を立てたけれど、それだけでは説明がつかなかったこと。
そして――先日、あなたの正体を知ってしまったこと。
「あなたが、私と同じ学生ではなく…ゲーム業界で働く、年上の社会人だと知りました」
声が、詰まる。
「私とあなたとでは、住む世界が違う。経験も、立場も、何もかも。そんなすごい人の隣に、ただの大学生で、人付き合いも苦手な私が立つのは、ふさわしくない、と…」
それは、まるで性能の違うCPUを無理やり繋ごうとするような、致命的なパラメータの不一致だと思った、と。
「あなたのパートナーとして、私は『欠陥品』だと思いました。だから、あなたの足を引っ張る前に、私というバグを、システムから切り離すべきだと…そう、判断しました」
それが、私が下した決断の、全てのロジックだった。
言い終えた後、重い沈黙が流れる。もう、彼に軽蔑されても仕方がない。なんて子供じみて、非効率的な悩みだろうか。
しばらくして、彼は、呆れたような、でも、どこか優しい溜息を、一つ漏らした。
「……そっか。そんなことで、悩んでたのか」
彼の声は、驚くほど穏やかだった。
「Luna。それは、バグなんかじゃない。……まあ、バグだとしても、それは、俺も同じだ」
「え…?」
彼は、少し照れくさそうに、月が浮かぶ夜空を見上げた。
「俺だって、君といると、調子が狂うんだ。君の、誰よりも正確で、誰よりも頼りになるプレイを見てると、尊敬する。君の、ぶっきらぼうなチャットを見ると、思わず笑っちまう。君がパーティを抜けたあの日から、このゲームは、ただの作業になった。全然、楽しくなかった」
彼の言葉が、私の心に、じんわりと染み込んでいく。
「学生? 社会人? そんなパラメータ、この世界で何の意味があるんだ?」
Kiteは、私に向き直った。
「俺が知ってるのは、Lunaが、このサーバーで最高のガーディアンだってことだけだ。そして、俺はKite。君のパートナーだ。俺にとっては、それが全てだよ」
彼の言葉が、私が自分で作り上げた、頑丈な壁を、いとも簡単に打ち砕いていく。
年齢も、立場も、現実世界のスペックも、この世界では関係ない。
彼は、ただ、私自身を――Lunaという存在を、見てくれていた。
「だから、君が自分を欠陥品だって言うなら、俺も欠陥品だ。君がいないと、まともに戦うこともできないんだからな」
Kiteは、悪戯っぽく笑った。
「デバッグプランは、簡単だ。君は、俺の年齢とか、仕事とか、そういう余計なことを考えるのをやめる。俺は…そうだな、君が不安にならないように、もっとちゃんと、言葉で伝えるようにする」
そして、彼は、私のアバターに向かって、すっと右手を差し出した。
ゲーム内での、握手のモーション。
(Kiteが手を差し出し、パートナーの再契約を申し込む場面から…)
「だから、もう一度、聞かせてくれ。Luna。俺のパートナーになってくれるか?」
その手を見て、私は、もう迷わなかった。
チャットウィンドウを開くより早く、私のアバターは、吸い寄せられるように、彼の手を取っていた。
アバター同士の手が、淡い光と共に重なる。
そして、私は、今度こそ、はっきりとした声で、ボイスチャットに乗せた。
「――はい」
その瞬間、私の胸を占めていた、あの鈍い痛みが、ふわりと消えていくのが分かった。
代わりに、温かくて、少しだけくすぐったいような、新しい感情が、ゆっくりと広がっていく。
しばらく、私たちは、何も言わずに、ただそうしていた。
この温かい繋がりを、手放したくなくて。
沈黙を破ったのは、私からだった。
彼が本当の気持ちを教えてくれたのだから、私も、本当の私を、ほんの少しだけ、見せなければならない。それが、本当のパートナーになるための、第一歩だと思ったから。
「…あの」
「ん?」
「私の、名前は…」
声が、震える。ゲームの中で、本名を名乗るなんて、考えたこともなかった。
でも、今、目の前にいるのは、ただのKiteじゃない。天宮陽介さん、その人だから。
「月城、静音、です」
言い終えた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
彼は、少しだけ驚いたように目を見開いた後、今まで見たことがないくらい、本当に、本当に優しい顔で、微笑んだ。
「…そっか。教えてくれて、ありがとう、静音ちゃん」
「!」
「俺は、天宮陽介。よろしくな、静音」
そう言って、彼は、私のアバターの手を、もう一度、優しく握り直した。
(この感情は、バグじゃない)
私は、彼の手の温もりを感じながら、静かに確信した。
(これは、私の、新しい仕様なんだ)




