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探偵たちに時間はない

前作:https://ncode.syosetu.com/n1343iq/1/

読まなくても今作だけで充分にご理解いただける内容です。

「探偵社アネモネ」には三人の探偵がいる。

ツンデレ気質の水樹。紳士的な理人。そしてシャムネコのように気紛れな陽希。

彼らが様々な謎を解決していくミステリー。

今作は、有名時計作家の屋敷で行われたミステリー会に参加することに。其処で事件が発生し――

あと数時間で二〇二七年を迎える夜、「探偵社アネモネ」の事務所には、従業員が全員揃っていた。

と言っても、この事務所には従業員が元から三人しかいない。

ロシアンブルーのように滑らかな髪をした、海老原(えびはら)水樹(みずき)。オーボエのような声をした、(たちばな)理人(りひと)

いくつものピアスをつけ、アプリコットジャムの色の髪をした、光岡(みつおか)陽希(はるき)

この三人だけで、もう十年ほど事務所を回している。三人とも同じ二十八歳で、同じく家族もいないので、年越しは大概こうやって、三人で過ごしているのだ。

薄暗い事務所の中心にある鍋から、温かみのある湯気が立ち上っていく。その鍋は、多種多様な具材で溢れており、彩り豊かな野菜と肉が調和していた。緑色のネギは長く切られ、柔らかく煮えている。オレンジ色のニンジンは小さな花形に切り抜かれ、甘みを加えていた。赤いピーマンは鮮やかな色彩を添え、食感のアクセントとなっている。

早速、水樹は取り皿と取り箸を持って、食事を始めた。

鍋の中で、豚肉の薄切りは熱によってほどよく縮れ、旨味を存分に放っている。肉の周りには、しいたけとえのきが散りばめられ、スープの味を吸い上げて、しいたけは肉厚、噛むとジューシーな旨味が口の中に広がった。繊細で、スープとの相性が抜群のえのきも良い。

スープ自体は、醤油とみりんによる甘辛いベースが特徴的だ。そこに生姜のピリッとした刺激が加わっていた。一味唐辛子の微かな辛味が後を引くような味わいを生み出し、食欲をそそる。全体として、スープは深みがあり、冬の夜にぴったりの温かさと慰めを提供していた。

「今年も一年、よく働いたなぁ」

陽希が、肉を中心にどんどん取りながら呟いた。

「そうでしょうか。年間通じて依頼はほとんど来なかった印象ですが……」

「わー、水樹ちゃんってば、すーぐそう言うつまらないこと言うよね。年末の決まり文句みたいなものじゃん」

「そうやって、ありもしないことをでっちあげ、美化するのはどうかと思います。それより陽希、肉ばかり食べないでください」

水樹が何を言っても、陽希は、ぐいぐい肉を取り箸で取って食べてしまう。やがて二人で小競り合いになってしまった。理人は、その様子を交互に見て、口元を覆って肩を軽く揺らしていた。

それから三人とも仲良く喧嘩をしながら酒を飲んで、除夜の鐘を聞きながら、眠ってしまった。

***

皆してソファで寝ていると、昼になっていた。郵便受けに何かが投かんされた音で、目を覚ましたのは水樹だった。年賀状かもしれない、と、水樹は杖を手に取り、寒さに痛む足を引きずりながら、事務所のドアを開ける。冷たい風が吹き込んできて眉根を寄せた。体を全部出さないようにして、郵便受けに手を伸ばし、ぎりぎりで中の手紙たちをキャッチする。「探偵社アネモネ」は、もはや斜陽の場であり、年賀状の量もさほど多くはない。

それらを見ながらドアを閉じて、さっさと事務所でのんびりしようと思ったところ、フリーズ。そこに年賀状とは全く異なる一枚の封筒が混ざっていたからだ。

封筒を開ける間に、中に戻る。事務所は、陽希と理人の寝息だけが響き、午後の陽光が窓から差し込む静かな空間となっている。机の上には、解決した事件のファイル。壁には過去の成功を物語る賞状。その空間の中、水樹の目は、その一通の封筒に釘付けになった。

封筒は深い紺色で、表面には微かに光沢がある。それはまるで、夜空を思わせるような神秘的な色合いだった。探偵は慎重に封を切り、中から招待状を取り出す。紙は厚手で、触れるとほのかに柔らかい質感がある。

招待状には、緻密な筆跡で次のように書かれていた。

「貴方の推理力を賞賛し、ここに招待いたします。この招待状を持って、月明かりの下、私の館へとお越しください。貴方だけが解き明かせる謎が、そこにはあります。」

水樹は、その謎めいた文言をじっと眺めた。この招待が何を意味するのか、そして誰が送り主なのか。新たな謎が、すでに彼の探求心を刺激していた。



二〇二七年一月二十二日。今宵は満月になるはずだが、今は午前九時である。

山の息吹が静かに囁く中、プラムブラウンクリスタルマイカのタントが曲がりくねった道を慎重に進んでいった。その車体は、夕日の柔らかな光に照らされて、まるで秋の果実のように深みのある色合いを放っている。タイヤは、積もった落ち葉を散らしながら、しっとりと湿ったアスファルトを軽やかに踏みしめる。

時折、窓からは新鮮な山の空気が流れ込み、車内には松の木や野生の花の香りが満ちていた。運転席の理人は、この瞬間を静かに楽しんでいるようで、その表情からは穏やかな満足感が伺える。理人の運転は、「探偵社アネモネ」の三人で最も上手である。任せておいても問題はない。

「未だ全く見えて来ませんね。目的の屋敷は」

水樹が後部座席で言うと、陽希が紙の地図を取り出して改めて見直す。

「地図からすると、もうちょっとなんだけどなぁ」

このタントは、事務所の車であるが、年末にカーナビゲーションが完全に壊れて、修理出来ていない。

件の謎の封筒に差し出し人の名前はなかったが、調べたらVincent Horologeという名前の、時計作りの名工からのものであると分かった。これくらい調べられないと、駄目だと伝えたいのかもしれない。

更に調べていくと、「Château de Chronos」と呼ばれる彼の私邸について分かった。手紙のとおり、招待状を出して人を集め、満月の夜、ミステリー会をしているらしい。参加しない理由がない。

エンジンの音は、山々の間を響き渡り、小鳥たちのさえずりと調和していた。カーブのたびに、タントはその小さな体をしなやかに曲げ、まるで山と一体になったかのように道と対話している。木々の間を縫うように進むその姿は、自然の一部として溶け込んでいく。

緩やかなカーブを上っている間に、理人が窓の外を見て、嗚呼、という小さな歓声を上げた。

「あの建物ではないでしょうか?」

慌てて、水樹も外を見やった。

一筋の光が残る空に映える古風な屋敷が見える。深い森緑色の屋根に、赤茶けたレンガの壁。円形の塔は、まるで天に向かって突き出ているかのように、紺碧の空に対して鮮やかなコントラストを描いている。

続いて助手席から外を見た陽希も手を叩いて喜ぶ。

「でっかいなー、お城みたい。凄い御馳走を出してくれないかな」

「陽希は食いしん坊さんですね」

 眉を下げて困ったように笑う理人に、水樹は腕を組んで言う。

「がっついて、みっともない真似しないでくださいよ」

タントはゆっくりと、その駐車場に入った。

***

鉄製の門は大きく開いており、駐車場には、既に五台の乗用車が停まっている。水樹たちも車を降りて、屋敷を目指して歩き出した。

駐車場から入り口までも、また遠い。足元では、灰白色の御影石の硬い表面が靴底を通じて感じられ、石同士がぶつかり合う小さな音が、静寂を破った。風が吹くと、何本もある松の木がささやくように揺れ、その暗い緑色の針葉が生み出すざわめきが耳に心地よい。

屋敷へと続くこの道を通ると、時計の針が動く「カチカチ」という音が遠く聞こえ、異世界に踏み入るような感覚に襲われた。

「石畳が剥げている部分がありますね。少し、歩きづらいでしょう。気を付けてくださいね」

理人が、杖を突いている水樹の足元を見て、眉を下げる。水樹は気遣いに感謝の意を述べて、歩みを進めていった。水樹は、過去の交通事故で足を大怪我し、それから歩行が多少困難である。車椅子を使うほどではないが、山の寒さが関節の痛みを強めた。

扉は大きな鉄製で、鳩を模した鳥の飾りのついたドアノックハンドルがついている。

「時計と言えば鳩。ドアノックハンドルにすら、時計へのリスペクトがあって、実に素晴らしい」

水樹は軽く唸った後、そのドアノックハンドルを使ってドアを叩いた。

ややあって、さび付いた音を立てて、ドアが開く。其処には、茶を基調としたクラシックなメイド服に身を包んだ、セピア色の長髪の女性が立っていた。

「お客様、大変失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

淡々と問われ、水樹たちも順に名乗っていく。

「不躾な質問をして申し訳ありませんでした。私の名前は小泉(こいずみ)綺羽(きは)。これからミステリー会の間、皆さんのお世話をさせていただきます。何かございましたらお申し付けください。よろしくお願いいたします」

「ありがとうございます」

三人は声を揃え、同じく頭を下げた。綺羽は楚々と中を手で指し示す。手には白い手袋をはめていた。

「まずは、お客様たちがお泊りになられるお部屋にご案内いたします」

綺羽はそう言うと、長い廊下を歩きだしてしまう。陽希が、天井にかかったシャンデリアを見上げ、はしゃいでいたので、水樹はそれに軽く肘鉄を食らわせ、三人で後を追いかけた。

***

水樹は息を呑んだ。この屋敷の、飴色の廊下の左右の壁は、全面が時計で受け尽くされていたからだ。鳩時計は勿論、カッコウやカエルが時間になると跳び出すもの、美しい桜、金魚が掘られたものもある。

「Vincent Horologeは、自然のリズムとのハーモニーや、複雑な機械式時計の製作に魂を傾けた時計職人でした。緻密な時計を作ることで、時計にお詳しくない方にも知られていたと思います」

 先頭をゆっくりと歩きながら、綺羽は足を動かすのと同じ速度で。淡々と語った。

「彼の代表作は、潮の満ち引きを示す機能を持つ海洋時計や、月相表示を備えたアンティーク時計です。この壁に掛けられた時計も全て、彼の作品です」

「船乗りに愛されたそうですね。それだけではなく、精密な技術は、世界中のコレクターから高く評価されていたとか」

理人が、綺羽の抑揚のない声に、オーボエのような声を重ねていく。時計には詳しくなんてないため、熱心にインターネットや書籍を調べていた背中を、水樹は思い出す。だが、どう見てもVincent Horologeに近しい存在でありそうな綺羽に、そして、Vincent Horologeは世界中の人が知っているという口調の綺羽には、敢えてそれを「調べた」とは言わないのが、理人の優しさである。

「Vincent Horologeさんは、享年七十四歳……もう十年も前に亡くなっていらっしゃる。とても、残念です。このような見事な時計を作られる方のお話を、直に御聞かせ頂くチャンスが、もう永遠にないとは」

Vincent Horologeの死の話を出すと、綺羽は、頬に睫毛の影を落として暫し、足を止めて黙り込んだ。

「……本当に、残念です。あの方ほど素晴らしい時計を作ることは、誰にも出来ないでしょう」

実に深刻そうな雰囲気から、水樹たち三人は、黙ってじっと彼女を見つめていた。しかし、綺羽は、それ以上何を言うこともなく、突き当りのドアを開けた。

「このミステリー会そのものが、生前のVincent Horologeの望みでした。どうか、全ての謎を、貴方達が解いてください」

そのドアの向こうには、クリスタルで作られたクリオネと思しきデザインの、見事な掛け時計があった。

そして、その前に、五人の人がいた。

窓際に佇む一人は、鋭い眼差しを持つ三十代半ばの女性だった。彼女の朱色の髪は肩まできれいに切り揃えられている。

「あの方は、見たことがあります。恵比寿(えびす)明美子(めみこ)さんですね。私たちと同じ探偵の」

理人が言うので、水樹も頷いた。明美子は、たびたびテレビなどにも出演しているほどの、有名人だ。続いて、眼球だけ動かして、どんな人が来ているのかを確認する。

その奥に、テーブルに着き、熱心にペンを動かしている三十代の女性がいる。彼女の青みがかった髪は毛先が外向きに跳ね、動きに満ちており、彼女の好奇心旺盛な性格を反映しているかのようだ。

彼女の隣に座っているのは、四十代と思しき落ち着いた風貌の男性で、彼の額にかかる少し白髪混じりの黒髪が、彼の経験の豊かさを物語っている。

その更に向かいに立っているのは、二十代後半の女性。彼女の長い亜麻色の髪は、知的な印象を与える眼鏡の上で軽やかに揺れている。彼女と話しているのは、五十代の堂々とした体格をした男性で、彼の目は、長年の経験からくる深い洞察力が秘められている気がした。

水樹が彼らを一頻り観察し終えたころ、綺羽が胸元に手を添えて、薄いながらも笑みを

浮かべた。

「――大変お待たせ致しました。今回のミステリー会を開催いたします」

***

陽希が、その綺羽の言葉を聞いて、小首を傾げた。

「今回の、ってことは、ミステリー会は毎回このメンバーでやってるの?」

「いいえ。謎は、家主がVincent Horologeが生前に残した、たった一種類ですから。一度、解けなかった人たちをもう一度集めたとて、結果は変わらないでしょう?」

綺羽の言葉に、明らかに数人がムッと顔を顰めた。今までの参加者が謎を解けないのを、責めているような発言だ。水樹も、綺羽が、Vincent Horologeについて語っている時、少し熱が入りすぎているような感じがしている。

綺羽は、そんな視線を全く意に介していない様子で、数ページと思しき冊子を開いた。

「Vincent Horologeからの遺言をお読みします。『皆様、ようこそ我が「Château de Chronos」へ。この屋敷には、多くの私の作品が飾られています。お気に召していただけたでしょうか。私の亡き後のことを考えるようになるにつれ、私は、もっと時計の美しさを皆様に分かっていただきたいと、強く願うようになりました。ですから、私の遺産になるであろう、この屋敷にある全ての時計を、私がこの屋敷に用意した全ての謎を解いた方に、お譲りしようと考えたのです。』」

「この屋敷にある、全ての時計を……?」

水樹たちを「探偵社アネモネ」のメンバーを除く五人のうちの、誰か男性が、うわ言のように繰り返した。しかし、ほかの人たちも、同じように脳内で繰り返したに違いない。彼の作った時計は、一つでも非常に価値のある作品だ。それを手に入れられるとなれば、相当の富になるだろう。

綺羽は、矢張りそんなざわめきも意に介していない様子の、抑揚のない声で続けた。

「『謎を解いた方にお譲りするというのは、私の一寸した余興です。私は人を楽しませるのが大好きなのです。また、こうした方が、より時計に親しみも湧くと思うのです。そのように謎をお作りしておりますので。謎も、解くためのヒントも、何もかも、この屋敷の敷地内にあります。どうか、私の最後の我儘にお付き合いください。最初の謎は、太陽の部屋にございますが、先ずは慌てず、お越しの皆様で自己紹介をし、交流を深めてから、謎に立ち向かってください。』――以上です。彼の遺言に則り、私の方で、ティータイムをセッティングさせていただきます。少々そのままお待ちください」

そう言うと、綺羽は一度、ドアの向こう側に姿を消した。彼女が戻るまでの間、其処にいた全員が、黙ってお互いを睨み合っていた。

ややあって、綺羽が、ワゴンに時計柄のティーセットを乗せて戻って来た。

「皆様、御自由におかけになってください。ニルギリを御用意いたしました」

何となく、水樹を真ん中に陽希と理人が並んで座ったところで、目の前にカップが置かれていく。

「では、遺言のとおり、皆様で自己紹介をお願い致します。此方の方から」

綺羽に手で示された青みがかった髪の女性が、びくっと飛び上がった。

「……あ、わ、私から、ですか? じゃあ、失礼します」

一度座った状態から立ち上がると、彼女の元々外向きに跳ねている髪が、一層躍動感を持って上下した。

田園(たぞの)三千(みち)と申します! 職業は、ジャーナリストをさせていただいております。今回のミステリー会についても、細かく取材する予定でして、いずれは出版までこぎつけたいと思っております。はい」

次に、その隣の堂々とした体格をした男性が、腕組みしたまま重そうな口を開く。

鈴鹿(すずか)一条(いちじょう)だ。昨年まで警察官をしていたが、今は退職した。招待に応じた理由は……怪しんだからだな」

「怪しんだ? 何を?」

綺羽が眉を上げて問うも、一条は全く動じる様子もなく、寧ろ声を僅かに大きくした。

「怪しいに決まっているだろう。こんな山奥に見知らぬ人間同士を集めて、謎解きを楽しみましょう、だなんて」

「ならば、いらっしゃらない方が安全だったのでは? 無暗に危険に首を突っ込む必要もないのでは。貴方はもう警察官ではないのですから」

冷静な声で割り込んだのは、明美子だった。一条があからさまに不機嫌になっても、どこ吹く風と言った表情で、耳に朱色の髪を掛ける間、たっぷりと沈黙の時間を取ってから、こう自己紹介した。

「恵比寿明美子です。職業は探偵。よろしくお願いいたします」

「存じ上げております!」

と、明美子の言葉に弾む声で答えたのは、四十代の男性であった。先までの落ち着いた雰囲気と裏腹に、頬の上部を赤く染め、手を叩いている。

「テレビで何度も拝見しております。僕、ミステリー作家ですが、現実に起きる事件にも、とても興味があって調べているので。あ、名前は(たかし)廣二(こうじ)です。作家としても、この名前でやらせていただいてます」

「現実の方がもっと厳しいですよ」

明美子が無表情で冷たくあしらっても、廣二は、にこにこと相好を崩すことはなかった。

理人が、きょとんとした顔で、水樹の目を覗き込んで来る。

「私は、大変申し訳ございませんが無知故に存じ上げないのですが、水樹は、隆さんを御存じですか? ほら、水樹はミステリー小説をお書きになっているじゃないですか」

「あれはネット小説です。売れようとも思っていないですし、ただの趣味ですから」

全くアクセス数が伸びないので、書いていることすら知られたくないので、理人の声が皆に聞こえないことを祈った。ちなみに、廣二の作品は知らない。陽希はミステリー小説を比較的読む方だと思ったが、何の反応もないところを見ると、恐らくは知らないのだろう。

続けて、丁度水樹の向かいに座っていた亜麻色の髪の女性が、小さく右手を挙げて口を開く。

「……大日向(おおひなた)(あさひ)。大学で、時計の研究をしています。お呼びいただけて光栄です」

 ここで、水樹も杖を突いて立ち上がり、右手を挙げた後胸に当てて、深々と頭を下げた。

「海老原水樹です。『探偵社アネモネ』の所長をさせていただいております。よろしくお願いいたします」

次に理人、陽希も挨拶する。緩く頬杖を突きながらそれを見ていた明美子が、ふっとハナから息を吐きだすようにして笑った。

「『探偵社アネモネ』って……元犯罪者を雇っているところじゃないですか」

その言葉を聞いて、水樹は自分の表情が強張るのを感じた。

水樹は、爆発物に対する知識を活かし、かつて、恋人の留学費用を稼ぐために、金策に奔走した。その前後に、事故で記憶を失ったうえ、足が不自由になり、更に数年後、その当時の恋人を亡くして、自暴自棄になったこともある。

現在は全ての罪を償っている。しかし、ぐっとあらゆる言葉を呑み込む。何を言っても言い訳にしかならない。明美子は事実しか言っていないのだから。黙って椅子に座り直す。

ニュースを知っている人も、知らないでキョロキョロしている人も、此処にはいるようだ。だが、そのことには、これ以上誰も触れなかった。

***

「それでは、最初の謎の前に皆様をお連れします」

綺羽が歩き出したので、水樹もハッとなってついて行く。そうして、通された廊下は、先ほどと違う出口に繋がっていた。

綺羽が開けたドアの先には、何も植物のない、雑草すら一本も生えていない庭があった。ただ、茶色い地面の一部に白いコンクリートが打ってあり、その上に巨大な日時計が置かれている。

兎に角文字盤が白く、眩しい。文字盤には文字がないが、針の位置で大凡の時刻を知ることが出来そうだ。今は午前十一時を過ぎたところだろう。

「この時計は……」

 理人が吸い込まれるように寄って行き、背中を丸めて覗き込むと、綺羽が横に立って手を前に揃えて述べた。

「文字盤には白いムーンストーンが使用されています。その石の中でも、影が濃く出やすいものを、作成者本人が選定して作成されました。時針、分針、秒針はいずれも黒翡翠で、特徴的な模様は全て手で彫られています」

滔々とした口調に、しっかりとこの時計について学び、何度も同じ内容を説明して来た苦労が滲んでいる。

水樹も近づいて、改めて黒翡翠だという、その針を眺めた。その三つの針のそれぞれに見たことのない模様が掘られている。見れば見るほど目を惹かれる模様だ。

文字盤は穢れない純白である。と、思って見過ごしそうになったが、一部に汚れがある。じっと顔を近づけると、わざとつけた傷にも見え、その形をメモしようと手帳を開いた。

そこへ、時計と水樹の間に入るように、明美子もそれを覗き込んだ。

「成る程ね、分かったわ」

 したり顔だ。水樹は文字盤が彼女の髪で見えなくなり、たしなめるように告げた。

「あの……大変失礼ですが、僕も今丁度、此方を観察していたところで。よく見ないと推理も出来ませんから、貴女が見終わりましたら、少し脇に避けてくださると有難いのですが」

「邪魔なのは其方でしょう」

 尖った声が、ぴしゃりとその場に叩きつけられる。水樹は思わずよろめき、たじろいでしまった。他の視線も一気に明美子に向く。それは温かいものでは決してなかったため、明美子は腕組みと咳払いをした後、話しを続けた。

「まぁ、もう、貴方達は推理なさらなくて結構。私はもう答えが分かったの」

「……答えが分かった!? もう、ですか」

旭がひっくり返った声を上げるのとほぼ同時に、辺りもざわついた。明美子は歌うように言葉を続ける。

「ええ。十六時五十分頃に、また此処に来れば分かります。そう致しましょう――……このミステリー会で最初に謎を解けば、Vincent Horologeの時計が全て手に入る。ぼんやりなんてしていられませんわ」

 呆然と立ち尽くす水樹たちの中で、綺羽だけが、じっと明美子の背を目で追っていた。

***

「明美子さんの推理力、凄かったですね」

昼食が始まるとすぐ、旭が口火を切った。

ダイニングには、昼食を摂るため、今回のミステリー会の参加メンバーが殆ど揃っていた。いないのは、明美子と綺羽だ。綺羽は、先ほどから、料理を運ぶために厨房とダイニングを忙しなく往復しており、明美子は、誰かと協力する気はないと言い切り、先に自室に帰ってしまった。

旭の言葉に乗ったのは、廣二だった。「明美子さんは素晴らしい方ですよ」と熱心に頷いている。

「明美子さんの、大ファンなんです。自分の場合、時計よりも何よりも、今回は明美子さんに会いに来たようなものでして。いや、あんな素晴らしい有名な探偵に、お目にかかれる機会なんてそうありませんよ」

余りに軽いその口調に、流石に水樹も、真面目に此処でミステリー会を開催し続けている綺羽に失礼ではないかと苦笑したが、綺羽は何食わぬ顔で、料理を積んだワゴンを押して来た。

「お待たせいたしました。今日の昼食は、先ず『ほうれん草の緑の宝石』。ほうれん草とクリームチーズのキッシュ、ナツメグと黒胡椒を効かせたものです。続きまして、『かぶの氷結舞』。かぶのピクルスとスモークサーモンのカルパッチョ。最後に、『春菊の星空』です。春菊とリコッタチーズのサラダになります。クルミと蜂蜜のドレッシングで召し上がってください」

「わーい! すっげー美味そう。綺羽ちゃん、料理美味いんだねぇ」

陽希が、早速シルバーを手に取って、大きな口を開けてキッシュを食べ始める。自分の連れて来た人間の中にも、こんな呑気なのがいるのだと思うと、水樹は恥ずかしいのと呆れたせいで頭痛を覚え、額を押さえた。でも、サラダは早々に食べた。

「でも本当、明美子ちゃんって凄いよな。うちの事務所、弱小だから、あんな頭の良い探偵に来て欲しー! 美人だし」

陽希の言葉に、廣二も大きく何度も頷きながら、「そうでしょう、そうでしょう」と繰り返した。

「……で、でも。表向きに見えていることが、全てではないというのは、ミステリ小説と一緒ですね。実態は、か、かなり厳しいんだろうと……思います」

俯いたまま料理も食べず、そう三千は呟いた。それを、明美子を熱心に推しているらしい廣二が睨む。すると、三千は体をぎゅっと縮こまらせて、「すみません」と謝った。

「わ、私も、明美子さんの実情に詳しい訳ではないのですが……ただ……最近、彼女が所長を務める探偵事務所の経営が、か、傾いているらしくて、ですね……」

この告白には、廣二も、その他の人たちも、「え」と言って三千を見て固まった。すると、更に三千は恐縮して縮こまってしまい、人差し指を口の前に立てて、しーと繰り返す。

「あ、えっと、あ、あくまで、私が一寸小耳に挟んだだけの情報なので、さ、さ、定かなことでは。お、オフレコで! オフレコ、オフレコでお願いします」

「警察でもそんな噂があったなぁ」

一条が、スモークサーモンを鋭い歯で噛み千切りながら、苦い顔で言う。

「あの女は、探偵として得た情報を基に詐欺をして、ホストクラブに貢いでるんだって。今回、時計を手に入れても、売り払ってホストに使うんだろうよ」

「そんなのは、嘘ですよ。ただの噂です。だって、この私が聞いたことのない話ですよ」

廣二が強い口調で割り込むと、一条は体を倒すようにして廣二から離れた。

「アンタは、あの明美子って女の何を知ってるって言うんだ」

「け、け、喧嘩しないでくださぁい! 私が余計なことを言ったからですよね、ご、ごめんなさい……」

理人も一条と廣二の間に入って、どうにか諫める。このようにして、昼食会はお開きになった。

***

昼食会の後は、各々が各々の部屋で、休憩することになった。明美子が言っていた時間の十五分前には、必ずダイニングに集まるように、というのは、昼食会の前に皆で決めた。

水樹は勿論、理人も、遅刻魔の陽希ですらギリギリとは言え約束のとおりに集まり、残るは廣二と、言い出しっぺの明美子だけとなった。

「あの女ども、時間すら守れないのか。やっぱり、人を騙すようなやつは、ろくでもないな。それをファンと崇める輩も似たようなものだ」

一条が腕組みして唸っているのを、理人は両手を上下に動かして、まぁまぁと言って宥めた。理人のオーボエのような声は、誰しも落ち着かせる効果がある。

しかし、事実として、二人が揃わないと、何となく日時計のところには行きにくい。仕方なく、水樹は綺羽に、「明美子さんの部屋に行って、呼んで来てください」と依頼した。綺羽は黙って頷くと、ダイニングを後にした。

それから、残ったメンバーで、日時計の謎について議論し、推理を深めていた、その時だった。上の階から、耳をつんざくような悲鳴が聞こえたのは。

***

水樹が困っている一つは、階段を走って上れないことだ。こういう時は、顔だけではなく、体もシャムネコのように俊敏な陽希が、真っ先に飛び出して行ってくれる。理人は、水樹の傍に常について、万が一の危険に備えるという流れが出来ている。

水樹が追いかけて、ようやく明美子の泊まっている部屋に辿り着いたところで、陽希の姿は既になく、綺羽が尻もちをついて口元を押さえていた。陽希が、その背を摩って励ましている。

部屋に飛び込んでみると、其処に、明美子がいた。明美子は両手、両足を開いた状態で、縄で天井と壁に縛り付けられていた。真っ赤に口紅を塗った口と目は開いたまま、床の辺りをじっと見ており、胸から血が流れている。そして、丁度その視線がある方向の床に海を作り、今もぽたぽたと補充している。

水樹は杖を構えた。咄嗟に、まだこの部屋の中に、明美子をこんなにした犯人が潜んでいる可能性について思い至ったからだ。耳を澄まし、水音が聴こえることに気づく。

「水樹ちゃん。危ないから下がってて」

陽希が水樹の前に立ってファイティングポーズを取る。綺羽の傍には、理人がいる。彼は過去のことがあり、女性の背中を撫でたりはしないが、近くに屈んで話を聞いているようだ。

水樹は小さくため息を吐いた。

「お前こそ危険ですから無理しないでください。水が流れる音がしますね」

「キッチン……はないみたいだから、お風呂かなぁ」

陽希がまさにネコのように足音を忍ばせて歩いて、客室の奥へ進むのに歩幅を合わせて、水樹もついていく。

浴室が見えた瞬間、陽希の足が突然、びくっと止まった。水樹も、彼の腕の間から、浴室を覗き込む。そしてすぐ、陽希が足を止めた理由を理解した。

浴室は、血だらけになっていた。壁、床、天井、シャワーヘッド、鏡と血が飛び、こびりついている。浴槽に、全裸の男が一人、倒れている。縁から両手と両足が出て、すっぽり嵌ったような体勢だ。

廣二だ。俯いて動かないが、明らかにこと切れている。

更に目を眇めて見ると、電気のコードが、洗面台から浴室、浴槽の中まで繋がっているのが分かる。何らかの電化製品が、たっぷりのお湯が張られた浴槽に放り込まれて、其処に入っていた廣二が感電死したのだろう。下手に近づかないで正解だ、と水樹は腕組みしながら思った。

しかし、不思議なことがいくつかあった。

「この血液は誰のものでしょうか? 見たところ、廣二さんの体には傷がないようです。それに、此処は明美子さんが泊まるはずの部屋の浴室です。何故、その風呂に廣二さんが入っているのか?」

 水樹が、ぽつぽつと述べた疑問に、陽希も重ねる。

「それに、見て。湯気が立っていない……」

屈んだ彼が、そう呟いた時、後から追いかけて来た一条と三千が、小さく悲鳴を上げる。

「こ、こ、これは一体……」

元から常に怯えたような態度である三千は、体を縮こまらせて真っ青になり、言葉を失っているが、一条はすぐにショックから回復したらしく、太い腕を組んで浴室を覗き込んだ。

「これは、この隆廣二って男が、あの女探偵を殺して磔にした後に血を洗い流そうとして、焦ってドライヤーを浴槽に落としちまった。そう言うことだろうな」

「流石は元警察官、落ち着いていらっしゃる」

水樹が彼の腕の横から顔を出すと、一条はあからさまに舌打ちして離れた。

「アンタは元犯罪者だろうが」

そう言うだけ言って、浴室を出てしまう。やっと少し落ち着きを取り戻した三千が、言葉の続きを引き取った。

「……あ、で、でも、確かに……そ、その可能性は高いでしょうね。廣二さんの、明美子さんへの情熱は、相当なものでしたから……や、いや、ということは、わ……私が明美子さんの経済事情を教えたせいで……失望して、殺してしまった……?」

「いいえ」

瞬きすら忘れて自分を責め始めた三千の言葉と、恐らくは思考そのものも、オーボエのような優しい声が包んで遮る。理人が、いつもと何ら変わらない笑顔で立っていた。

「田園さんは、あくまで事実を伝えただけです。事実は、いずれ、別のことから隆さんのお耳に入ったかもしれませんし。最終的には、どんな状況であれ、人を殺める人が一番悪いのですよ」

理人の穏やかな指摘に、三千も落ち着いたように見える。こうやって、空気を読むのが上手い理人に任せておくと、交渉などもスムーズに進んで良いと、所長である水樹は思う。

「……あの。すみません」

かなり遅れて浴室にやって来た旭が、小さく右手を挙げて口を開いた。

「……もうそろそろ時間です。現在時刻、十六時四十分。明美子さんが生前に仰った推理……確かめに行きませんか」

「未だミステリー会なんて続けるつもりだったのか」

 尖った声を出したのは一条だ。目も三角になっている。

「人が二人も死んでるんだぞ。時計職人が遺した遺産なんてどうでも良いだろうが、どれだけ金に目がくらんでるんだ」

水樹は思わず間に入り、まぁまぁ、と手を上下にやって制した。

いつの間にか、水樹の傍に来て胸の前で手を組んだままじっとしていた綺羽が、それでもまだ声は震わせながら、言葉を絞り出した。

「……それで、どうなさるのですか? 日時計のところへ行かれるのならば、同行いたします」

「何か、殺人犯に繋がるヒントがあるかもしれないしなぁ。俺は行くよ」

陽希の明るい声が救いとなって、皆も目を見合わせ、頷いた。

***

そうして、全員、件の日時計の前に集まった。

明美子から提案のあった時刻まで、あと三秒――二秒、一秒。水樹の背から、今まさに、暮れていく大きな、橙と紫を合わせたような日が、やがて、巨大な白い文字盤に、その時を照らし出した。

「っ、これって……」

その場に集まった皆が、同時に、ハッと息を呑むのが分かった。

絶妙に光が重なり合い、文字盤に表示されたのは、葉っぱとシダの絵であった。

「この模様は……? 植物……でしょうか」

水樹が眼鏡を中指で持ち上げながら呟くと、理人が更に小さく「あっ」と声を上げて、文字盤を指さした。

「新しい文字が出てきました」


Head to the botanical garden and look for the "correct scale"


文字盤には確かに、そう表示されていた。そして、その下に何故か、いくつかの音譜が描かれている。


「明美子さんは、未だ影が出る前の段階でこの文字盤を見ただけで、頭の中でどのような文字が表示されるか、組み立てて推測したということですか……その才能、認めざるを得ないですね」

余りにレベルの高い推理力に、水樹は思わず肩を竦めて、ため息を吐いた。綺羽が、胸元に手をやった状態のまま、静かに頷いた。

「植物園ならば確かに、当屋敷内にございます。御案内します」

「お願いします」

水樹がはっきりと言葉を返すと、綺羽を先頭に、皆がぞろぞろとそれについて歩き出す。水樹は、歩きながら理人の肩を掴んだ。そして、彼の耳に口を寄せる。

「ただ、一つだけ分かったことがあります」

「分かったこと、とは?」

理人が首を傾げる。事情を何も聞く前から声を潜める辺り、流石、勘所を理解している。理人とは長く仕事を一緒にやってきて、信頼できる仲だ。

「明美子さんを殺害した犯人は、遺産である時計を目当てにはしていない」

水樹が耳元で囁くと、理人は根拠を聞きたそうに目を向けてくる。なので、更に理人の耳元に口元をくっつけるレベルで、続きを話した。

「この屋敷に残された時計が狙いで、素晴らしい推理力の持ち主である明美子さんを消したのであれば、参加者のうちの全員を殺害しなければ意味がない。既に、この日時計の答えまでは全員が聞いてしまっています。殺害の対象が多いのは事実ですが、人一人が突然、全力で暴れれば殺せない人数ではありませんからね。そうしないということは……矢張り犯人は、廣二さんとしか考えられない」

「それは確かにそうだけどさぁ、水樹ちゃん」

水樹と理人の間に、陽希が急ににゅっと顔を出して来たので、水樹は「ギャッ」と気勢を上げてしまった。

「いきなり顔と口を出して来ないでください」

「まあまあ、落ち着けって。良いか? 明美子ちゃんを殺した犯人は、あんな風に明美子ちゃんを磔にしてるんだ。酷いなぁと思うけど、それ以上に、あんなことをするだけの余裕があったとも考えられる。時間的にも、精神的にも」

理人が、「なるほど」と、相変わらず潜めたままの声で同意と補足を始める。

「つまり、拷問を掛ける余裕もあった……明美子さんを殺害する前に、拷問をかけて、今後の推理に有利な情報を引き出した可能性もありますね」

「あくまで『有利な情報を手に入れた』というだけだから、もしも犯人が時計を目当てにライバルを消しているなら真相にはたどり着けない。未だ事件は続くかもね」

「気を付けてくださいね、水樹」

「……理人と陽希も。今日は念のため、全員同室に集まって眠ることにしましょう」

此処で一旦、植物園に向かうため、三人とも口を鎖した。

***

皆の先頭を歩いていた綺羽が、重そうなドアを体当たりで全身を使うようにして開けると、むっとした、この季節に全く相応しくない風が水樹の頬を撫でた。

説明を受ける前から、目の前に広がる色とりどりの花々、花を擽る芳香が、其処が広大で、素晴らしい植物園であることが分かった。

「ようこそ、四季の植物園へ」

 綺羽がまた、胸に手を当てて、流暢な説明を始める。

「この植物園は、四季折々の美しい花々と緑に囲まれた癒しの空間です。年間を通じて異なる季節の花が同時に咲き誇っております。訪れるたびに新しい発見と感動をお届けできることでしょう。春のエリア には、桜やチューリップ、アネモネなどの花々が咲き誇り、色とりどりの景色が広がります。特に桜のトンネルは、訪れる人々にとって忘れられない思い出となるでしょう。夏のエリアには、ヒマワリやラベンダー、マリーゴールドが鮮やかに咲きます。香り豊かなラベンダー畑では、リラックスしたひとときをお過ごしください。秋のエリアには、紅葉した木々やダリア、コスモスが見事な景観を作り出します。特に紅葉のトンネルは、秋の訪れを感じさせる絶景スポットです。冬のエリアには、クリスマスローズやシクラメン、スイセンが咲き、静かな美しさを楽しむことができます。雪が降ると、植物園全体が幻想的な雰囲気に包まれます」

綺羽が胸から手を離し、彼女の隣に立っている看板を指し示した。

「全ての花の一覧は、こちらにございます。参考になさってください」

アネモネ (Anemone)

アザレア (Azalea)

アマリリス (Amaryllis)

アスター (Aster)

アルストロメリア (Alstroemeria)

イベリス (Iberis)

イチゴ (Strawberry)

イングリッシュブルーベル (English Bluebell)

ウメ (Plum)

エーデルワイス (Edelweiss)

エキナセア (Echinacea)

オオイヌノフグリ (Veronica persica)

オオバコ (Plantain)

オダマキ (Columbine)

オニユリ (Tiger Lily)

カーネーション (Carnation)

カサブランカ (Casa Blanca)

カタクリ (Dogtooth Violet)

カトレア (Cattleya)

カランコエ (Kalanchoe)

キキョウ (Balloon Flower)

キク (Chrysanthemum)

クレマチス (Clematis)

クロッカス (Crocus)

グロリオサ(Fire Lily)

コスモス (Cosmos)

サクラ (Cherry Blossom)

サルビア (Sage)

シクラメン (Cyclamen)

シャクナゲ (Rhododendron)

ジャスミン (Jasmine)

スイセン (Daffodil)

スイレン (Water Lily)

スズラン (Lily of the Valley)

セイヨウタンポポ (Dandelion)

ゼラニウム (Geranium)

ソメイヨシノ (Somei Yoshino)

ダリア (Dahlia)

チューリップ (Tulip)

ツツジ (Azalea)

ツバキ (Camellia)

デイジー (Daisy)

トリカブト (Monkshood)

ドクダミ (Houttuynia cordata)

ナデシコ (Dianthus)

ニチニチソウ (Periwinkle)

ネモフィラ (Baby Blue Eyes)

ハイビスカス (Hibiscus)

バラ (Rose)

ヒマワリ (Sunflower)

フリージア (Freesia)

ベゴニア (Begonia)

ミヤコワスレ (Myosotis sylvatica)

ラベンダー (Lavandula)

レンギョウ (Forsythia suspensa)

「……それでは、皆さん、御自由に捜査をなさってください。これから二時間後に此方に集まっていただき、植物園を閉鎖し、部屋に戻っておやすみいただきます。あのような事件がありました以上、ある程度の管理は必要かと思いますので」

綺羽が恐縮したように言うと、皆が曖昧ながらも頷いて、わらわらと各々に動き出した。

水樹たちが何の気なしに足を向けたのは、春の花のエリアだ。

***

春を模した柔らかな月光が降り注ぐ中、水樹たちはソメイヨシノのアーチの下を歩いた。淡いピンク色の花びらが風に揺れ、まるで天から降り注ぐシャワーのように舞い落ちてくる。枝々が絡み合い、自然が作り出したトンネルのように私を包み込む。

足元には、花びらが絨毯のように敷き詰められ、歩くたびにふわりと舞い上がった。空を見上げると、夜空と桜の花が織りなすコントラストが美しく、心が洗われるような気持ちになる。甘くてほのかにフルーティーな香りが鼻をくすぐる。その香りは、まるで春の訪れを告げるメッセージのように、心を幸福感で満たしてくれた。

「花が育ちやすいように、気温まで完璧に管理されているなんて、凄い情熱を感じます」

水樹が言うと、理人と陽希も頷いた。

するとその時、どこからか軽快なメロディが聴こえて、辺りを見回す。しかし、何も音源らしいものが見当たらなかったので、水樹は足早に、音を頼りに歩き出した。

ソメイヨシノのトンネルを抜けた先に、高さ三メートルほどの、時計が鎮座していた。白い煉瓦で作られた、その中央に文字盤と、すぐ上に穴があって、そこから一羽の鳥の模型が出入りしている。瑠璃色の羽根に白い腹の鳥だ。この鳥の出入りに合わせて軽快なメロディが流れている。

「鳩、でしょうか? 鳩時計?」

水樹がその鳥の模型を覗き込んでいると、理人が横にやって来て、「それにしては随分と青いですね」と首を捻る。確かにその通りだ。

更に反対側から、水樹を覗き込んで来た陽希が、「オオルリだよ」と言う。

「オオルリで間違いないんじゃないかな。綺麗な声で鳴くんだよ。青い鳥の代表格の一種でもあるし、日本三鳴鳥の一種とも言われているね」

その後、他の季節のエリアも見て回った。全ての花が生き生きと咲き誇っていたが、推理の目ぼしい材料はなかった。

予定の時間通りに皆が所定の地点に集まり、無事を確認したところで、この日は寝室に戻ることとなった。

危険性を少しでも減らすため、水樹と理人と陽希の三人は、この日は同室で休むことにした。

***

理人がベッドの上で、ぱっと目を開け、部屋の壁に備え付けの時計を見た時、深夜の三時だった。命が狙われているかもしれないというプレッシャーは、矢張り睡眠に良い影響は与えないようだ。

体を起こすと、陽希も目を覚ましたらしく、「うーん」と唸った後、目を擦りながら理人を見た。

「どうしたの、理人ちゃん」

「いえ、悪い夢を見てしまった気がして」

「そっか……ちょっとお散歩でも行こうか?」

「水樹を置いて行くのは危険ですよ」

陽希は、常に理人を気遣ってくれる。理人が、幼少期の性的な虐待に起因し、余り精神的にタフではないことを知っているからだ。

遅れて、水樹も起きたらしい。「うるさいですよ」と言いつつも、三人で寝ようと提案してくれたのは水樹だ。素直ではない彼だが、優しさがあることを理人は知っている。

「水樹ちゃんも一緒にお散歩に行こー!」

「嫌ですよ、この寒いのに」

「じゃ、植物園に行こうよ。あそこなら暖かいし」

陽希は水樹の返事を聞く前に、水樹の手と理人の手を同時にとって、軽快に歩き出した。水樹も理人も上着を手に取るのがやっとの慌ただしさだった。

***

一月にも関わらず、春先の気温が保たれた植物園の夜は、実に軽快であった。陽希にとってみれば、スキップしたくなるようだった。春の空気は独特の香りがして、夜の黒さも柔らかいが、それすら再現されている。

三人で、軽く雑談を交わしていると、背の低い草木の向こうに、影が一瞬蠢いたのが見えた。背の高い何かしらの花かと思ったが、そうではないらしい。一旦、陽希は水樹と理人を手で押し留め、自分だけが一歩前に出た。

しかし、すぐに警戒を緩める。

その人影が、クラシックなメイド服を着ていると分かったからだ。綺羽だった。

「綺羽ちゃん、一人でこんなところにいたら危ないよ、何してるの?」

陽希が明るく声を掛けると、綺羽は振り返り、胸に手を当てて深々と手を当てた。

「こんばんは、陽希様たち。少し春の風に当たりたくなりまして」

「俺たちと一緒だ。じゃあ、隣にいても良い?」

「……どうぞ」

綺羽は、件のオオルリの美しい時計のすぐそばに立って、見上げていたようだった。改めて陽希も傍に行って見ると、その柱の部分に一枚の写真があるのに気づいた。

「あー、もしかして、この写真がVincent Horologeさん?」

陽希が笑顔で綺羽に問いかけると、綺羽も、今まで以上に穏やかな口調で答えた。

「ええ、おっしゃる通りです。五十歳の誕生日に撮られた写真です」

 写真には、穏やかな顔で微笑む男性と、それに抱かれて満足げな顔の、トラねこが写っていた。

「抱いている猫は、彼が、この屋敷の前に捨てられていたのを拾って育てていたとか」

「へぇー。一緒に写真に写ってるなんて、凄く猫が好きだったんだ。俺も猫好き」

「はい。彼は大の愛猫家として、晩年は特に、雑誌にも掲載されるほどで。生まれた時から猫を飼っていて、生涯猫を一時も絶やさず飼い続けていました。この屋敷にも、全てのドアに、猫用のドアが用意されているのですよ」

「今も、何処かに猫が? 一度も会いませんでしたが」

 水樹が口を挟むと、綺羽は一転して悲しそうに顔を歪めて、首を横に振る。

「彼が亡くなって、最後に飼っていた猫も亡くなってからは、私が屋敷の清掃に来るくらいで此処には誰も常時住んではおりませんから。Vincent Horologeの気持ちを考えると、飼ってあげたいのですが、なかなか」

「すげー。こんな大きなお屋敷を自由に歩けるなんて、猫ちゃんも幸せだっただろうなぁ」

「綺羽さんは、このお屋敷にずっとお勤めなのですか?」

「その通りです、理人様。御主人様の生前から、随分長く。勤め始めたのは十代の頃、アルバイトでしたから」

そう語る綺羽は、今までの無表情からは想像もできないほど、天使のような笑みを浮かべていた。

「今は、このでっかい御屋敷、綺羽ちゃんが一人で守ってるの?」

「今は私だけです」

「お掃除とか大変そうだなー」

「私にとっては、この屋敷は、命より大切な宝物なんです。ですから、その宝物を磨くことは、ちっとも苦労ではございません」

楽しくなってきて、しきりに歩き回る陽希だったが、そこで急に流れ出した軽快なメロディに、ビクッと体を竦めて、近くにいる理人に抱き着いた。理人も理人で陽希の背を撫でてあげているのだから甘やかしすぎだ、と水樹は思う。

そのメロディは、このオオルリの時計から流れているものだった。

「こんな真夜中なのに、流れるんですね」

「そうです、水樹様。此方の時計は、時間帯に関わらず、二十四時間、一時間ごとにメロディが流れる仕様となっております」

「全ての時刻で同じ曲が流れるんですか?」

「おっしゃる通りです」

水樹は、「ふぅん」と鼻を鳴らして納得するばかりだったが、すぐにハッとなって、上着の胸ポケットからメモ帳を取り出し、音階をメモした。

『レ ソ レ ラ ソ レ レ ソ ラ ソ』

「どうしましたか、水樹。何か気づいたのですか」

 理人がメモを覗き込んで来る。水樹も強く頷いた。

「この独特な音階は、暗号になっているのかもしれません。あの日時計に表示された『葉』と『音譜』……それが、植物園で音楽に纏わる何かを探せ、というヒントだったとしたら」

「……あ、水樹ちゃん、俺分かったかも!」

陽希が突然駆けだした。本当に、髪色や顔つきも相まって、シャムネコのように素早い男だ。

そして、スマホを握り締めて帰って来た陽希の顔は、暗闇でも分かるほど紅潮していた。

「やっぱり、あったよ! 暗号」

その画面を顔のすぐそばに向けられて、水樹は眩しくて目を眇める。ソメイヨシノの木の枝に結わえられた羊皮紙に書かれた、「7」の文字が写っているのは、やっと見えた。

「『7』……矢張りそうですか。僕の推理では、このメロディの音階を頭文字に冠する花に、何らかの数字が結わえられている」

水樹が朗々と言うと、理人は頷き、綺羽に向き直った。

「綺羽さん、この屋敷には、数字錠を利用した何かがありますか」

「Room of Sincerity……『新誠の間』と名付けられた部屋が、まさに九桁の数字錠で戸締りされる部屋になっております」

それだ、と、水樹と理人と陽希の声が重なった。

「先ずは、音階に該当する全ての花を探しましょう」

 理人の提案に、三人で目を見合わせて頷く。

***

水樹たちは、この植物園の中で、残りの音階に頭文字が合致する花――ラベンダー、レンギョウを探して歩いた。そして、それぞれ、数字の札が括りつけられていることを確認した。ラベンダーには「1」、レンギョウには「6」。

その頃には、赤紫の朝焼けが、水樹たちの視界を染めていた。

此処で改めて、先に水樹がメモに書いた音階に、数字を当てはめるとこうなる。

『6761766717』

水樹は、顎に右手をやり、左手でメモを持って暫し考え込んだ。綺羽が隣に来て、そのメモを覗き込んで来る。

「水樹様。『探偵社アネモネ』の皆様。早速、『新誠の間』に行かれますか?」

水樹の中には、ある種の確信があった。この数字を持って、「新誠の間」に行けば、正解だろうと思っていた。そうすれば、時計を全て手に入れられるかもしれない。

だが、水樹は首を横に振った。

「僕には、未だ解くべき謎があります……明美子さんの部屋に入れさせてください」

水樹が言うと、理人と陽希も続けて頷く。事件が発覚してから明美子の部屋は閉鎖されていた。鍵は勿論、この屋敷の現在の番人である、綺羽が持っている。

***

水樹の願いは通り、明美子の宿泊していた部屋に、再び戻って来た。現場は、明美子の遺体の発見当時のままになっている。廣二の遺体もそのままだ。

水樹は、縛られた明美子の横を通り過ぎ、真っすぐ浴室に向かった。理人はそれを追って来て、一度、手で制した。その後、廣二の命を奪ったのであろう機器の電源コードが確かに抜けていることを入念に確認し、中に入ることを首肯で了承した。

廣二は、浴室の出入り口に顔を向ける状態で、長方形型の浴槽の長辺のひとつに背をつけ、浴槽の底に尻を着いて絶命している。勿論全裸で、入浴していたようにも見えるが、水樹はそうは考えていない。そのために、此処に来たのだが。早速、廣二の首を起こして、後頭部を確認する。

「矢張り、ここに傷がありますね」

更に廣二の状態を、前に折り畳むように倒しながら言うと、理人も覗き込んで来た。

「……確かに、何かにぶつけたような傷跡が。感電死に見せかけた、頭部の挫傷による事故死でしょうか?」

「いえ、傷はそんなに酷いものではありません。寧ろ……この倒れ方。浴槽から出ようとしたところを、体の前面を押されて、尻餅を着いた。その時に後頭部を打ったように見えます。ほら」

廣二をどかしたことで、彼が先まで頭を置いていたところに、べっとりと血がついているのを見つける。

「この浴槽の長辺の丁度中央あたりに、血がついています。浴室の出入り口から、真っすぐ対角線上です。この浴槽の形だと、長辺を浴室の出入り口側に向けた長方形であることから、今彼が倒れている向きでは、くつろぎ辛いですしね。短辺に寄り掛かって足を伸ばす方が良い」

「くつろいでいたかどうかは、分かりませんけれどね」

「ええ。僕の推理によれば、明美子さんを殺害したのは、廣二さんです」

水樹は一度浴室を出て、明美子の部屋の出入り口に立った。

「廣二さんは、何らかの手段を用いて、明美子さんの部屋に入った。其処で、明美子さんの命を奪い、このような体勢に縛り付けた。その際、血で汚れてしまった体を洗うために、浴室に向かう」

そう語りながら、水樹は浴室に向かった。そして、改めて廣二の遺体と向き合って立ち尽くす。杖を持っていない方の拳を握って。

「此処で、第三者がやってきて、音などに驚いて浴室から出ようとした廣二さんを、中に押し留めるような体勢で突き飛ばした。そして、浴槽の縁で後頭部を強打した廣二さんは、気絶した。其処にドライヤーを放り込んで絶命させる」

理人が水樹のすぐ後ろに立って、腕組みをしながら唸った。

「廣二さんは、御遺体にならなかった場合は、どのように罪を逃れるつもりだったのでしょうか?」

「猫、ですよ。理人」

「猫さん? 嗚呼」

 途端、思いついたような声を出して、理人が手を打つ。その軽い音が、浴室に響いた。

「猫さんが出入りするドアが、この屋敷では全ての部屋に設置されている。一度、鍵さえ手に入れてしまえば、紐をつけて引っ張り出したり、中に放り入れたり自由自在ということですね」

「先にも言った通り、明美子さんに部屋に通していただける可能性は高かったでしょう。なぜなら僕たちは謎解きをするライバル同士であり、廣二さんは、明美子さんのファンを自称していた。誰にも聞かれたくないヒントを持って来た、明美子さんのためだけに、とでも言えば簡単です。あとは、明美子さんを殺害してしまえば、廣二さんは明美子さんの部屋の鍵を入手できる」

「廣二さんを殺害した犯人も、廣二さんを殺害後に鍵を奪って、その方法を使って密室を作ったのですね」

「……いいえ、それは違います」

水樹は、少し背伸びした先から籠を取って、脱がれて置き去りの廣二のズボンのポケットら、明美子の部屋の鍵を摘まみ出した。

「鍵は此処に。というか、犯行に及んだ後、シャワーを浴びる前に間違いなく、時間稼ぎのために施錠している筈なんですよね。内側から」

「では、廣二さんを殺害した犯人は何処から」

辺りをぐるりと見回し、此処まで言い掛けて、理人は言葉を止める。そして、ばっと水樹を振り返った。

その時、ドアが開く音がして、理人も水樹も同時にそちらを振り返る。ドアの縁に肘を突いて、陽希が立っていた。

「関係者全員、ロビーに集めたよ」

流石陽希、良く分かっていますね、という声が、二人分重なった。



今、この屋敷にいる全員が、ロビーに集められた。

ロビーは緊張感を放っている。高い壁には、大小様々な時計が所狭しと並び、そのどれもが一風変わったデザインをしている。古びた木製の振り子時計は、まるで人の目のように不気味に揺れ動き、金属製の歯車が露出した機械式時計は、まるで生き物の血管のようだ。中央には、巨大なグランドファーザークロックが鎮座しており、その文字盤には不気味な顔が彫り込まれている。目の部分が時折動き、まるでこちらを見つめているかのようだ。壁の一角には、ガラスケースに収められたアンティークの懐中時計が並び、その中には、蜘蛛の巣が張り巡らされたものもある。

ロビー全体に漂うのは、古びた木材と金属の混ざり合った独特の匂い。時計の針が刻む音が不気味に響き渡る。時折、どこからともなく聞こえるかすかな笑い声や、足音のような音が、訪れる者の背筋を凍らせる。

この豪邸のロビーは、まるで時間そのものが狂ってしまったかのような異様な空間であり、その不気味な雰囲気が、訪れる者に一抹の恐怖を与えるのだった。

此処に来た時も通ったが、水樹は、その時から居心地の良さを感じられなかった。ましてや今は、壁一面に掛けられた無数の時計の圧迫感を、特に感じる。

「あの女探偵を殺害した犯人が、分かっただと?」

一条の声が、時計の音を掻き消すほどの声で響き渡った。水樹は小さく深呼吸し、杖で床を軽く叩いて、言葉を紡ぎ出す。

「――はい。明美子さんを殺害した犯人だけでなく、廣二さんを殺害した犯人も」

「廣二? ……嗚呼、女探偵の変態めいたファンの男か」

一条は、退官後もなお太い腕を組んで、顎を上げて水樹を見下ろすように言った。

「あの廣二って男は、女探偵を殺害したあと、自らドライヤーで感電死した。つまり、無理心中だな。丁度、直前に、ファンなら聞きたくないような話を、そっちの記者のお嬢ちゃんから聞いちゃったからよ」

「わ、わわ、私のせいですか。ごめんなさい!」

三千が首を竦める。水樹が見ていて、可哀想になる怯えっぷりだ。二人の間に立っている旭が小さく挙手した。

「誰のせいというならば、全て殺人を犯した人が悪い訳ですから。まぁ、水樹さんのお話を聞きましょう」

こうして水樹は、今一度、先ほど明美子の部屋で理人に解説して聞かせたような推理を、語って皆に聞かせた。やがて、話が一段落すると、杖で床をこんこんと突いて、

「――明美子さんを殺害した犯人は、廣二さんで間違いありません」

と、まとめた。

「でも、廣二さんは、亡くなってますよね」

旭が挙手してから、意見を静かに述べる。

「廣二さんが明美子さんを殺害したなら、もう明美子さんの部屋には、廣二さんを殺害できる人間はいなかったことになりませんか?」

「ええ、後からやって来たんです」

水樹が言うと、辺りは水を打ったように静かになった。水樹は、視線を一度床に落としてから、もう一度上げて、其処に立っている一人の人物を、じっと見つめた。

「――……そうですよね? 綺羽さん」

綺羽は、じっと胸に両手を当てたまま、眉一つ動かさなかった。



「はい。水樹様のおっしゃるとおりです。私が、廣二様を殺害しました」

綺羽は、一切顔色を変えず、そう頭を下げた。

「明美子様をお呼びしにお部屋へ伺った時、既に明美子様は、磔にされていました。浴室から音がして、其処に犯人がいるのかもしれないと思い、近づくと、ちょうど廣二様が返り血を、シャワーで落としているところだったのです」

「それを突き飛ばしたのですね?」

「ええ」

 水樹の問いにも、平然としている。

「襲い掛かって来られましたから。それを突き飛ばしたところ、浴槽の中に尻もちをつくようにして、すっぽりと嵌られてしまいました。頭を打ったのか動かなくもなられて。ですから、浴槽にドライヤーを放り込んで、とどめを刺しました」

 犯人である綺羽が冷静なのに、三千の方が全身をぶるぶると震わせ、一歩ずつ後ろに下がっている。

「こ、こ、廣二さんは、あ、頭を打った段階で、動かなくなっていたのではないんですか? その時点で、私たちに相談してくだされば……」

「……ああ、それもそうでしたね。私の頭ではとても、思いつきませんでした。明美子様の御遺体を目の当たりにした直後、廣二様に襲い掛かられたものですから、混乱しておりましたし。申し訳ございません」

綺羽が、あたかも正当防衛であったかのように話を締めくくろうとした時、理人が静かに口を開いた。

「――本当にそうだったのでしょうか? 綺羽さん、どうか、貴女の愛を、此処で堂々と照明なさってください」

理人が胸に手を当てて熱心に言うと、綺羽はぴくりと眉を動かした。しかし、その後は俯いてじっと口を真一文字に結んでいる。しかし、理人は諦めなかった。

「答えてください、綺羽さん。貴女のその、身を焦がすような思いが、なかったことになってしまいます」

「身を焦がすような思い?」

 旭が一瞬首を傾げ、それからハッとなったように声を上げた。

「まさか、綺羽さんは、廣二さんのことを……? それで、廣二さんが狂おしいくらいに明美子さんを愛しているところを見てしまって、命を奪ってしまった。だから、正当防衛ではないということですか?」

しかし、理人は首を横に振る。それから、綺羽に向き直って、

「綺羽さん、教えてください。貴女は、愛するVincent Horologeさんの、命を削って作った時計と名誉を守るために、廣二さんを殺害したのですよね」

旭をはじめ、「探偵社アネモネ」以外の人たちが、ざわめいた。

理人は、かつて女性から性的な暴行を受けた過去がある。それから異性関係については、他人に対しても非常に敏感になったのだと、実際その考えが正しいのかは別として、彼自身は水樹にそう語っていたことがある。

綺羽だけが、ここでようやく静かに目を上げた。

「――ええ。理人様には全てお分かりなのですね」

 その言葉に、更に長い、数十秒から数分、全員が止まる時間があった。

「えっ、だ、だって」

口火を切ったのは、三千である。おどおどし、声が震えつつも、言わずにはいられないというような早口だった。

「だって、年齢差が……」

綺羽は、今どう見積もっても二十代である。一方、Vincent Horologeは、十年も前に七十代で亡くなっている。二人で愛を語らったとすれば、当時、綺羽は十代だ。しかし、綺羽は涼しい顔だ。

「はい。私が、このお屋敷で働き始めたころ、私はまだ十六歳でした。今から十五年ほど前の時です。ですが、年齢に差があるということに何か問題がありますか?」

ずっと表情を変えないまま、綺羽は三千をじっと見た。三千の方が気圧されて背を丸めて黙ってしまった。

そのまま、綺羽は背筋を伸ばし、理人に向き直って、話を続けた。

「私は、Vincent Horologeを愛しておりました。Vincent Horologeは、極めて紳士的で常識的であり、更にユーモラスな最高の殿方です、勿論、Vincent Horologe自身も、ご指摘にあったように年齢が私と離れていることを、とても、とても気にしておりましたから、私を本当に大事にしてくれました。彼が亡くなってから……私は……文字通り三日三晩泣き続けました。其処から立ち上がった時、私が、彼の大事だったもの――この屋敷と、彼がやりたかったミステリー会、その他全てを守り続けていくと覚悟したのです」

綺羽が、今まで見たこともないほど、表情こそないものの、情熱的なはっきりとした声で語っているので、事実なのだろうということは水樹にも分かった。理人が深く頷き、そして、瞳に、悲しみと儚い美しさを宿す。

「だから、綺羽さんは、今まで、ミステリー会に参加した方々を、殺害してきたのですね。Vincent Horologeの時計を受け取るにふさわしい方が現れるまで」

「ええ、理人様のおっしゃるとおりです」

「なんだと!?」

理人の確信を突いた言葉に、今度は皆がざわつき始めた。特に一条は前に出て、綺羽を指さして喚き散らす。

「ミステリー会を何度も開いているのに、時計が全部残っていたのは、お前が参加者を殺してたからなのか!?」

「一条様、私は先程から、そう申し上げております」

「どうせ、何だかんだ理由をこねくり回して、誰も相応しい人間はいないとか難癖つけて、時計は譲らないつもりなんだろう? 人を殺すくらいなら、ミステリー会なんて開くな!」

「いいえ。それはできません。ミステリー会を開くことは、Vincent Horologeのたっての希望です。私は、彼の願いを全て叶えなければならないのですから」

「謎の内容が簡単すぎたたこと。これが気になりました」

水樹が口を開くと、綺羽はちゃんと胸元に手をやって、水樹を見てくれる。律儀な人である。

「Vincent Horologeさんは、時計を譲る相手を探していた。だから、いつか誰かが解けるレベルの謎にしておいたのでしょう。今まで十年、何度もこの会を開催していたのに、一人も解けていないのは妙です」

「誰かが、意図的に、挑戦者を排除していなければ、ですね」

水樹の言葉を先取りするように言うと、綺羽は、傍にあった古い机を、ピアノを引くように撫でた。

「廣二さんにおかれましては、完全に色恋を目的としており、その行動はミステリー会に相応しくありませんでした。明美子さんは、時計を手に入れて売りさばき、私腹を肥やすつもりでいらっしゃいました。何方も、彼が命を削って作った時計に相応しくない」

そして、机の下に手を入れた。水樹は其処で気づいた。

「危ない! 皆さん、逃げてください!」

水樹が叫ぶと同時に、目の前を鈍色の刃がかすめた。杖で受ける。少しならば、杖がなくても立っていられる。

綺羽の目が、刃の向こうにあった。机の下に隠した短刀を持って、立ち向かってきたのだ。

「水樹様、大変申し訳ございませんが、私はこれからもずっと、この屋敷と彼の意思を守らなければなりません。ですので、皆様には此処で死んでいただきます。頭がよろしいのが、運の尽きでしたね」

 綺羽の手首の筋肉が動き、段々と力が入っているのが分かった。

 その時だ。

 陽希が、綺羽の刃を、手で払った。

綺羽は諦めずに、今度は水樹ではなく陽希に刃を向ける。陽希は髪をあんず色に輝かせ、シャムネコのように俊敏な動きで相手の攻撃をかわしていた。耳にぶらさがるピアスが揺れ、戦いの激しさを物語っている。突如として武器を持って攻撃してきた綺羽に対し、陽希は素手で立ち向かう。

相手の刃が空を切るたびに、陽希は軽やかに身を翻し、まるで舞うように動く。その動きは一瞬の隙もなく、相手の攻撃をことごとくかわしていく。相手が一撃を繰り出すたびに、陽希はその腕を掴み、巧みに反撃を試みる。

激しい攻防が続く中、どちらも一歩も引かず、互いの技を尽くして戦い続ける。汗が飛び散り、息が荒くなるが、陽希の目には決して諦めの色は見えない。彼の動きはますます鋭く、相手の攻撃をかわしながらも、反撃の機会を狙っている。

「もう、やめてください」

理人の悲痛な声に、ようやく、二人が距離を取って動かなくなった。陽希は息を整えながら、綺羽を見据え、静かに立ち上がる。綺羽も、武器を下ろした。

理人は真っ赤にした目で綺羽を見上げた。

「そんなこと、Vincent Horologeさんは望んでいません」

「……お言葉ですが、彼の気持ちが、理人様に分かるはずはありません」

 そう問いかける綺羽にはずっと表情がない。しかし、理人は、普段の優しい口調から一変し、厳しい口調で断定した。

「いいえ。分かります。根拠もあります……それは、ミステリー会です。時計を譲るだけなら、正直、謎を解かせるなんて回りくどいことをする必要はありません。他の、もっと簡単な方法が幾らでもある。こんな手間をかけた理由は一つ。この屋敷に残った綺羽さんを、一人ぼっちにさせないためです」

其処で初めて、綺羽の目が見開かれた。口も僅かに開いたまま、動けなくなった。理人は言葉を重ねる。

「時間のかかるミステリー会という形で、あの素晴らしい時計を賭ければ、この屋敷に人が途絶えることはない。そう考えたとしか思えません。彼は、自分の死後、綺羽さんに、たくさんの人に囲まれて暮らして欲しかったのですよ」

がしゃん、という音がして、水樹も陽希も身を竦めたが、綺羽の手から、短刀が落ちて床に跳ねた音だった。

「――……彼の愛を、私は――」

綺羽は、そう呟いたきり、俯き、瞬きも忘れてじっと立ちすくむのだった。

誰も動くことすら憚られ、そこには時計の針の音が、重く響いていた。



二〇二七年一月二十四日、午後五時。警察を屋敷に呼び、綺羽を無事に引き渡して、水樹たち「探偵社アネモネ」のメンバーはタントに乗り込んだ。

あれから、綺羽は喋ることも表情を崩すこともなく、大人しいものだった。他の参加者たちも、当たり障りのない会話に終始し、解散した。小雪が舞い始めた車外に目を向けて、水樹は運転手の理人に声を投げる。

「運転、気を付けてくださいね」

「お任せください。無論、車に雪対策は完全にしてありますし、安全運転で参ります」

頼もしい理人に、水樹とは正反対の位置の窓の枠に頬杖をついた陽希が、ぼんやりと問いかける。

「理人ちゃーん。あんなにも愛して、愛して、死んだあとまで愛した人の、与えてくれた愛を見誤るなんて、あり得ると思う?」

理人は極めて慎重にハンドルを切りながら答えた。

「与えるばかりに夢中になって、与えられた気になって、与えてくれたものには気づかなくなる。それが愛なのですよ」

雪は少しずつ、灰色の路面を白く染め上げていった。


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