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【書籍化】あなたの愛は要らない

作者: 藍田ひびき

 その日、私は毒を飲んだ。


 子供たちへの手紙は侍女に渡した。あの子たちは立派に育ったもの。私がいなくてもきっと大丈夫。

 

 ……あの人は、私が死んだら泣くかしら。

 いいえ、きっと平然としているのでしょう。

 そうね。もう、どうでもいいわ。そんなこと。


 薄れゆく意識の中で、思い出すのは彼との結婚生活のことばかり。これが走馬燈というやつなのね。

 どうせなら、結婚する前の頃を思い出したいわ。何も知らない、幸せだったあの頃に。



*******



「いってらっしゃいませ、あなた。今日はお戻りになりますか?」

「いや、今日は帰らない」


 ぶっきらぼうにそう答える夫。

 私は内心溜息をつきながらも、微笑みを浮かべて送り出した。


 どうせ、あの女のところでしょう。

 だけど嫉妬も怒りも、今の私には無いわ。そんな気持ちはとっくに忘れてしまったもの。


 私ことセシリアが彼と初めて会ったのは17歳の時。

 実家のブライトン子爵家は、あまり裕福ではなかった。いわゆる名ばかりの子爵家である。領地からの細々とした収入しかないのに貴族としての体裁は整えなければならず、蓄えは減る一方。

 そのせいか、私はなかなか嫁ぎ先が決まらなかった。家のせいばかりではなかったかもしれない。人見知りな性格の私は、夜会に呼ばれても常に壁の花だったから。


 そんな私へ、縁談を持ち込んできたのがグラント伯爵家だった。相手は長男のサイラス。

 

 夜会の場で一度だけ会ったことはあった。友人の紹介で会話を交わしたが、何を話したかは記憶にない。あの時は彼がどうして私を見初めたのか、よく分からなかった。

 

 だけど初めての求婚、しかも足しげく我が家に通い花束や宝石を贈ってくるサイラスに私はすっかりのぼせ上がってしまった。

 両親はと言えば、グラント伯爵が申し出た資金援助の話にこれまた舞い上がっていた。

 これで借金を返せる。余った資金で領地を立て直そう。などと家族で盛り上がったことを覚えている。

 

 祖母だけがこの結婚に反対した。なにがそんなに嫌なの?と聞いても、祖母は「あの男は気にくわない」と言うだけ。


 父が「母上、グラント伯爵家は名門です。それに、恥ずかしながら我が家の財政は破綻寸前。この縁談がなくば、ブライトン家が潰れるのですよ」と説得し、祖母はようやく首を縦に振った。


 そうして迎えた結婚式の前日。

 祖母は私に「これを」と小さい包みを手渡した。


「お前が嫁ぐ前に渡したくてね。この先どうしても耐えられないことがあったら、これを開けるんだよ」

「何が入ってるの?」

「今は聞かない方がいい。使わないに越したことはないから。セシリア……私の可愛い孫。お前のこれからが幸せであることを祈っているよ」



 サイラスへ嫁いだ私は、すぐに祖母が正しかったと知ることになった。


 彼は他人として接している分には、問題のない人だ。だけど一度家族になってしまうとその本性を現した。

 気分の良いときは饒舌になるが、機嫌が悪ければ私を無視することさえある。彼の意に逆らおうものなら、怒鳴られて一週間近く口を利いてもらえないこともあった。何度も何度も謝って、ようやく許して貰える。そんなことの繰り返しだ。



 嫁いで数年後に、祖母の訃報がもたらされた。

 大好きな祖母を喪ってふさぎがちになった私に、夫が「旅に出れば気晴らしになるだろう。どこか行きたいところはあるか?」と言い出した。

 私は驚いた。今まで、一度だってそんな気遣いをしたことはなかったのに。


 正直に言ってそんな気分ではなかったが、彼なりに悲しむ妻を心配しているのかもしれない。私はなるべく嬉しそうな表情を作って答えた。


「それなら、シルリーに行きたいわ。とても良い温泉があるらしいのよ」

「シルリーの温泉宿は高い上に質が悪いんだ。それに、あの近くには何も無いじゃないか」

「でも、私の行きたいところって……」

「どうせならベルジェアに行こう。名物の肉料理が美味しいらしいぞ」


 ベルジェアでは、サイラスの友人だという貴族の家へ連れていかれた。

 何のことはない。彼がそこへ行きたかっただけ。

 私が言うべき言葉は「あなたが選んでくれるところなら、どこでもいいわ」だったらしい。


「奥様のためにご旅行を?」

「ええ。祖母が亡くなりまして、妻はとても落ち込んでいましたので。気晴らしになればと」

「まあ、なんてお優しい旦那様かしら。幸せねえ、奥様」

「……ええ、とても大事にしてもらっておりますわ」


 サイラスが満足そうに頷いた。

 こう答えて欲しかったのでしょう?と私は心の中で悪態を吐く。もし彼の望むような答えを返さなければ、また不機嫌になるのだから。


 

 そんな状態でも、長女のフィオナが生まれたときは嬉しかった。

 これで夫も変わってくれるかもしれない。そう思った。


 でも彼は変わらなかった。

 少しでいいから子育てに関わって欲しいと頼んでも「それは母親の仕事だ」と言うだけ。


 仕事が忙しいのなら納得できる。だが、忙しくなければないで社交倶楽部だパーティだと、イソイソと出かけていく。そうして酒臭い息で帰ってくるのだ。

 

 きっとこの人は、自分の言う通りになる妻が欲しかっただけなのだわ。そのために、貧乏貴族の娘である私はちょうど良かったのだろう。

 いいえ。それでも夫婦を続けていれば、いずれ心が通い合うかもしれない。

 私は必死に対話を試みた。そしてそれが無駄になる度に、こっそりと涙を零す日々。


 亀裂が決定的になったのは二人目を妊娠したときの事だ。


 ある夜、サイラスが私の寝室へ来た。

 私の都合も聞かず、突然押しかけてくるのはいつものこと。これも妻の役目と、嫌々ながらも従うようにはしていた。

 だがその時の私は悪阻が酷く、とても夜の営みを出来る状態ではない。機嫌を損ねないようやんわりと断った。

 

 それを聞いた夫はぷいっと出て行って、しばらく帰ってこなかった。

 不在がちになり、外泊も多くなった。そんなに忙しいのだろうかと夫の身体を心配していた私の耳に、ある噂が聞こえてくる。

 サイラスがパーティへ他の女性を伴って出席している、と。


 彼は外に愛人を作っていたのだ。

 しかも、王都にある別邸に彼女を囲っているらしい。


 悪阻で苦しむ妻を置いての浮気……。

 ようやく私は気づいた。この人には何を言っても無駄なのだ。


 もう涙も出ない。

 夫に対する愛情は、とっくに消え失せていた。


 

 出産を終え、生まれたのが息子だと分かった時にはさすがの夫も「よくやった」と大喜びした。

 次は後継ぎを産めとしつこかった義両親もこれで大人しくなるだろう。


 そうよ。仮面夫婦の貴族なんて幾らでもいるもの。

 この子たちさえいれば、いい。

 そう思っていた私は、また新たな問題へ直面することになる。


 

「そうら、おもちゃを買ってきたぞ。そうか、嬉しいか」


 ニコニコしながら息子のエリオットを抱く夫。

 フィオナがそれを見ながら小さな手を握りしめているのに、全く気づかない様子だ。

 

「今日は絵本だ」

「両親がエリオットの顔を見にきたぞ」


 夫の愛情は、息子だけに向けられていた。おもちゃだ菓子だとエリオットには買い与えるのに、フィオナには何一つ関心を持たない。

 連絡もせずに度々エリオットへ会いに来る義両親も、フィオナのことはいないかのように扱った。


「……お母様。お父様はフィオナが嫌いなの?お祖父様もお祖母様も。フィオナが悪い子だから可愛がってくれないの?」


 ある日、娘が涙を浮かべながらそう問いかけた。そんなことはないと言いそうになるが、それは彼女にとって気休めでしかない。


「フィオナ。お母様が、お父様のぶんも愛していますからね」

「うわああん」


 泣き出した彼女を、私は抱きしめることしかできなかった。



「エリオット、期末試験はどうだった?」

「今回も首席をとりました」

「そうか!さすがは俺の息子だ」


 それから十数年。子供たちはすっかり大きくなった。フィオナは成人、エリオットも来年には学院を卒業する。

 久しぶりに一家揃った夕食の席で、夫は息子へ盛んに話しかけていた。私やフィオナもいるのだが、まるで見えていないかのようだ。


「将来は王宮に勤めたいのだったな。俺から頼んでやっても良いぞ」

「ありがとうございます。ですが、学院長から推薦をいただけることになりまして」

「ほう!学院長といえばアディトン公爵……王家とも姻戚関係にある方ではないか。公爵に認められたとあれば、お前の将来は約束されたようなものだ。俺も鼻が高いぞ」


 目の前のエリオットが貼り付いたような笑みを浮かべているのも気づかず、夫は上機嫌で酒を煽った。


 エリオットとてもう子供ではない。

 機嫌の良いときはうるさいくらい構うくせに、そうでない時は理不尽に怒鳴りつけてくる父親に散々振り回されてきたのだ。仲の良い親子だと思っているのは夫だけである。


「祝いに、家族旅行にでも行くか。セシリア、どこがいいか考えておけ」

「はい、あなた」


 私は娘へ目配せをした。

 今夜のサイラスは機嫌が良い。これなら、()()()もすんなり受け入れてくれるかもしれない。


「あの……お父様。私、結婚したい方がいるのです」

「……相手は誰だ?」

「ジェフリー男爵家の次男よ。ブルーノっていうの」


 ひと月ほど前に娘から会ってほしい人がいると言われ、私はブルーノと面会した。

 フィオナはとある商会の事務として勤めている。そこで知り合った彼と恋仲になったらしい。

 

 礼儀正しくハキハキと話すブルーノに私は好感を持った。

 勿論、貴族の常識として相手の身辺調査は行った。その結果、ブルーノは学生時代から成績優秀であり、浮いた噂ひとつない真面目な男性だと分かった。しかもジェフリー家は商会を経営しており、堅実な商売で幅広い信頼を得ている。


『父からは、いずれ隣国にある支店をお前へ任せたいと言われています。その前にフィオナと結婚し、共に行きたいと思っているのです』


 彼なら、フィオナを任せるに申し分ない。

 娘と離れてしまう寂しさはあるが、この家で不当な扱いを受けるより他国で幸せな家庭を築いた方がいいかもしれない。


 だが、その話を聞いたサイラスはみるみるうちに不機嫌になった。

 

「男爵家だと?しかもジェフリー家といえば、先代が叙爵された程度の、成り上がりではないか!」

「でも、良い話だと思うのよ。ジェフリー男爵は手広い商売で羽振りがいいようだし」

 

 いつもなら夫の機嫌を損ねる前に離れるか、謝っていた。だが娘の幸せのために、ここで引き下がるわけはいかない。


「我が家は伯爵家だぞ。成り上がりなぞに娘をやれるか!」

「でも」

「うるさい!この話は終わりだ!」


 乱暴に机を叩いてサイラスは食堂から出て行った。


「やっぱり駄目だった……」

「気を落とさないで、フィオナ。私が何とかお父様を説得するから」

「僕からも折を見て話してみますよ、姉様」


 私にとっては幸いなことだが、息子は姉と仲が良かった。

 愛する姉を邪険に扱う父親を、彼がどう思うのか。そんなこと、サイラスは考えもしないのだろう。

 


「喜べ。フィオナの縁談をまとめてきたぞ。ケイフォード侯爵家だ」


 いつものように社交倶楽部から帰ってきたサイラスにそう言われ、私は仰天した。


「縁談って…フィオナには恋人がいるのよ。それにケイフォード侯爵家の令息なら、すでにご結婚なさっているでしょう?」

「令息ではなく、当主の方だ」



 侯爵家の当主といえば、すでに50近い歳で成人した息子もいる。最近、妻を亡くしてやもめになったらしい。


「やめて!そんなの、フィオナが不幸になるだけだわ」

「ケイフォード侯爵家は、ジェフリー男爵など足元にも及ばん名家だ。そこに嫁げば不自由ない暮らしが送れるのだぞ。何が不満だ?それに侯爵家と縁続きになれば、エリオットの将来にも良い影響があるだろう。出来損ないのフィオナも、ようやく我が家の役に立てるな。ははは」


 上機嫌で笑う夫を、私は呆然と眺めていた。

 彼は娘の幸せなど考えていない。おそらく、妻と娘が勝手に縁談を進めていたことが気にくわないのだ。

 だからといって、親子ほども年の離れた相手に自分の娘を嫁がせようとするなんて。


 ブルーノは両親を連れて何度も直談判に来たが、サイラスは会おうともしなかった。

 私やフィオナが泣きながら訴えても無駄だった。しまいには「親に逆らうな!」と娘を張り倒す始末。

 

「お母様……私、もう死んでしまいたい……」

「大丈夫、大丈夫よ。私がなんとかするから……」

 

 嘆くフィオナの背中をさすりながら、そう答える。

 気休めだということは分かっていた。私にはもう思いつく手段など無い。

 

 私はひとり部屋に戻り、鍵のかかった引き出しを開けた。そこには小箱が入っている。祖母から貰った、あの箱だ。

 

 今までこれを開けたことはなかった。

 いざとなればあの箱がある。そう思っていたからこそ、辛い事に耐えられたとも言える。

 私は縋る思いで小箱を開けた。

 そこには何やら液体の入った瓶と、書類が二枚。


 書類を読んだ私は驚愕した。だが、これしかない。

 娘を救うためには、もうこれしか。


 

 夫を愛人のもとへ送り出した後、私は子供たちに宛てて手紙をしたためた。それを明朝彼らへ渡すよう、侍女のドリスへ命じる。


「奥様……本当に……?」

「ええ」


 ドリスは実家にいた頃から私へ仕えてくれた侍女だ。彼女には全てを話してある。

 痛ましそうな顔をしたドリスは「仰せの通りに致します」と頷き、手紙を持って部屋から退出していった。


 書類と小箱を暖炉にくべる。

 それが燃え切るのを見届けた後、私は瓶を手にした。

 手が震えている。怖い。

 私はなけなしの勇気を振り絞って瓶を開け、その中身を飲み干した。



*******



「旦那様、大変です!奥様が!」


 寝室の扉を叩く音と騒がしい声に俺は目を覚ました。

 俺は王都にある別宅にいた。元々は祖母の実家であったらしい屋敷だ。今は愛人のチェルシーを住まわせている。

 久しぶりにチェルシーとゆっくり夜を楽しんでいたというのに。


 俺はチッと舌打ちをしながらガウンを羽織り、扉を開けた。


「何事だ、騒々しい」

「奥様が亡くなられたと、屋敷から使いが」

「何だと!?どういうことだ」


 セシリアと最後に会ったのは昨日の朝だ。「いってらっしゃい」とにこやかに送り出してくれた妻はいつも通りで、体調が悪いようには見えなかった。


「すぐ屋敷へ戻る。馬車を用意させろ!」

「ちょっと、サイラス!?」とチェルシーが叫んでいたがどうでもいい。


 屋敷へ戻った俺は、冷たくなった妻の亡骸と対面した。

 息子と娘が沈痛な表情でその側に佇んでいる。俺は思わずセシリアの遺体へすがりついた。


「セシリア……いったい何が……」

「倒れられた奥様の横に、これが落ちていました。おそらく自死なさったのではないかと」


 執事の手には空の瓶があった。

 自殺だと?信じられない。昨日まであんなに元気だったじゃないか。


「父様。悲しいのは分かりますが、葬儀の準備をしませんと」

「あ、ああ。そうだな……」


 呆然とする俺に代わって、息子のエリオットは執事や使用人たちに指示を出した。

 母親が亡くなったというのに、悲しみを隠してきびきびと動き回る息子が誇らしい。俺たちの息子は立派に育った。セシリアが見たら、どんなに喜んだだろうか。



 彼女と初めて会ったのは、友人の家で開かれた夜会の場だった。

 すみれ色の瞳に茶色の髪をふんわりと垂らした可憐な少女に目を引かれた。男慣れしていない様子で、男性から話しかけられると恥ずかしそうに答える姿にも好感を持った。


「セシリアだっけ?なかなか良いね、あの子」

「ちょっと大人しいけど、妻にするならああいう娘の方が良いかもな」


 などと友人達の話している声が聞こえた。このままでは他の男に先を越されてしまう。焦った俺はすぐに父へ相談し、ブライトン子爵へ縁談を持ちかけた。


 結婚して欲しいと伝えた俺に、頬を赤らめてはいと答える彼女は本当に愛らしかった。

 一生大切にすると心に誓った。


 妻に何不自由無い生活をさせるべく、俺は仕事に打ち込んだ。社交倶楽部にも頻繁に顔を出すようになった。貴族の交流は必須だ。倶楽部の場で顔を広めれば、それが仕事につながることもある。

 たまには早く帰ってきて欲しいと彼女が訴えることもあったが、無視した。

 俺が働いているから、家で好きなように暮らせるのが分かっていないらしい。女は仕事のことが分からないから、仕方ないか。


 1人目の子供は女だった。

 男が欲しかったが、まあいい。次の子に期待しよう。

 

 ある夜、妻の寝室を訪れた俺は彼女に拒否された。ショックだったが、2人目を身ごもった妻は悪阻が酷かったらしい。

 仕方がないので、愛人を作って性欲はそちらで発散させることにした。体調が悪いセシリアに無理をさせるわけにはいかない。全ては妻のためだ。


 セシリアはいつだって笑顔で、俺の言うことによく従う出来た妻だ。友人達はよく細君の愚痴を言っていたが、俺は妻に不満など無い。密かに優越感すら感じていた。


 息子のエリオットはすくすくと育った。身体は健康だし、成績も優秀。自慢の息子だ。一方で、娘のフィオナは出来が良くなかった。学園での成績は中の上といったところだ。見た目もセシリアに似れば美人だったろうに、細い目のもっさりとした髪でぱっとしない。

 あれでは縁談の話も来ないだろう。いずれは俺が良い嫁ぎ先を見つけてやらねば。

 

 ところが、そのフィオナが結婚したいと言い出した。相手は成り上がりの男爵家の息子だ。

 出来が悪いとはいえ、娘をそんな男のもとへ嫁がせるわけには行かない。却下した俺に、いつもは聞き分けの良い妻までが反発した。

 なんだか酷く腹が立つ。


 だから俺は伝手をたどって、ケイフォード侯爵との縁談をまとめた。

 ケイフォード侯爵家は王家の姻戚だ。後妻ではあるが、その侯爵夫人になれるのだ。貴族の女性ならばその名誉を喜ぶべきだろう。すでに男子がいるから、後継ぎを産めとプレッシャーを掛けられることもない。

 一生楽に暮らせるのに、何故分からないのか。いずれは俺の判断が正しかったと妻も娘も理解するはずだ。

 

 フィオナは侯爵家との縁談、エリオットは王宮への就職。俺たち夫婦は順風満帆のはずだった。

 それなのに、何故自ら命を絶つようなことを……?考えても考えても、答えが分からない。



 妻が亡くなってから、何もする気が起きなくなった。

 仕事ではミスの連発。女など抱く気にならず、チェルシーとも別れてしまった。


「父様、今はゆっくり静養された方が良いのではないでしょうか?領地のことは俺が引き受けます」

「……そうだな。お前も、もう一人前だ。そろそろ任せても良いか」


 セシリアがいなくなって数年。エリオットから隠居を勧められた。まだそんな歳ではないと思うが、もはや反発する気力も無い。俺はエリオットへ伯爵位を譲り、王都の別宅で静養することにした。


 心配した友人達が時折、俺を自宅へ呼んでくれることもある。だが数回訪れたあとは理由を付けて断った。

 妻子と仲の良い様子を見せつけられて、嬉しいはずがないだろう。奴ら、あれほど妻の文句を言っていたくせに……。

 本当なら、俺もあんな風になるはずだったのだ。愛する妻と子、孫に囲まれて。

 なのに何故俺は、こんなに孤独なんだ?


「姉様のことですが、年齢のせいか縁談がまとまらなくて。ジェフリー男爵令息がそれでもいいからと言ってくれています。ジェフリー男爵家との縁談を進めて良いですか?」

「好きにしろ」


 ケイフォード侯爵との縁談話はとっくに潰れていた。妻が亡くなったすぐ後に、侯爵家から取りやめの申し出があったのだ。母親が自殺などという醜聞を持つ娘は我が家に相応しくない、だそうだ。

 本当に、役に立たない娘だ。


 しばらくしてフィオナは結婚し、夫とともに隣国へ旅立っていった。結婚式には体調不良を理由に出席しなかった。バージンロードはエリオットが父親役を務めたらしい。


 俺は家に閉じこもって酒ばかり飲むようになった。顔色の悪さが本邸に伝わったのだろう。ある日、医者へ連れて行かれた。


「気鬱ですね。旅行にでも行かれたら如何でしょう?気分転換になりますよ」


 旅行など久しく行っていない。

 ……そういえば、セシリアがシルリー温泉に行きたいと言っていたっけ。

 たまには外へ出てみるか。俺は重い腰を上げてシルリーへ向かう事にした。


 良い温泉ではあったが、気晴らしになったかといえばそうでもなかった。

 温泉につかっていれば、セシリアを連れてきてやれば良かったと思う。

 道歩く女性を見るたびに妻を思い出す。

 

 ふと、前を歩いている夫婦の姿が目に入った。


「セシリア……!?」


 ああ……。あの背格好、髪型、歩き方。妻そのものだ。

 彼女は俺の呼び声に振り向かない。苛ついて思わずその肩を掴む。


 きゃっと悲鳴を上げて振り向いた女の顔を見た。ああ……やはりセシリアだ!

 だが、彼女は俺を不審者でも見るような目で見つめるだけだった。


「妻に何をするんですか!」


 横にいた男が叫んで、彼女を俺から引き離した。

 妻……?


 そうだ。セシリアであるはずがない。彼女はもう死んだのだから。


「俺はグラント伯爵と申します。奥方が余りにも亡き妻に似ていたもので……大変失礼いたしました」

「そうですか、亡くなった奥様と。それはさぞ、お辛い思いをされたのでしょう」

「はい。愛する妻でした……とても、愛していた。大切にしていたのに」


 思いがけず優しい言葉を掛けられたせいか。ぽろりと弱音を吐いてしまった。


 だがそれを聞いた男は「そうですか。では、私たちは急ぎますので、これで」と冷たく言い放ち、妻の手を引っ張って去っていった。


 二人の姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くして眺めていた。彼女が俺の方を振り返る。その顔からは、何の感情も読み取れなかった。



*******



「お母様!」

 

 目を覚ました私は、泣き顔のフィオナに抱きしめられた。


「母様、なんて無茶なことを……。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと」と私へ詰め寄るエリオットも同じく涙目だ。


 お祖母様に渡された薬。

 それは、二晩仮死状態になるというものだった。

 

 箱の中には薬の説明書と共に、お祖母様の手紙が入っていた。

 お祖父様との結婚は、お祖母様にとって意に添わぬものだったそうだ。すでに結婚を約束した恋人がいたからだ。

 両親から強引にブライトン家へ嫁がされそうになったお祖母様は、ひそかにこの魔法薬を手に入れた。死んだふりをして、恋人の元へ行こうと考えて。

 だが機を窺っているうちに、元恋人は面倒だとばかりに新しい女を作り、去って行ったそうだ。


 お祖母様がなぜあそこまでサイラスとの結婚に反対したのか、分かった気がする。外面の良い彼の内に潜む傲慢さと身勝手さを見抜き、そこに不誠実な元恋人を重ねたのではないだろうか。

 

「二人ともごめんなさい。こんなやり方しかできなくて」

「色々言いたいことはありますが、姉様のためにしたことなのは分かっています。後は俺たちに任せて下さい」

 

 倒れた私を診た医師は、目論見通り私が死んでいると診断した。

 ドリスに渡された手紙で事情を知った子供達は、せめて葬式までは私のそばにいたいと安置部屋に誰も入れないようにしたそうだ。

 

 ケイフォード侯爵家は古い家柄だけに、体面を何よりも重んじる。母親が自殺した娘を迎えようとはしないだろう。

 これで、フィオナは恋人と結婚できる。エリオットに苦労をかけてしまうのは心残りだけれど、うまく立ち回ってくれるだろう。

 

 私は夜陰に紛れてブライトン家を離れた。

 葬式は翌日行われたらしい。疑われないよう、棺には私の重さと同じくらいの土を入れておいたそうだ。

 サイラスが葬式で泣いていたと聞いても、何の感慨も湧かなかった。彼への愛どころか情さえも、とっくに無くなっていたのだから。


 その後、私は隣国へ渡った。侍女のドリスも一緒だ。お前が目を離したせいで妻が死んだのだとサイラスに責められ、クビになったそうだ。


「ごめんなさいね、ドリス」

「いいえ。私は奥様の侍女ですから」

「奥様はやめてちょうだい。もうサイラスの妻ではないわ」

「そうでした、セシ……アリス様」


 私は名を変え、アリスと名乗っていた。

 隣国での生活基盤は、フィオナから事情を聴いたブルーノの両親が骨を折ってくれた。とはいえ、いつまでも厄介になるわけにはいかない。

 私は勤め先を探したが、なかなか見つからなかった。ジェフリー男爵家からの身元保証があるとはいえ、職歴の無い中年の女を雇ってくれる奇特な雇い先はなかなか無いのだろう。


「一件だけ、あるにはあるのですが」


 仲介者が躊躇いながら教えてくれた募集先は、輸入品を扱う会社の社長秘書の仕事だった。


「そこの社長が偏屈らしくて。紹介しても、みんなすぐ辞めてしまうんですよ」

「構いません。紹介して下さい」


 そうして私はアラン・ヘインズ子爵の秘書となった。アランは確かに気難しい人で仕事は厳しく、慣れないうちは叱られることも多かった。だが決して理不尽なことは言わないし、成果を出せば褒めてくれる。

 徐々に仕事にも慣れてきた。グラントの領地では採れた産物を輸出していたこともあり、その経験が役に立ったことだけはサイラスに感謝している。私は、生まれて初めて充実した生活を送っていた。

 

 

「アリス。その……君が良ければだけど、俺と結婚してくれないか」


 数年勤めているうちに私はアランと親しくなり、時々食事に誘われることもあった。プライベートの彼はとても優しくて話しやすく、共にいるのは楽しい。

 だけど、結婚までは考えていなかった。前の結婚に失敗した私は、すっかり臆病になっていたのだ。


 私は思い切って、自分の過去を打ち明けてみた。


「だから私は恋愛とか、結婚とかはしたくないの。アランが嫌だというわけではないのよ。むしろ、一緒にいて楽しいわ」

「俺もそうだ」


 今度はアランが自分の過去を話してくれた。以前婚約者がいたけれど、他に好きな人が出来たといって逃げられたこと。それ以来、恋愛をする気がなくなって今まで独り身だったこと。


「今でも色恋に振り回されるのは御免だと思っている。君となら、友人のような関係を築けると思う。僕も君もこんな歳だ。茶飲み友達みたいな、ゆったりとした夫婦もアリなんじゃないかな」


 しばらく交際期間を経た後、私たちは結婚した。

 彼は良い夫だった。何より、私の考えを尊重してくれる所が好きだ。たまに意見が衝突することはあったけれど、互いに落としどころを見つけるまで辛抱強く話し合ってくれる。


 フィオナは結婚し、今は夫と共にこちらに住んでいる。娘の結婚式に出られなかったことは残念だったけれど、夫や子を連れてよく遊びに来てくれる。孫も抱かせてもらった。エリオットとも、フィオナを通して手紙のやり取りをしている。

 エリオットはサイラスを隠居させ、伯爵家の実権を握ったそうだ。彼の見事な手腕に、使用人は勿論、領民からも尊敬を集めているそうだ。

 

 本当に幸せだ。こんな時間、前の結婚では決して得られなかった。

 アランに対して若い頃のような激しい恋愛感情は持っていない。それでもこの感情に名付けるなら、愛だと思う。



「仕事が落ち着きそうだから、来月辺りどこかへ旅行に行かないか?」

「それなら、シルリー温泉がいいわ。ずっと行きたいと思っていたの」


 そんな会話があり、私たちはシルリーを訪れた。

 楽しい旅行だった。温泉は気持ちがいいし、夫が取ってくれた宿は古いがとても感じが良い。

 アランは「この宿なら君が好みそうだと思って」と嬉しいことを言ってくれる。


 二人で気分良く街を散歩していたところ、突然「セシリア!」という声とともに肩を掴まれた。


 そこにいたのはサイラスだった。

 あまりのことに固まる私を庇い、アランが「妻に何をするんですか!」と詰め寄る。


「俺はグラント伯爵と申します。奥方が余りにも亡き妻に似ていたもので……大変失礼いたしました」

「そうですか、亡くなった奥様と。それはさぞ、お辛い思いをされたのでしょう」


 グラントの名を聞いて、アランがかすかに息を呑んだ。私の元夫であると気付いたのだろう。

 だけどサイラスは、アランの嫌味を込めた言葉に気づかなかったようだ。目には涙まで浮かべて「はい。愛する妻でした……とても、愛していた。大切にしていたのに」と答える。


 アランが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。相手に聞こえないように小さく、だが。


「そうですか。では私たちは急ぎますので、これで」


 そう言ってアランは私の手を掴み、小声で「残念だがここからすぐに離れた方がいい」と囁く。

「そうね」と答えながら、私は一度だけ、サイラスの方を振り向いてみた。彼はまだ私を見ている。



 愛していたですって?笑わせないで。

 

 相手の都合もお構いなしに、気の向いた時だけ好きなように愛でる。

 あなたは自分の思い通りになる女が欲しかっただけ。

 結局のところ、あなたは自分自身を愛しているに過ぎないのよ。


 私、そんな愛は要らないわ。


挿絵(By みてみん)

「あなたの愛は要らない~グランド伯爵夫人は毒を飲んで死にました。今日から私は冷遇妻ではありません~」

リブラノベル様より2024年6月25日発売。Web版に加えて書下ろし短編2本が追加されています!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 新着でランキングに載ってた時に読ませてもらって、今回何となく再読してみました。 やっぱりストーリーがスムーズで、心理描写も情景描写も特に矛盾も違和感もなくて、スッキリさっぱりハッピーエンド…
[良い点] タイトルがきっぱりしてて魅力的。 ただグチ垂れてるだけじゃなくて、たとえ夫の権力に敵わないとしてもきちんと意思表示/抵抗した上で最終的に相手についての判断を下す主人公には好感が持てます。白…
[良い点]  最初から最後まで、すらすらと読めるちょうどよい表現・文章量・書き込みでした。セシリアに似た人ではなくセシリア本人というオチと、その事実をサイラスが知らないまま終わる流れは、私にとって新鮮…
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