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89 閑話 スラムの住人ウィル

○ エミリーの炊き出し活動の話です。


 朝、スラムの一角にある住み処の廃屋で、僕……10歳のウィルが起きて妹の7歳のアンナに「おはよう」と言う。


 同じように、お母さんに「おはよう」を言うが、返事はない。


 微かに目が開いて、少し口の端を弱々しく、笑みの形にするだけ。


 お母さんは、もう何日も水しか飲んでいない。食べ物は全て、僕とアンナに渡していた。


 そんな、お母さんは、昨日から、もう、起き上がることすら出来なくなった。


 魔王が復活し、逃げ込んだ城塞都市……そこでは、深刻な食糧難に陥っていた。


「おかあさん、死なないで!」


 泣いてすがるアンナにお母さんを頼み、廃屋から這い出した。


 土で汚れたが今さらだ。今の僕は、野良犬より汚れている。


 ここ数ヶ月、風呂どころか、水浴びさえしていない。


 スラムを、あてどなく歩いて、食べられるものを探す。腐った臭いのするゴミを見つけると、まだ食べることが出来ないかと漁る。


 だが、どれだけ漁っても、食べ物は見つけられなかった。


 でも、諦めるなんて出来なかった。


 お母さんとアンナは、僕の命だ。


 危険なまでの空腹感を抱えて、それでも、お母さんとアンナの為に、臭いを追ってゴミからゴミに、亡者のように、さ迷い歩いた。


 ふと……腐っていない食べ物の匂いがした。


 僕は、フラフラとそちらに向かって歩いていく……もう、走る力などない。


 スラムの入り口の広場……そこでは、教会の神父さまや僧侶さま達によって、炊き出しが行われていた。


 初めは、それが炊き出しだとは、思えなかった。


 でも、幾人ものスラムの住人が列を作り、お金も出さずに、お粥の入った器を受け取っている姿を見て、僕は、それが炊き出しだと理解した。


 僕も列に並び、順番が来て、竜の聖印を胸に着けた、茶髪をボブカットにした見たこともないほど美しいお姉さんから、金色に輝く柔らかな温かさのお粥を受け取った。


 僕は弱々しく頭を下げて、それを持って、お母さんとアンナの元に行こうとした。そして、足がもつれた。


 もう、僕は真っ直ぐに歩くことすら出来なかったのだ。


 転んでしまい、地面にお粥をぶちまける。


 目に涙が込み上げた。


「大丈夫?!」


 お粥をくれたお姉さんが、駆け寄って来てくれた。


 そして、手を差しのべて、優しく言ってくれた。


「まだまだ、おかわりあるからね? 大丈夫だよ」


 大丈夫。


 その言葉に、込み上げた涙が、溢れだした。


 もう、涙なんか、渇れてると思っていた。


 でも、お姉さんの優しい言葉に、苦しさと辛さを無視し続けて麻痺していた自分の心が甦ってしまった。


「お母さんが……アンナが……待ってるんだ……」


 お姉さんが、心配して、僕の目を覗き込んでくれる。


 その優しさに、耐えきれなくて、僕は言っていた。


「助けて……お母さんを助けて……!」


 僕は、お姉さんにすがりついて泣いて頼んだ。


「いいわ。お母さんのところに連れて行って」


 お姉さんは、二つ返事で、僕のお願いを聞いてくれた。


 お姉さんは、赤ちゃんを抱いた男の人を連れて、僕の後を付いてきてくれた。


 たどり着いた住み処の廃屋で、中からアンナの泣き叫ぶ声が聞こえた。


 中に駆け込むと、アンナが、動かないお母さんに、すがり付いて泣き叫んでいた。


 何度もお母さんを呼んで。


 でも、お母さんは……。


 お姉さんがお母さんに駆け寄り、呼吸を確認して、悲しそうな顔で、弱く首を横に振った。


 その意味に僕は気づいて、絶望に目の前が真っ暗になった。


「まだだ!」


 突然、男の人が大声を出した。


 そして、お母さんを抱き上げて、走り出す。


「ラプアシアに行こう! きっと、お母さんは助かる!」


 その迷いない言葉に、僕は顔を上げた。そして、アンナを助けて、男の人の後を追う。


 僕達は、男の人とお姉さんと一緒に、飛空船に乗った。


 飛空船は、数日かけて、綺麗な都市に着いた。


 すぐに、大きな教会の大聖堂に行って、大勢の怪我人や病人と一緒に、ただ、待っていた。


 やがて、ヴェールを着けた巫女が、従者を伴って現れた。


 顔は見れなかったが、お姉さんと同じくらい綺麗な女の人だった。


 巫女の人が、大聖堂の中心で、膝を折って祈りを捧げる。すると、人々に神々しい光が降り注いで、奇跡が起こった。


 全ての怪我人と病人が、治癒したのだ!


「うぅ~ん……」


 お母さんから、声がした。


 驚いてお母さんを見る。


 土気色だったお母さんの顔に、朱が差している。


 僕は、お母さんの口元に耳を寄せた。


「!」


 驚きに声が出なかった。


 呼吸が……息をしてる!


 アンナと目が合った。目で問うアンナに、首肯する。


 アンナの目に、見る間に涙が溢れた。


「お母さーん!」


 アンナが、お母さんに飛び付いた。そして、泣きじゃくった。


 僕も涙を流していた。その僕の肩に手を置いて、男の人が、厳しい口調で僕に言った。


「お母さんは、まだ動けない……つまり働けない。お前が働いて、お母さんと妹を養うんだ……いいな?」


 男の人の僕を見る目は、一人前の男を見る目だった。


 僕は、自分の命を懸ける覚悟で頷いて見せた。


 男の人は、どこか眩しそうに、僕を見てた。



 僕達は、シズレさんという聖霊様の家で、住むことになった。


 お母さんは、生きているけど、寝たきりで動けない。


 妹のアンナはシズレさんのお手伝いに……そして僕は木材の加工所で働くことになった。



 朝……。


 今日は仕事の初日。


 まだ日が昇る前に起きる。


「おはよう、ウィル。早朝の仕事の前に、これを食べて下さい」


 シズレさんが、金色に輝くパンをひとつ差し出してくれる。


 僕は、それが理解できず、キョトンとした。


「食べないと、動けませんよ?」


 シズレさんが言う。


 僕は、それを受け取って恐る恐る口にした。


 蜜をふんだんに含んだ甘いパンだった。力がメキメキと沸いてくる。


 僕は、昨日紹介された加工所に行って、同じく昨日紹介された先輩達に教えられて、掃除と仕事の準備をする。


 準備が終わると、先輩達に「朝飯食ってこい」と、シズレさんの家に追い返された。


 家では、シズレさんとアンナが、お風呂と朝食の準備をして、僕を待っていてくれていた。


 僕は戸惑った。


 籠にいっぱいのパンと、新鮮な野菜のサラダ……焼かれた肉まである。


 喜びより、戸惑いと、申し訳なさで頭が下がった。


 遠慮する僕にシズレさんは言った。


「働くために必要なことです。これも仕事の内ですよ? 遠慮なく食べて下さい」


 僕はアンナに視線で助けを求めた。


 アンナは、お母さんに、金色に輝くお粥を食べさせていて、こちらは見ていなかった。


 お母さんは、ゆっくりとだけど、お粥をたくさん食べてくれた。その姿に、僕はホッとした。


 僕も、朝食を食べた。


 謝りながら食べた。


 それを見たシズレさんは、笑って言った。


「たった一言「ありがとう」でいいのよ? ああ、食べ終わったら「ごちそうさま」が欲しいかな?」


 僕は「ありがとう」と言って、心を感謝でいっぱいにして、朝食を食べた。



 朝食後、僕は加工所に仕事に行った。


 仕事は、先輩達が切り出した木材の運搬と、木屑の処理だった。


「その内、木材の加工もしてもらうから、先輩達の仕事を見て盗めよ?」


 そう、親方が言った。


 僕以外にも、僕と同じような子供達が働いていた。みんな、僕と似たような境遇で、急速に仲良くなり友達になった。


 そして、正午。


 加工所に、シズレさんとアンナ……そして、シズレさんと同じ聖霊様達と、友達の家族達が、お昼ごはんを持って来てくれた。


 僕は戸惑った。


 お昼ごはんって、なに?!


 僕は、お昼にごはんなんか食べたことがなかったからだ。


 食事は朝と夜の2回だけが普通だった。


「ラプアシアでは、朝とお昼と夕方の3回、ごはんを食べることが普通よ?」


 僕は驚きに、声もなかった。


「ウィルおにいちゃん、これ、あたしが作ったおにぎり! 食べて食べて!」


 アンナが、不恰好なおにぎりを指差して大声を出す。


 僕は、言われるまま、手に取った。そして食べる。


 ……しょっぱ。


 お昼ごはんのメニューは、おにぎりとピクルスと唐揚げだった。


 ピクルス以外、初めて食べる料理だったけど、とても美味しかった。


 お昼ごはんを食べると、僕達子供は、学校に行かされた。


「勉強も仕事の内ですよ?」


 そう、シズレさんが言った。


 お菓子を食べて、知恵のネックレスをして、勉強する。


 まだ、お父さんが生きていた頃の、教会での勉強会を思い出した。


 驚くほど知識が頭に入ってくる。しかも、苦痛がない。


 ……勉強って、苦しみだと思ってたけど、ここでは違うんだ……僕は感心した。


 仕事の都合によっては、お昼前に学校に来て、美味しい給食が食べられると、友達が言っていた。学校に来る楽しみが増えた。


 学校が終わると、1時間くらい友達と遊んで、加工所に戻って仕事をした。


 心地よい疲労感で仕事を終えた時、親方に「おう、今日の日当だ」と、大銅貨2枚が渡された。


 10枚あれば銀貨1枚と両替できる、子供にとっては大金だ。


 僕は驚いた。喜びより、怖かった。


「いいの?」


 そう聞かずにはいられなかった。


 親方は、明るく笑って言った。


「お前は、お母さんと妹を養うんだろう?……これで美味しいものでも食わせてやれ」


 僕は嬉しさに泣きながら、深く頭を下げた。


 僕は、家に帰り、大銅貨1枚をシズレさんに……もう1枚をアンナに渡した。


 二人とも、受け取りを渋ったが、強引に受け取ってもらった。


 お風呂と夕食を終わらせて、寝たきりの、まだ喋ることも出来ないお母さんに、今日の報告をした。


「どうにか、やっていけそうだよ、お母さん……だから心配しないで、ゆっくり休んで元気になってね」


 そう言うと、お母さんは、薄く目を開けて、少し、口元に笑みを浮かべた。


 優しい、僕の大好きな、お母さんの微笑みだった。

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