76 閑話 アリスの純情
○ 72 エミリーと炊き出しの直前の話です。
夜……。
自分の全てを委ね、大きな愛と、心地よい安心に包まれて、深い眠りにつく。
それは、幸せと呼ぶ安らぎだった。
朝……。
夫婦の寝室で、アリスは目を覚ます。
アベルと目が合って「おはよう」を言う。
少し気恥ずかしいから、ちょっと不機嫌っぽく顔を背けて。
でも「好き」が溢れてるから、アベルに小さく笑われる。
なによ、もうっ! アベルのクセに……。
好き……なんだからっ。
みんなも、次々に起きる。アベルは全員に「おはよう」を言って、優しく撫でてから、寝室に併設されたキッチンに向かう。
あたしも髪を撫でてもらった。
恋人の指が髪に触れるって、どうしてこうも気持ちよくて嬉しくなるのだろう。
にやにやしちゃった顔……見られたよね?
アベルが優しいのがいけないんだ、あたしのせいじゃないわよっ。
事情があって、朝起きてすぐは、あたし達は、動けない。……事情は、察して欲しい。
すぐに、アベルが、指で摘まんで食べれる軽食を、持ってきてくれる。
ベッドの上で座ったまま、みんなで朝食を食べる。
甘えて、食べさせ合いっこをするみんなに便乗して、あたしも甘えてみる。恥ずかしいから、ちょっと拗ねてみせる。
恥ずかしいけど、幸せ。
こんな、溢れるような幸せが、あたしに訪れたなんて、今でも信じられないくらいだ。
朝食が終わる頃、ようやく立てるようになる。
シャワーを浴びて、着替えを済ませて、アベルからは、昼食の入ったバスケットを受け取り、子守りメイドのマーサさんからウェンディを引き取って、杖を振り上げる。
唱える呪文は、転移。
一瞬で、イーストエンド村の魔女バーバラの家に。
バーバラにおはようの挨拶をして、ウェンディの子守りを、お願いする。
ウェンディを抱くバーバラの喜びようが、凄い。
ウェンディのことが可愛くてしょうがないんだろうなぁ。
イーストエンド村のアベルは、すでに畑仕事に行った後だ。
あたしは、魔女の大釜に薬草を入れて、魔法の薬を作る。
魔法の薬は、最近は、そのほとんどをラプアシアに納めている。
イーストエンド村は、ゴブリンの森に入らなくなり、怪我をする者が、激減した。
ラプアシアは、医療技術の進んだ領地なので、それを当てにして、患者や怪我人が多く訪れるから、魔法の薬に需要があるのだ。
アベルも、あたしが作る魔法の薬を、喜んでくれる。
それが、なにより嬉しかった。
愛する人の役に立てる幸せが、胸にいっぱい満たされるのだ。
ああ……あたし、アベルが好きだなぁ。
居場所を、愛される理由までつけて用意してくれる。そして、喜びと本当の笑顔を、あたしに見せてくれる。
お給金もいいしねっ!
また、キサラ、クレア、イリス、エミリーと一緒に、お買い物に行こうっと。可愛い服を買って、アベルを悩殺してやるんだからっ。
○
ルンルンで、魔法の薬を作り、いつの間にか、お昼になった。
慌ててバスケットを持ち、残念そうなバーバラからウェンディを受け取って、アベルが働く畑に向かう。
アベルのところに着く前に、ちょっと身だしなみを整える。
アベルの前では、可愛くありたいんだから、しょうがないじゃない。
畑に着くと、農作業をするアベルを見つけた。真剣な横顔に、胸がドキッとする。
な……なによっ、カッコいいじゃない、アベルのクセに!
昔は、地味で目立たない頼りない奴って思ってたけど、どうしてこんなにいい男になっちゃったんだろ? 心臓が持たないよ。
「おーい! アベル~、お昼ーっ」
あたしの声で、アベルが笑顔で振り返る。
うわぁ……男前ぇ……。
だから、心臓、持たないってばっ。
○
あぜみちに二人並んで腰かけて、昼食を取る。
アベルは、昼食をほっぽりだして、ウェンディを抱いて、ご満悦。
しょうがないなぁ……あっ、あたしが食べさせてあげるわっ!
イーストエンド村に来ると、バーバラとアベルで、ウェンディの取り合いになる。
チラリと、ウェンディをあやすアベルの横顔を盗み見る。
もうっ! そんな、なによりも幸せそうな顔、しないでよっ。
……こっちまで、幸せになっちゃう。
でも………。
いつもは思うだけの疑問が、今日はなぜか口に登った。
「どうして、そんなに、ウェンディが好きなの?」
自分の子供じゃないのに……。
いけない! と、思ったが、出てしまった言葉は戻せなかった。
アベルは、少し、考えてから言った。
「俺の子供だからだよ」
なんの気負いもない声だった。
「……どうして?」
あたしの声は驚いていた。
「ウェンディはアリスの子供だろ? 俺はアリスの夫だから、アリスの子供は、間違いなく、俺の子供だ」
あたしは、泣きそうになった。でも、その涙は、アベルを……愛する人を信じきれない、悔しさの涙だった。
「理屈なんかいらないわ! 本心で語って!」
アベルは、困ったように笑った。
……随分、大人びて見えた。
「……怒らない?」
アベルの、その言葉に、悲しくて泣きそうになった。
本心では、あたしが怒るようなことを、考えてたんだ……。
あたしは、泣きながら、うなずいた。
「怒らない。だから、本心を言って……」
アベルは、独白するように、語りだした。
○
ウェンディを見てると、セインの顔が浮かんで来て、憎しみが込み上げるんだ。
苛立ちに、ウェンディの頬っぺを、泣くまでつねってやろうって思うんだけど、ウェンディが、俺を見て笑うんだ。
俺のことを信用しきった、嬉しそうな顔をして、楽しそうに笑うんだ。
それにやられちまってさ……。
それを見て、憎しみで暗く冷たく硬く尖った心が、優しさと愛しさで、柔らかく丸く明るくなって、温かくなる。
セインに対する憎しみが消えて、ウェンディに対する愛情でいっぱいになるんだ……。
○
アベルが、泣くような……笑うような、くしゃくしゃの情けない顔をして、どうしようもない自分の心を白状した。
「……なぁ、アリス……? 俺、ウェンディが好きだ」
カレラが好きだ。オードリーが好きだ。
○
あたしは……いつの間にか、泣いていた。
ウェンディに対する愛が溢れだしたのだ。
それを聞いて、あたしは、100%ウェンディのことが好きになった。
今までは、どこかセインの子供ということで、ウェンディに対して隔意があり、完全に愛せないところがあったのだ。
ウェンディを見る時に、意識の片隅に、必ずセインの顔が浮かんでいたのだ。
憎しみと共に……。
それが、愛する人に……アベルに好きだと言ってもらえたことで、塞き止めていたウェンディに対する愛情が、解き放たれた。
そうよ、そうだよ! あたしも、ウェンディが好きだ!
自分のことを好きだと言われるよりも、嬉しかった。
その時……!
ウェンディを見る時に、脳裏に浮かんでいたセインの影が完全に消えた。
替わりに、ウェンディを見る度に、ウェンディが好きだと言った時の、アベルの顔が浮かぶようになった。
その時、その瞬間から、アリスの中で、ウェンディの父親はセインではなくアベルになったのだった。
ウェンディを、産んでよかった……。
そう思った自分の思いに驚いた。
初めてだった。
初めてそう思った。
今、やっと、そう思えるようになった。
涙が溢れた。
その涙は、ウェンディに対する、深い謝罪だった。
ウェンディ……ごめん……今まで、愛してあげられなくてゴメンね……。
これからは、100%愛そう。それが償いだ……。
ウェンディ……愛してる……。
あたしは、ウェンディを抱くアベルの胸に飛び込んで泣いた。
アベルは、なにも言わずに、ただ、あたしとウェンディを抱いて、優しく髪を撫でてくれた。
心に染み込む、限りない優しさに、心が救われた気がした。
○
ようやく泣き止んで、昼食を再開した。
あたしは、まるで、憑き物が落ちたように、幸せに微笑んでいたと思う。
「アリス……綺麗だ……」
なぜか、アベルに、そう言われた。
でも、なぜか、その言葉が、しっくりきた。
まるで、生まれ変わったような清々しさを感じ、笑顔が輝いた。
あたし……きっと、今、世界で一番、幸せ者だ。
○
まるで、夢のような昼食が終わった。
「アベル……動かないで……口にドレッシングが付いてるよ……あたしが拭いてあげる……」
口にドレッシングが付いてるなんてウソ。
ただ、キスをする口実。
自分からキスするなんて初めてかも……。
あたしって、こんなに純情だったかな? まるで初めてキスするみたいにドキドキしてる。
アリスは、小さく舌を出して、自分の口で、ドレッシングを拭き取るフリをして、万感の想いを込めて、キスをした。
全身を電流が走った。
愛で、全身がしびれた。
大きすぎるアベルとウェンディに向かう愛と、共に生きることが出来る限りない嬉しさ、溢れる優しい気持ち……幸福感に、涙が一粒、頬を流れた。
こんなにも……あたしは、アベルが……ウェンディが好きだ。
アリスは、キス以上を求めようと、わななく口を開いた。
その時! 茂みから声が響いた。
「アイリス様! あなたは、アゼル様という、立派な旦那を持ちながら……!」
ゴードンが、肩を怒らせて茂みから出て来た。
「……ゴードン? どうしてここに……?」
アベルの、驚きの声。
声の主に振り返って、ゴードンは、たまげた声を上げた。
「アゼル様! そんな若づくりして、こんなところで畑仕事なんて、どうしただか!?」
ゴードンは、慌てすぎて、方言が出ていた。
アリスは……真っ赤になって、恥ずかしがったり、怒ったり、悲しんだり、拗ねたりと、混乱して百面相していた。
よしよしと、抱き締めて慰めてくれるアベルに……今は、ただ、素直に甘えた。
胸に、間違いなく、あたしとアベルの子供……ウェンディを、ありったけの愛を込めて、抱き締めて。
アリスが「アベルなんか父親じゃない!」って言って、アベルが「本当に父親だって」って反論するんだけど、アリスが「そんな真心のこもってない言葉なんか信用できるか!」ってキレて、アベルが半泣きになって「信じてくれ! 愛しているんだ!」って言って、アリスが「チッ、しゃーねぇなぁ……認めてやるよ」って言ったお話しでした。父親と認めてもらうのも大変なんですよね。ただ養えばいいというわけではないのだ。
この後、アベルは、ちょっとグレて、態度が悪くてエミリーに叱られました。(72と73 エミリーと炊き出しと、その後日談)
2020年10月12日 アイニスをアイリスに変更しました。




