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だんだんと大きくなるその音はすでに壁を殴りつけるような重い音になっている。いったいどこから。かすかな悲鳴が聞こえたように思えて、俺は恐怖に耳を塞ぎたくなった。指先が震える。
『最終下校の音楽が鳴った後、鏡のある部屋にいるとどこからともなくノックの音が聞こえてくる』
それが、「ノックさん」の話だ。鏡のある部屋。部室に鏡はなかったはずだ。鏡。いや、今はある。ちょうど、俺の後ろに。
視線だけでそっと背後をうかがう。しまらなかったロッカーの中、不自然なほどきれいに磨かれた鏡。中には部室の様子と、学生服を着た生徒が一人。助けを求めるように、扉を叩き続けている。
俺ではない。知らない生徒だ。
俺は振り返ってその鏡を見つめる。彼は俺に気づいていないようだ。向こうからは見えないのだろうか。大きな音を立てたら、気づかれるかもしれない。俺はじっと息をひそめる。
俺よりも一回り小柄な彼は、ドアの向こう側に向かって叫んでいるようだ。しかしその声は俺には聞こえない。
ガン!
ひときわ大きな音がして、彼はドアを殴りつけた。ゆっくりとその手が下りていく。
あきらめたようにずるずると座り込む彼の手からは血が流れている。涙を流してはいなかったけど、俺には彼が泣いているように見えた。彼はあそこから出られないのだろう。彼はずっとこうしてドアを叩き続けていたのだろうか。そしてそれを聞いた人間が、ノックさんという怪談を作ったのかもしれない。
恐怖心は消えていた。だって彼は、あまりにも無力に見えたのだ。
俺はドアノブをしっかり握って、外へ出ようとした。
コン。
弱弱しい、ノックの音が、聞こえた。
気が付くと、俺は見慣れた部室に一人立っていた。いや、いつもよりきれいに片付いているが。
さっきまでの出来事は夢だったのだろうか?いやな夢を見たな。早く帰ろう。最終下校時刻を過ぎているから、先生に見つかったら怒られるかな。
そう思いながらドアに手をかける。開かない。鍵が壊れてるのか?
ガン、ガン。蹴りつけてみるが、びくともしなかった。おかしい。ドアの鍵が壊れてしまっているのだとしても、こんなに丈夫なつくりはしていないはずなのに。
とん。後ろから肩を叩かれた。他にも誰かいたようだ。部員の誰かだと思って、俺は振り向かずにその誰かに話しかけた。
「なんか、鍵が壊れてるみたいなんだ。でも頑張れば出られるだろうから、お前もこのドア壊すの手伝って……」
「出られないよ」
知らない声だった。振り向くと、そこには知らない生徒が立っていた。いや、違う。さっき夢の中にいた、彼だ。
あれ?俺はどうして、彼が夢の中の生徒だとわかったのだろう。さっきは後ろ姿で、顔なんて見ていないのに。
「ノックさんって、知ってる?」
彼は言った。
「最終下校時刻を過ぎてから鏡のある部屋にいると、ノックの音が聞こえてくるんだ」
彼はこんな話を語った。自分は友人とその噂を確かめようと校舎に残っていたこと。ノックさんの正体は鏡に閉じ込められた生徒で、鏡のある部屋を自由に移動できる。最終下校時刻より後、ノックさんのいる部屋の内側から誰かがドアを開けた時、相手がドアノブに触れている間にノックすれば鏡の世界から出られる。そしてドアノブを握っていた人物が、次の「ノックさん」になるのだと。
「何も起こらなかったから、帰ろうって言って、……最後に部屋を出たのは僕だった」
その時にノックの音が聞こえて、気づいたらここにいた。そして前の「ノックさん」に戻るための方法を教えられたらしい。
「ごめんね、僕の身代わりにしちゃって。……君が早く出られることを祈っておくよ」
じゃあ、…… 。
その言葉を最後に、彼は消えた。
俺は一人鏡の中に閉じ込められていた。
ノックさんになってから知ったことだが、最終下校時刻の後に校舎に残っている生徒というのは意外と多い。運動部は規則を破ると部活動停止だなんだといってうるさいので、ぎりぎりまで練習はしても最終下校時刻を過ぎるとさっさと帰っていく。むしろ文化部のほうが遅くまで残っているようだった。特に美術部はいつも遅くまで描いている人がいて、美術室には鏡もある。いつでも入れ替わることができそうだった。
俺には放課後から深夜までの記憶しかなかった。眠っていた気はしないのだが、そのほかの時間はぷっつりと消えている。
放課後のチャイムが鳴ると、俺はいつも鏡のある部屋のドアの前に立っている。部屋の中には人がいて、誰か一人は最終下校時刻が過ぎても残っていた。
だけど俺は、このドアをノックすることができずにいる。
鏡の中は、静かだ。考えなくていいことや、気づかなくていいことに、気づいてしまうくらいには。
俺が学校からいなくなったことを、誰も不思議に思っていないようだ。まるで初めから俺が存在しなかったように過ごしている。だけど俺の使っていたロッカーや机や靴箱なんかはそのままで、たまに誰かが首を傾げたりする。
俺の前にノックさんだった彼の姿は、あれきり見ていない。彼がどこへ消えたのか、それが気にかかっていた。人として元の場所へ戻ったのか。幽霊になってあの世にでも行ったのか。それとも。
ここではないどこかへ、連れていかれてしまったのかもしれない。
『じゃあ、…… 』
彼は最後に何と言おうとしたのだろう。その言葉は不自然に途切れていた。ひきつったようなかすれた空気の音。そこで彼はいなくなったから俺には聞こえなかったが、あの後に続くのは、きっと悲鳴だった。
救いなどない。どこにも。




