メディアを超える感覚
媒体、メディア。映像文字など、それに絡む特別なアニメ実写などの分類。両者は同じ映像だが分けて良いと思う。市場が根本的に異なるのも大きい。消費者が重なってないなども分ける意味がある。それらの直接的な差異とは別にすべてには内容を楽しむって受け手にとっての共通性がある。この共通性をメディアを超えて理解する事は可能か?
それは苦しいという、だが苦しいから無駄だとはならない。苦しいがやらないといけない重要な事になる。問題は山積みで出来たら避けたいがどうしてもやらないといけないのは、私の根幹が予測にあるからになる。受け手にとってはそれぞれが自分にとっての都合の良い選択肢でしかない。だが供給側は様々な点ではっきり分かれている。
予測において、供給側の都合はかなりどうでも良い。先に受け手の需要こそがすべてを決定する。それゆえ受け手のニーズはメディアに囚われないただ単純な楽しみそのものになる。共通性として物語を核においているが、それは便宜上単語が使いたいからやってるだけで、厳密には、バラエティー番組とアニメ、実写ドラマなどすべてに共通するものに拡大している。
何故か?物語より自由さのあるバラエティー番組の面白さを一部取り入れてる物語も映像作品なら多々あるからだ。その辺り一端柔軟に扱ったあとに、これ文字だと苦しくない?など考えれば良い。そうやって考えていくと、すべてのメディアに互換可能なものも見えてくる。苦しいものがあっても取りあえず物語と言う一義的なものを考えずに内容という漠然としたもので捉えたほうが良い。
創作を超えてもっと深い人間の反応とそれらの集団の反応などの話になっていく。それらを列挙していけばある程度内容って抽象的なものに肉付けが可能だと思う。私が様々なデータや経験考察などから得たものを書いていこうと思う。
1、希少価値は高く評価される。
これは簡単だろう。似たようなものはあまり高く評価されない。じゃ何故なろうは?ここで解説が必要になる。人間には好みによる差がある。これは飽きる事と密接に関係する。特定の偏った好みは飽きる速度を遅くする。そこでさらに難しい話が入る。昨今細分化された好みの集団は、ある一部でもかなり巨大な集団になる。この巨大さは通常時間経過で消えてなくなる小集団が維持される可能性がある。
これは昨今だけの時代的なものだと思われる。過去はこういった細分化された集団は巨大なマスに対するマニアでしかなかった。現代は、マニアの大きな集団が細分化されて存在して、マスという巨大集団が特に創作においては存在し無いと見ている。この原則は巨大なマニア集団の細分化の現代の状況に矛盾めいた現象を生じさせる。だが根本的にはそれに注意すればこの原則は絶対だと言える。
2、メディアを超える好みがある。
まさに上のものをそのまま移したものになる。オタク系のメディアミックスの根幹を為す部分になる。ただ昨今メディアミックスが壊れつつある。これに関しては、これらはそれぞれのメディアの趨勢が深く関係する。例えば文字媒体が衰退してるならそこは大きく下がってしまう。それがメディアミックスが昨今崩れる原因だと思われる。
じゃBDは?あれは配信に移ってるのが原因になる。ただし、お金って意味では配信は全くBD販売を補いきれてない。これでアニメ業界は安泰と思ってるならそれは大きな間違い。実体は海外の小銭集めが上手くいってるだけになる。私はここやや脆弱だとは見ている。何故か?と言うと自動車などと違う。世界のニッチ層の数を範囲を広げて増やしただけになる。かなりギリギリのバランスでやってるためアニメ業界はBD販売よりも強化されたわけじゃない。
3、ストーリーより発想アイデアはメディアの垣根を越えやすい。
ただ、これ難しい。ストーリー展開はアイデア発想のたまものだからになる。もっと原初的なイメージの問題。こういうのが好きって漠然とした全体イメージを誰しもが持ってる。これは細部では生まれない。そしてこれこそが創る事で最も重要な部分。なろうはこの大枠をコピーで補ってるから素人作家が活躍できるとなる。
ただし、これらの根幹を修飾する追加されるオリジナリティも十分にそれと比較できるもので無視は出来ない。その事をなろうテンプレ批判者は分かってない。
追加でストーリーがメディアの制約を受けやすいのは、長さが大きい。これは水源さんの同じ文字なのにラノベとなろうは違うって話を見てもらえば分かる。ストーリーはどこで区切るか?がかなり重要になる。例えばカクヨムで所期さっぱり読まれなかったが短編はよく読まれた。何故か?短編は短い長さでストーリー全体の面白さをすぐに理解できるからになる。
4、短期的刺激の重要性
正直何故バラエティー番組まで含めないといけないのか?がこれになる。長編は、その他の刺激が無いと上手く展開できない。筋全体の面白さは終らないと価値が評価できない。それゆえ完結にこだわる人が多いのは分かるが、漫画物語の基礎的なストーリーのおもしろさはむしろ全体像に無い。それなら週間連載に向かない。じゃ展開か?と言うとそれもあるが、短期的に刺激を入れてそれを複雑に絡ませないと面白くならない。
それは、メディアを超える面白さじゃない。というかメディアを超えても意識し無いといけない重要な事になる。例えば、先にあげた短編だとこれはあまり重要じゃない。多くの文学などの小説は、こういった短編の構造に似てくる。長編として売られていても、多分短期的な刺激への配慮が足りないと見ている。何故面白くないのか?でこれはみのがされがちだがとても重要。受け手は知らない間に退屈させないように全体のストーリー以外の何か?で刺激されている。それをストーリーが面白いと漠然と受取ってしまってる可能性が高い。
ほかにも幾らでも列挙できるだろう。だが、重要なのはそこじゃない。これは実例として分かりやすくあげただけで、私はその分析をしたいわけじゃない。私がしたいのは、メディアを超えた共通する何か?があると言うのを意識する事になる。文字物語の特化した面白さに拘る人間は、文字物語以外をベースにしている今の多数派を満足させる事はできない。
そして様々な予測に対して、このセンスを磨かないと駄目って話しになる。もちろん、これは思い込み論の元凶になる。私もよいものだとは思ってない。無理があっても絶対に必要って変な扱いになる。そもそもラノベって存在が変なんだ。ラノベと向き合うには絶対に必要なセンスで、それは古典的な小説の文字的な些細なテクニックの100倍大事な事になる。
ライトノベルは根幹部分で、多分小説的な面白さじゃない。