植木さんと喫茶店(裏側)
指定された喫茶店はビルの二階にあった。
外階段を上った先にあったのは木製の古びた扉だった。
ガラスの向こうに透ける店内。
扉を開くとカラン、とベルが鳴った。
カウンターといくつかのテーブル席。
木目調の重厚な昔ながらの喫茶店だった。
カウンターの向こうにいたのは若い店員だったが、店内に似合う落ち着きと静謐さがあった。
1番奥のテーブル席に目指す相手の姿を見つけて、植木は中に足を踏み出した。
ああ、静かだ。
店内には数組の客がおり、話し声も聞こえてきたが、それでも静かさと穏やかな時間の流れがそこにはあった。
「お待たせいたしました」
目指す相手、植木が秘書を務める一橋啓史の孫である少女、西本結女に声を掛ける。
ぱっと見は地味だが、よくよく見れば目を見張るほどの美少女だ。日本人形系ではあるけれど。
「いいえ?時間より早いぐらいですよ。植木さんはコーヒーでいいですよね?こだわりは?」
「いえ、特にありません」
植木は自宅ではそれなりにこだわってコーヒーを淹れることもあるが、今回は結女と話すことが目的だ。コーヒーはなんだっていい。
「じゃあ、ブレンドでいいですね。
いっちゃん、ブレンドひとつ追加でお願いします」
カウンターの中にいた店員は結女の知り合いのようだ。
いっちゃんと呼ばれた彼女はにっこりと笑って頷いた。
「お知り合いですか?」
「高校の同級生です」
若いとは思ったが、高校生だとは思わなかった。もっとも卒業式を終えた今も高校生と表現してよいのかは疑問であるけれど。
「お忙しいところすみません」
多分全く悪いとは思ってない顔で結女が言う。
「これが私の仕事ですので問題ありません」
一橋の秘書の仕事は多岐にわたる。
秘書室の一員である植木も様々な事柄に当たることがあるが、四年前に結女が一橋に現れてから彼女に関わることの多くが植木の担当だった。
「会長にご連絡いただけたことだけで有難く思っております」
「植木さんは全然わたしを信じてないんですね?」
恨みがましい目をしたのは植木も自覚した。
結女が本気になったら一橋に全く知られずに姿を消すことができるし、おそらくそれで彼女が困ることはない。
実際、一人暮らしをする結女の消息を一橋は何度か見失った。
その度に駆けずり回るのも植木だったのだ。
小さく嘆息したとき、ふっと人の気配がしてコーヒーが差し出された。
「お待たせしました、ブレンドです」
耳に優しい声だ。
芳しいコーヒーの香りに気を取り直して本題に入ることにする。
「先日、お嬢様が候補として挙げられた大学の中から勝手ながら2つに絞らせていただきました」
合格した稜上大学へ入学してもらうことが1番有り難かったが、結女の希望は海外だ。
一橋が安心して孫娘を送り出せる環境、彼女の消息を掴める環境、それを満たさなければならない。
「本当に今月中に引っ越されたいとご希望なのですね?」
「はい」
植木には悪魔の笑顔に見えた。
結女の希望を聞き、航空券、ホテル、現地スタッフの手配をする。英語圏なら問題ないが、結女の希望はフランスとドイツだ。円滑な意思疎通には通訳が必要だった。
「わたし、大丈夫ですけど」
「お嬢様に問題なくとも私が無理です。きちんとしたスタッフを用意させてください」
かつて各国を放浪してきたという結女には語学の心配がない。
スペックが高過ぎる。
天は二物も三物も与えるものには与えるのだ。
「手配をしましたので、明日14時にお迎えに参ります」
「さすがお仕事早いですね」
結女の感嘆の声にはどうも心がこもってないような気がした。
植木はパソコンを閉じて脇にずらすと、ようやくコーヒーカップを手に取った。
いささか温くなったそれを一口飲んで、目を瞬かせる。
美味かった。
ああ、勿体無いことをした。
小さく息をついて、改めて店内を見回す。
どうにも好みの店内だ。
落ち着いた時の流れを感じさせる。
結女を見れば、ほくそ笑むという表現がぴったりの笑みを浮かべていた。
植木は少し悔しさを覚えるけれど、一応確認する。
「お嬢様、こちらのお店はご紹介いただけたと思ってもよろしいですか?」
「植木さんは気にいると思ってました。わたしもしばらく来られないし、代わりに来てください」
植木がこの店の常連になるのはそのしばらく後だった。