化生
私は小さな女の子の手を引いて広い野っ原を進んでいた。その子は薄く透けるような布を巻いただけの格好で何も着ていないのとかわらないような感じだった。なんとかしてやりたくても私も同じような格好でどうしようもない。整った顔立ちをして、小さな口をきゅっと引き締め、細い脚を一生懸命動かして私についてきていた。私がこんな草のぼうぼうと生えている野原を狭い歩幅でしかも裸足では大変だろうにと思うと、女の子は私を見上げてにっこりと笑った。白い肌で額にかかったくすんだ金髪がゆれて美しい。腰の辺りまで伸びたその金髪を少し上で白い紐で結んでいるのを見て、この子が異人の子だということを思い出した。
どれくらい遠くに来たろうかと私は辺りを見まわしたが、どこまでいっても膝ぐらいまでの丈の草の海が続いている。広々とした空は目が痛くなるほど青かったが、どこに隠れたのか太陽は見当たらなかった。私は追われているのだから急がなくてはならないと思い、ついて来れるだろうかと一緒に歩いている女の子を見た。
「わたしは大丈夫です。歩けますわ」
と云って微笑んだ。私はその笑顔をどこかで見たことがあるような気がしたがはっきりとは思い出せない。
しばらく行くと、踏み締めた地面から、じくじくと、水が染み出してきて、それが裸足に纏わりついてきて非常に気持ちが悪い。歩く毎に泥を、ひとひとと跳ね上げ、ふくら脛や腿の後ろに、てんてんと張り付いた。私はちょっと立ち止まり、女の子の足についている泥を拭ってやった。すぐまた汚れるのだろうがそうせずにはいられなかった。かがみこみ手巾で拭うため近くで見ると女の子の足は針金のように細く産毛がびっしりと生えていたが均整が取れて美しかった。女の子は私のするに任せてじっとしている。それを終えると私たちは再び歩きだした。
半歩先を歩いて行く女の子を見ながら何故自分はこうして二人で逃げているのだろうかと考えたがいくら考えても思い当たらないのですぐ考えるのをやめた。女の子の金髪が歩みにあわせて左右にふわふわと揺れている。細く引き締まった身体や波打つ白い肌を見てどこかで会ったことがある気が又してきたがやっぱり思い出せない。
「わたしの事を忘れてしまったのですね」と女の子が急に振り返って云った。私が返事に困っているうちに、女の子の目にはみるみるうちに、涙が沖に生じた波のようにだんだんと盛り上がって、こぼれていく。その顔を見ると女の子がとてもいとおしく思われ「そんな事は無いさ」と思わず口にだしていた。堅い感触の、しかしやわらかな女の子の身体を抱きとめながら、この子と共に行こうと思ったのは確かなのだからいけるところまで行こうと考えた。女の子は泣き止み納得したようだった。私は女の子の手を握り直し、ふたたび歩きだした。その手はなんだかやけに節くれだち堅いように感じられた。
目の前をきらきらと光る粉がよぎりぷんと良い香りが匂ってきて、ふと気づくといつのまにか一面に真っ白な花が咲き乱れているところに踏み込んでいた。その花は大きな二つの花びらが上に張り出し緩い曲線を描いてその下にやや小ぶりの二枚の花びらが平らに開いている。小さいほうの花びらには金色の斑がぽつぽつと浮かび上がり、黒っぽい細い花芯が天に向かって伸び上がり花粉を風に舞わせていた。花々は朝露に濡れたのかまだしっとりとした湿り気を帯びていた。その白い花が見渡す限り続いているのだ。私が一本手折って女の子の髪を飾ってやろうと思い茎に手を延ばしたが女の子が私の方を見て首を横に振るので、ああこの花は摘んではいけないのだなと思った。花びらに手が触れたとき私は突然、ある雨上がりの夕に水たまり落ちた蝶々を助けた事があるのを思い出した。
私たちの背後で気配がするので振り返ると影のようにはっきりとしないが大勢の人間が近づいてくる。口々に何か叫んでいるようだが距離があるせいか何と云っているのかわからない。私と女の子を追ってきた人々なのは確かだろう。女の子は影を見ると脅える様子をみせ私は手を離さないようにしっかり握り走りだした。走っても走っても陽炎のような男たちの影は一定の距離を保って追いかけてくる。手には細長い棒のようなものを持ちそれで追い立てるように花を打ち散らしていく。花びらと金色の花粉が風に舞い上がる中を私と女の子は飛ぶように走り抜けていく。
小半時も走り続けると私は息が続かなくなり速度を緩めなければいけなくなった。男たちは相変わらず何か云いながら追ってきている。それを聞いているとどうやら彼らの目的は女の子のほうらしい。彼らに捕まって酷い目にあわされるのならいっそ女の子をおいて一人で逃げてしまおうかとも思った。女の子は突然立ち止まり私の目をじっと見て、
「お別れです」
と云った。その顔はなんだかとても悲しげだった。私は女の子と別れるのはいやだから抱きとめようとして女の子の身体に触れると堅く乾いた奇妙な感触に変わってしまっていた。目はあいているがもはや何も見ていない。美しかった金髪や肌からも色が失われて彫像のようだったがそんな状態でも生きているのを感じた。と、その女の子だったものは背中側に縦に裂け目がはいりぱらぱらと小さな破片に崩れ消えた。気づくと目の前に大きな蝶々が舞っていた。白い羽に金色の斑がありすらりとした身体に長い触角をゆらし私のまわりをしばらく舞いすいと飛んでいってしまった。私は何度も瞬きしながら白い蝶々の後をいつまでも追いかけていった。