即興で思いついた自己中な考え
職場の人に言われた言葉を、自分なりの解釈で掘り下げてみる
さて、唐突で申し訳ないが、諸君らは「世界は自分中心に回ってはいない」という言葉についてどう思うだろうか?
筆者はこの言葉は真であり偽であると思っている。
まずは真である理由を述べたいと思う。「世界は自分中心に回ってはいない」という意味を、他人や世論、経済、情勢などが自分の思い通りに行かないという意味で捉えた場合。これは確かにそうである。明日株価が上がって欲しい。誰かが自分に富を恵んでくれないだろうか?等外的要因に起因する事柄においては、確かに世界は自分中心に回ってはいないと言える。
だが別の意味で捉えた場合は、「世界は自分中心に回ってはいない」というのは偽ではないだろうか?先ほどの例で言うと、明日株価が上がって欲しいというのは少なくともその株を持っていて、明日上がったら売ろうと考えているからであろう。でなければ今日明日の株価等興味はない。
さてここからだが、株価を操作するのは外的要因だが、株価を予想するのは自分、つまり内的要因である。日々経済新聞に目を通し、投資先の企業のIRを見て、四季報にも目を通す。そしてこの企業の業績が好調であると判断した場合にその企業の株式を買う。そこまでして下がった場合は単なる市場の気まぐれか、企業分析に穴があったと見なすべきだろう。
ここで重要なのは、株価が下がったことでも、企業分析に穴があったことでもない。それによって誰が影響を受けたかだ。他の投資家、投資先の企業、その企業の関連会社などが考えられるが、それはあくまで予想でしかない。明確に影響を受けたと断言できるのは自分自身だけだ。他の投資家は日々の値動きなどには目もくれず、PERの値だけを見て判断しているかもしれない。投資先の企業も、案外株価を気にしていないかもしれない。その関連会社もだ。
話は変わるが、諸君らは人間関係は良好だろうか?筆者は生まれて以来一度もいい人間関係を築けた場所はない。人間関係というのは外的要因だろうか?否、これは内的要因である。
周りの人間は皆自分の行動に対しその行動に見合ったリアクションを返してくれる。これには一つの例外もない。例えば私が誰かを殴ったとしよう。そしたらその誰かはどういったリアクションをとるか。警察を呼ぶ?殴り返してくる?逃げ出す?はたまた惚れられる?どれにしても必ず何かしらのリアクションを返してくれるだろう。
だろうというのは、実際に殴って見るまでどうなるかわからないからだ。予想はできても答えがわからないのと同じ。だが、一つだけ確かなことがある。それは、次の瞬間から殴った相手が自分を見る目が変わるということだけだ。警察を呼ぶ人間は自分を犯罪者として。殴り返してくるやつは自分を敵として。逃げ出すやつは命を脅かす恐怖の対象として。惚れるやつは自分の趣向に合った存在として。
何が言いたいかというと、「世界は自分(の行動に伴う結果)を中心に回っている」ということだ。
私には他人の心などわからない。予想はするが、あくまで予想(筆者は人によく嫌われるから、予想が下手なのだろう)。そしてその予想が当たった時、相手は予想通りのリアクションを返してくれる。それを人は以心伝心、拈華微笑、意思疎通などというがそれは違う。要は競馬と一緒で、無意識に頭の中で自分の行動と相手のリアクションに倍率をかけているのだ。相手の話を聞いてあげる=好感度が上がる倍率1.1倍で本命。相手を殴る=好感度があがる倍率500倍で大穴。といった具合に。
そして大抵の人間は底倍率に賭ける。一番手堅く無難だから。そしてそれを繰り返して自分の世界を創り上げる。それは須らく「自分中心の世界」で間違いないだろう。
だからというべきか、筆者は最近他人を機械と一緒というふうな考えになってきた。地球という3D空間上に置かれた他人というオブジェクト。それにアタッチされた「感情」や「心」といったスクリプト。その中の感情というパブリックメソッドに自分の行動という引数を渡してやる。すると戻り値として何かしらの感情が帰ってきて、さらに記憶として他人という基底クラスから派生した個人クラスの中の「好感度」や「興味」といった変数が更新される。
ここで一つ注意しなければならないのは、他人にアタッチされたスクリプトは全て超強固に暗号化されているということだ。他人の脳を見ても、MRIで輪切りにしても、DNAを解析しても拷問しても何をしても何もわからない。わかるのは自分だけ。自分を解析できるのも自分だけ。だが解析結果を口にしても別の他人オブジェクトは理解しない。なぜならそこに独自の解釈というものが入るからだ。(他人にアタッチされたスクリプトを一度でいいから読んでみたい)
長々と話したが、結論として「世界は自分を中心に回っている」と言いたい。他人の考えなどわからない。他人の見る世界などわからない。筆者が思っている赤色は他人には筆者にとっての青色に見えているかもしれない。それは確認しようもないし、そもそもできない。
先ほど結論を出したばかりで申し訳ないが、結論を「世界は自分を中心に回らざるを得ない」変えさせていただく。
周りが自分の思い通りにならないのも、その逆も、全ては自分の行動に対する結果であり、それ以上でもそれ以下でもない。
だから一々他人に付き合うのは至極面倒である。最近は引数一個投げて帰ってきた値を見て全てを決めるようになってきた。
他人は人であり、生き物であり、道具である。使えない道具はすぐに切り捨てるのではないだろうか?例えば仕事ができない。話がつまらない等、人は使えないというbool値がtrueになった途端に切り捨てる。現に自分も幾度となく切り捨てられたし切り捨てた。
まあ、何が言いたいかというと周りは自分を意識下、無意識下問わず道具として見てるし、自分もまた他人を道具として見ている。一切の例外はない。快楽を生み出してくれる道具。面白い話という快楽をくれる友人。面白い遊びという快楽をくれる恋人。社会的安定という快楽をくれる会社。不仲でも孤独を癒す快楽をくれる伴侶。
そしてこれらの「道具」を使うのは自分だ。この「道具」を使い、自分の世界を創り出すのも又自分である。そう考えると、正に「世界は自分中心に回っている」としか思えない。
ずっとパソコンと対話してるとこんな考えになってくる。