前編
世界の中で唯一一人救えると言われたら。迷わずアイツを助けるだろう。
だけど、ワシの手はあんまりにも小さくて脆くて弱い。
二度と会えないわけではない。
そんなことわかっているけど、頭はそれを理解できていないんだ。
****
春の木漏れ日を浴びながら、森の奥で太陽に目を細める。
耳をすませば聞こえるあの足音。
ちろり、その方向を一度確認してワシはそ知らぬ顔で目を閉じる。
『なんで今目閉じたの?』
「……」
『お姫様来るよー?』
「……ぐぬっ…」
『ねーねー!』
「うるっさいわ!やかましい、このボケなす妖精!」
べちこん!とワシの耳元でギャーギャー騒ぎ立てる木の妖精"モク"がくるくるとデコを抑えながら大きな大木の中に姿を消した。
その瞬間。ドドドッと馬の蹄が止まる音が聞こえる。
「どうしたの"紫苑"、そんな目くじら立てて。」
「…別になんでもないわい…」
チッいつもいつもこう、なんでタイミング悪いのじゃ。
こう、ワシだって男らしくどっしりと構えてたまには待っていたいっていうのに。
「今日も甘味持ってきたよ」
にこっと艶やかな黒髪を揺らして愛馬の"あずき"から降りて、籠でできた入れ物をちょいっと上げたのだった。
彼女との出会いはとても運命的な物だった。
ワシが小さな猫ではなくなり、妖怪として生まれ変わって間もない、右も左もわからず、手置いの姿でこの森をさまよっていた時のこと…。
遠くない過去のことを少し思い出すように、明るい空を見上げる。
ふわっと吹いた風がワシの銀色の髪をサワサワと揺らした。
ーそれは妖怪になって間もない猫の話。
親の温もりを知らない猫はこの世界には多く存在していた。その猫が親なしでも幸福だったのはとある良心的な住職に拾われたこと。二つに別れた長い尾と、月明かりに光る淡い銀色の毛並み。
幾度となくヒトからは心無い暴力と迫害を受けていた。
それでもその猫は幸福だと、自分はまだ救われていると思っていた。
他の猫と大きく違う点は、その猫にははっきりとした自我があることだ。
いつもよように怪我をした身体を住職に手当してもらっている時、いつもその猫は思っていた。
「なぜ、こんなことをしてくれるんだろう。」
「ヒトはなにかをするときは決まって見返りを求めるのに」
「対価の払えないこんな奇妙な猫にどうしてこうも親切にするんだろうか。」
月光が射し込む縁側で、猫は大きな瑠璃色の瞳で住職を見つめた。
住職はそれに気がつき「どうした、紫苑」と猫の喉を撫でる。
猫の名前を彼は"紫苑"と名付けていた。
紫苑が自分を幸福だと思う要因の一つはそれも含まれている。
「お前だけは、私を忘れないでくれ。」
住職はそう微笑んで悲しそうに丸い月を見上げる。遠方の人を思うかのようなその瞳には、自分の知らない彼の孤独が秘められているようで、紫苑は長い二股の尾をゆらゆらと揺らして彼に寄り添った。
先に言われた「忘れないで」に答えるように小さく鳴いた。
彼は嬉しそうに笑っていた。
しかし、紫苑の幸福な時はそのすぐ後に終わりを迎えた。
ある月のない夜に彼は突然息を引き取ったのだ。
眠るように死んでしまった彼の枕元にちょこんと座って、呆然と紫苑は彼を見つめた。
明かりのないそこでも、瑠璃色の目はしかと彼の顔を見ることができた。
「忘れたりしない」
ゆらっと視界が霞んだような気がしたけれど、この竹藪の中の寺に誰かが訪ねてきたことで、紫苑は即座にその場を離れる。
しかし、ヒトは受け入れられないことを何かのせいにしたがるようで、住職の死を彼にまとわりついていた奇妙な猫に擦り付け、罰だとばかりに手を上げる。
「ッ!」
ー痛い、痛い、痛い。
足はきっと折れている。熱を持った前足とじくりと滲む脇腹。
この二つに分かれた尻尾がいけないのか。
妖しく光る銀色の毛並みがいけないのか。
住職の死を悼んでいるのはワシとて同じなのに、どうしてありもしない罪で罰せられなくてはいけないのだろう。
ドタッと紫苑は開けた所にたどり着いた。
近くを川が流れているのか、水のせせらぎの音が彼の耳に届く。
「ゲホッ…」
咳き込むと口からポタポタと血が垂れた。
それを前足で拭おうと口元に手を伸ばしたとき、ようやく彼は異変に気がついた。
自分の前足が、住職と同じような掌になっていて、よく見ると10くらいの人間の姿になっていた。
ボロボロの身体をあっちこっち触り、頭に生えた耳に触れて、全てが同じになったわけではないことに気がつく。
紫苑は小さく息を吐きだして、大きな大木に背中を預けた。
いっそのこと、このまま死んでしまえたら楽だったのにな、なんて。
死んでしまえたなら、この先この姿でどう生きていくかも考えなくてすんだし、なにより幸福を感じられた日々はもう戻らないのだから、いっそ思い出を抱いたまま……
ーお前だけは、私を忘れないでくれ。
サワサワと吹いた風。
雲隠れしていた月が青白く森を照らす。
「お主のせいか………」
ははっと笑って、ゴンと大木に頭をぶつける。
忘れるなってことは、生きて自分を覚えていてくれってことで、アイツはワシが追いかけることを望んでいない。
かつて自分が愛した姫が月に帰っていった時、やつは一人取り残されて忘れられた現実と共に生きていた。
「救われた」と言ってくれたことがなにより嬉しかった。
「……性格悪いのう」
ぽつり。ぽつり。口数が減っていき嗚咽に変わる。
涙を流すことは初めてだったけど、これはそこまで悪くない感覚で、彼の死を要約自分の中で昇華出来たような気がした。
それからその猫は街に出て間に合わせの服を見繕い、さっさと森へと帰っていった。
少しでも人の目に触れるとまたなにをされるかわからなかったから。
森の奥地のあの開けた場所に紫苑の花を植えた。
とある物語に早くに母親を亡くした兄弟の話がある。
兄は宮使えの為に墓参りに行けなくなり、その悲しみを忘れるため墓前に"忘れな草"を供えたが、弟はその悲しみを忘れないために墓前に"忘れぬ草"『紫苑』を供え、毎日母の墓前に手を合わせ続けた。
その結果、弟の夢に鬼が現れその忘れぬ心を高く評価して、明日のことが前の日にわかる力を与えて、その後幸せに暮らしたという。
忘れない事に褒美が欲しいわけではないけれど、ワシもこの物語の弟のように、住職を忘れずに生きていこう。
「…っ」
カサッと背後になにか物音が聞こえた。
これは馬………?
咄嗟に隠れようにも、瞬時に判断できずその瞬間は訪れた。
「姫様お下がりください!妖です!」
ドドドドッと弓が引かれる音と、地面や自分の身体に突き刺さる音。
せっかく花を植えたばかりだというのに。
小さく舌打ちをして、サッとその場から足早に逃げ出す。
これだから人間は嫌いだ。
姫様と聞こえたが、何故そのような身分の者がこんな森へと足を踏み入れたのじゃ。
「ゲホッ、割と頑丈にはなったようじゃが………痛いのう」
これは2、3日掛かるのではないだろうかと息を吐きだしたところに、ふわふわとなにかが近づいてきた。
『見ない顔だね』
「なんじゃお主」
『僕は木の妖精の"モク"だよ』
知らないの。というような物言いには少し苛立ちを覚えたが、こう良心的に声をかけられるのは心細かった手前有難かった。
『すんごい怪我だね』
「気にしなくてよい、いつものことじゃ」
『随分自虐的だね。そんな風に傷つけるのはヒトしかいないよ。どうして君が傷つけられるのか教えて欲しい?』
「はぁ?」
クスクスと笑っている妖精に呆れて言葉もでなかった。
そんなのこの姿のせいに決まっておるだろうが。
そんな風に考えているのもお見通しと言うように『それもあるのは否めないけど違うねー』とクルクル回る。
あーもう、鬱陶しい。
「ワシは寝る!お主は少し黙っておれ」
ぺしっと手で払うと『じゃあなんで僕は君を傷付けないと思う?』という声に「知らん」と返した所で、紫苑は深い眠りに落ちていった。
翌日。植えた花が無事かどうか見に行くことにした紫苑は。怪我で痛む足を引きずりながら歩いていった。
耳元ではあの口煩い妖精がわーわー騒ぎ散らしていて、紫苑うんざりしながら手を払って「うるさい」と眉を寄せる。
『わー、酷いねこれは。』
「……はぁ」
『ねーねー、なんでヒトが君を傷つけるのかわかったかい?』
「知らん。ワシは奴らが基本的に嫌いじゃ。理解したくない」
『そう、それだよ。』
「お主はうるさくて鬱陶しいな」
めちゃくちゃに荒れた紫苑の花を植えた場所。きちんと植え直して、地面に突き刺さったままの弓も抜き取った。
こんな傷つけるためだけの道具なんか作って。ホントに野蛮な生き物だ。
カサッ…
「またか…」
ため息をつき、背中に聞こえた足音に耳を澄ませる。
カサッ………カサッ……
十分に引き寄せて…
「あ……あの……きゃっ!」
伸ばされた手首を掴んで、そのまま地面に押し倒した。
ぶわっとチリチリと花弁が舞い踊り、ああまた植え直しかと嫌になる。
持っていた矢をその女の首元に当てがって睨む。どうするか、二度とここへ来ないように殺しておこうか。
「ご、ごめんなさい。」
ソッと添えられた手。小さくて白くて温かい。
ヒトの手が温かいことを知ったのはこれで2度目だった。
「なにを謝っておるんじゃ」
敵意がないことを理解して歳は14くらいの少女の上からどく。
少女の見た目は品のいい育ちの良さそうな顔立ちをしていて、世の中の美人という部類の人間なのだろう。
「昨日……あの…」
「ん?お前あの時の」
「私あの……住職さんの所に行く途中で、貴方と出会って。付き人が貴方に酷いことしてごめんなさい。」
土の上なのに平気で膝まづいて頭を下げる。仕立ての良い着物が泥まみれになり、とても見ていられなかった。
「もう良い!やめろ、そんな、今更迷惑じゃ!それにな、住職なら死んだ」
「はい。昨日その報を聞き私はこの森を歩いていたのです。」
そっと顔を上げてその女は悲しげに笑った。
「謝りたかったの。」
涙で濡れる頬。
ヒトはこの美しい女が泣いたらこぞって手を差し出すだろう。
だけど、人間ではない紫苑にはどうしたら良いかわからなかった。
そこで出た一言は「謝るとは?」という質問だけだった。
*****
女の名前は"百合姫"とある公家屋敷の一人娘。
この森へと5つの時に参拝の為にと入ったところ、姫は自分の中の好奇心により、愛されて育った世界を自ら壊してしまった。
『あの木になっている実は食べてはダメですよ。』
両親の言いつけを守ろうと見ているだけで止めていたけれど、月明かりに光るその青白い果実は、この世の物とは思えないほど美しくて、とても興味をそそられた。
手を伸ばせば届くところにあるその果実。
食べてごらん。そう聞こえてくるようで、彼女は小さな手をその実に伸ばし、刈り取った。
淡く光るその実を小さな口に運んで、がぶり。噛み付いた。
一瞬食べたことのない甘味を感じたが、急に心臓が苦しくなって息が出来なくなる。
視界に最後に映ったその実は、初めに見た興味をそそる色や形とはかけ離れ、瑞々しかったのに、噛んだ場所からどんどん水分が蒸発して、最後は炭になって消えてしまった。
目を覚ました場所は竹藪の中のお寺だった。
私の側には両親がいて、私が目を覚ましたのに気がつくとホッとした反面、悲しげに眉を寄せる。そこには怒りとかそうゆう感情も混じっていた。
「…あれほど、あの実は食べてはダメと言ったのに。」
「ごめんなさい。」
「過ちは償うことができます。しかし、今回の件は償いではなく対価を払わなければいけない。」
目を伏せた住職が小さく息を吐き出した。
あの木の実は住職の愛する人が残した、この地の物ではない果実で、一年に一度実を一つは付けるその実を絶対に食べてはいけないと言われていたという。
一度実をもぎ取ると二度と実をつけないその果実を住職は「かぐやの実」と呼んで愛でていた。なぜ、食べてはいけない実を植えさせたのか私にはわからない。わからないけど、大変なことをしてしまったことに変わりはなく、私はただただ涙を流した。
しかし住職は私を責めずに、私の身を案じていた。
「この実は不老不死の実で、食べたものを1000年間眠らせる変わりに永遠に老いないという呪いがかけられているのです。事実あの大木の傍では時の流れを感じることがありません。」
「1000年…」
「あなたの心臓は少しずつ鼓動を弱め、一種の仮死状態になるでしょう。」
いつその日が来るかはわからない
わからない間に心臓の鼓動が止まり、私の時は一度動くのをやめる。
再び動くのは1000年月が回った時。
誰も自分をしらない、両親もいない、そんな未知の世界に知らぬ間に…
これが、言いつけを破った罰であるなら、なんて残酷なんだろう。
だけど、そんなこと声に出せるわけなんてない。両親の話をきちんと聞いて、言う通りにしていたら、こんなことにはならなかったのだから。
両親はなんとかならないのだろうかと、被害者である住職に詰め寄った。
住職は静かに首を振る。
「お父様、お母様。私は自分の罪を自分の身できちんと償います。」
私に言える言葉はただそれだけだった。
百合姫はそれからというもの過保護に大切に育てられ、まともに外を出歩くこともままならない、言わば籠の鳥状態になった。
どれほど身分の高い男に言い寄られようと、いくら金を積まれようと、百合姫は将来が決まらぬまま15の夏を迎えたのだ。
手当された腕や足首、腹部、仕立ての良い布は、手触りもよくてほのかにあの姫の香りもする。
人のような姿になって間もないが、紫苑は実に彼女の人生を哀れみ勿体無いと思っていた。
ヒトには自分を傷付けるものとそうでないものがいるが、百合姫は確実に後者であった。
百合姫はそれからお詫びと称してよくこの森に通うようになった。
愛馬の"あずき"に跨って毎度のように木の上でそ知らぬ顔をするワシに「おいで」と手を広げる。
言っておくが見た目はワシの方がガキでも、年齢はワシの方が…………やめておこう。
そんなに変わらぬかもしれない。
初めは好奇心だけで媚びを売る馬鹿人間だと思い、しばらくの間は木の上で完全に無視を決め込んでいたが、彼女のそれが善意の心しかないことと、あまりのしつこさに根負けして、今では軽口も言い合える仲になった。
「ん、なにか甘い匂いがするな 」
「紫苑鼻がいいね。これ、作ってきたんだ」
ニコッと笑う百合姫。
その笑顔に少し照れながらも「なんじゃそれは 」と訊ねると、彼女は籠の中のモノを取り出した。
ふわっと鼻腔を擽る甘い香り。
『これは"かすてら"というものかな?』
どこから現れたのか木の妖精"モク"がその籠の中のものをパクッと口に入れた。
か、かすてら……?なんじゃそれは。
だが、この甘ったるい香りといい、あの馬鹿妖精の幸せそうな顔といい…
「よだれでてるよ。紫苑」
「ん、んなっ?!ワシはなにも、食べたいなど思っとらん!」
「そこまで言ってないよ」
くすっと笑って、百合姫は籠から"かすてら"を取り出して紫苑に渡す。
「…いただきます」
「ふふ、はい」
紫苑が口を開けると尖った八重歯が覗き、ガブッ柔らかいカステラを噛み切った。
口の中に広がる甘みと、花のような匂い。
紫苑は大きな猫目を見開き、バッと百合姫にその目を向ける。
「な、な、なんじゃこれは!」
「え、美味しくなかった?」
「ワシのどこを見たらそう思ったのじゃ!こんな美味いもの食ったの初めてじゃ!」
「ほ、本当?嬉しい」
にこっと屈託なく百合姫は笑い、沢山あるからと籠を紫苑に渡す。紫苑は涎がでるのをぐっとこらえてその籠の中を見た。
そして固まった。
『げぶっ』
「んの、……………糞妖精がぁぁぁあっ!」
『わ、なんだっていうんだよーまったく』
「わ、ワシの、ワシの甘味がぁぁ…」
ギャーギャーと騒がしく紫苑とモクがしているのを百合姫はクスクス笑いながら「また作ってくるから」と紫苑をなだめた。
「紫苑は甘いものが好きなんだね」
「お主は何が好きなのじゃ?」
「私は…」
『ボクはキレイな空気かなぁ』
「お主には聞いておらん!」
クスクスと笑っていた百合姫は珍しく「あははっ」と声をあげて笑った。それにぱっと紫苑とモクが振り向くと、百合姫は恥ずかしそうに口元を隠して「ごめんなさい」と呟いた。俯いている彼女に、紫苑はゆっくり近づき、そっと手を伸ばした。
しかし、彼女に触れることはなく「お主はそうやって笑っておった方がよい」と言った。
その発言に百合姫は顔をあげて「でも」と自分の立場などをぐるぐると頭の中で考えた。
しかし、紫苑には公家の姫君だからとかそんなのどうでもよかった。
なにせ自分は妖怪で、この場で彼女が彼女らの観点から"はしたない"と思うことをしたとしても、何ら関係ないことだし、なにより彼女の笑顔はこんなにも美しい。
「ここでは自由じゃ」
にっと笑えば、百合姫もそれにつられるように、なにかから解放されたかのようににっこり年相応に笑い「うん」と頷いた。
『というか、お姫様がお馬さん乗ってる時結構たくましいし、気にすることないよ』
「あはっ、そうかなぁ」
「お主は"空気"が本当に読めんな」
『えー?』
他愛もない日々はページを捲るように進んでいった。
その速度はゆったりしているのに早くて、鮮やかに幸せに溢れているのに、瞬き一つで消えてしまいそうなくらい脆くて儚い色を含んでいた。
それは紫苑が時折見せる不安と、百合姫が浮かべる儚い笑顔のせいで、その要因の根底は二人とも一緒だったから。
紫苑の花が揺れる真夜中。珍しく夜に森を訪れた百合姫が、大木の前で手を合わせる紫苑の背中に声をかける。
「紫苑…私、最近心臓がおかしいの」
「…」
紫苑は振り返らずにそのまま彼女の声を聞いていた。鈴の音のような美しくて品のある声は、自然の音と同じくらいの安らぎを与えてくれるのに、今回は紫苑の耳に不安だけを募らせた。
さわさわと揺れる夜風。誘われるように夏の虫が紫苑の銀色の耳に止まる。
もう二人が出会って一年が経っていた。
「ごめんね。なんでもない」
取り繕ったように笑い、紫苑の横にしゃがんだ。
月夜に浮かぶ横顔。淡く幻想的な美は儚い色をもって紫苑の瑠璃色の目に映る。
鋭い爪の生えた手でその肌に触れたら、きっと傷つけてしまう。
ずっとずっと抱えてきたものだった。
自分はヒトを型どってはいるが、実際は猫で妖怪。人の、ましてや愛されて育ったお姫様と釣り合うはずもなければ、触れるなんてもってのほかで、こうして隣にいること自体がおかしいのだ。
だけど「お前はここに来ない方がいい」その一言だけは紫苑の口からはでなかった。
お互いその方がいいのに、辛い道を選ぶことができない。
「紫苑、ふふっ……蛍」
耳に止まっていた蛍をちょんとしなやかな指でつつき、口元を緩やかにあげる。
紫苑の心臓はトクトクと脈打ち、血液を身体に駆け回るように巡らせる。
月明かりだけの効果ではなく、紫苑の目に透明のフィルムを張り付けたように、百合姫の美をより強調した。
紫苑は百合姫に恋をしていたのだ。
「お主が………いなくなるのは」
さみしい。
その一言は飲み込んで、住職がなぜ食べてはいけない果実の木を植え愛でていたのか、その理由をぽつりと百合姫に語った。
「愛していたんじゃろうな……」
月が照らす、実をつけることのない大きな木。見上げるとさわさわと風に葉を揺らしていた。
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