「軽舟已に過ぐ」その1
「五安の城壁が修復されたとの由にございます」
「ほぅ」
まだ昼間だというのに仄暗い室内に、けだるげな声が響く。
声の主は、リュウシン。リンシアの異母弟である。
良くあると言えば良くある話だが、領主である父が後継者を明らかにすることなく突然倒れたため、遺された姉弟との間に待っていたのはそれを巡る争いであった。
平和な時代ならばまだよかった。しかし、帝室の力は衰え、力がものを言う時代に入りつつあった昨今。一地方領主のお家騒動と雖も帝室にそれを調停する力は最早なく、また周辺の領主は自らの権益を増やす好機とばかりに虎視眈々と、お家騒動によってその領国が力を弱めるのを狙っていた。
「(あの老人の力を甘く見ていたか……。さすがは父の代よりの重臣ロホウよ)」
リュウシンは椅子から足を投げ出し、天井を見上げる。
「(これ以上、この内乱を長引かせるわけにはいくまい。何より周辺国が黙っておらぬであろう。……姉上め、余計な手間を増やしてくれる……)」
この後継者争い、この時代、“男”であるということは大きなアドバンテージである。ゆえにリュウシンが一歩も二歩もリードしていたのだが、五安の城壁が修復されたとなれば話は別であった。二人の父が心血を注いで為した城塞都市・五安。そこに籠られれば、長期化は避けられない。
「やっかいな……」
父から過度に嫌われていたという思いはない。しかし姉であるリンシアに寄せる期待よりも、自身に寄せられた期待の方が小さいことは幼心にも気づいていた。
「父よ、あなたが期待した姉上を倒せば、少しは見直してくれますか?」
リュウシンは誰ともなくつぶやく。
そして。
「誰かある!」
再び深く腰掛けると、先ほどまでの気だるげな雰囲気を払うように大声を出した。
幼き頃は、姉、リンシアと争うことになるなど思いも寄らぬことであった。
どちらかと言えば、姉弟仲は良い方であったかもしれない。
されど、時代と立場が、二人を子供のままではいさせなかった。
それぞれを次期領主にと支持する家臣たち。
もちろん、ロホウなどのように、純粋に領国の行く末を思っての者達もいたが、中には自身の野心のため。この後継者争いで旗色を鮮明にし協力することで恩を売ることで、旨みにあずかろうとする者達も多くいた。
その者達が姉の一挙手一投足を悪し様にリュウシンへと吹き込み続けた。
初めの方は信じさえしなかったが、聞かされ続ければそれがたとえ嘘であっても真実に聞こえてくる。
気づいた頃には、二人の仲は決定的なまでにこじれていた。
「(ここまでくれば最早後戻りなどできぬ。姉上、あなたを越えさせていただく)」
リュウシンの瞳には憂いと怒り、そして嘆きとがない交ぜとなり、狂気に近い炎が宿っていた。
「ガクジンに伝えよ。兵二万を与える。五安を落とせ、と」
現れた伝令に、リュウシンはそう決然と命じる。
後の世に「衛江の戦い」と呼ばれる戦の火蓋が切って落とされた瞬間である。