「夜来、風雨の声」その2
ところで、転校生の心得とはなんであろうか。
それは、過度に目立ちすぎないことである。
転校生というのは嫌でも目立つ。ゆえに、自ら一歩引く。それくらいでちょうどよいのだ。
子供の頃から父親の転勤であちこち転校してきた葵も、それを心得ていた。
少女、名前はリンシアと言うらしい、に拾われてから一週間ほどの月日が経とうとしていた。その間、葵はリンシアから一室を与えられたが、目立たないよう、極力静かに過ごしてきた。そんなある日のこと。
「すまんが、ここを出て行って欲しい」
リンシアの桜色の唇からそんな言葉が告げられた。
葵も、この一週間、静かに過ごしてはきたが、別に無為に過ごしてきたわけではない。
ここはどこなのか。そしてどうすれば帰れるのか。それを調べるべく、リンシアから様々書籍を借りてきた。
その結果、ここがどうやら古代中国に似た異世界らしいこと。そして、帰る手段は、現状、無いこと。簡単にまとめると、こんなことがわかっていた。
これらがわかった瞬間の葵の心境は複雑であった。
なぜ俺が。どうして俺が。
そう思うと同時に、これからどうすべきか。
そんなことを考えられる、冷静な自分もいることに、わずかな苦笑を漏らしもした。
慣れ親しんだ環境。仲の良い友達。そこから一気に突き放される感覚。
葵がこれまでの人生で、転校を通したびたび味わってきた感覚に似た感覚でもあった。
だからこそ、動揺はしたが、過度に取り乱したりせずにすんだのだ。
そこにきて、この“出て行って欲しい”との言葉。
葵からすれば、よくこんな見知らぬ、まして突然現れた不審極まりない男に住む場所と食事を与え、貴重であろう書籍まで貸し与えてくれたものだと思う。ゆえに出た言葉は。
「最後に。俺に何かできることは?」
ここまでしてもらって何もせぬでは申し訳が立たない。そう思ったのだが、リンシアは静かに首を振った。
「そうか。で、いつ出て行けばいい?」
これからのことに対する不安はもちろんあったが、それでもごく自然に葵はそう言うことができた。
それから一刻後。
もともと荷物など無い身だ。
「今すぐにでも」
とのリンシアの言葉を聞き、葵は一週間世話になった部屋を後にした。
「さて、これからどうするか」
高級な中華料理店を思わせる廊下を召使いに案内され歩きながら、葵はそう独りごちた。
来るときも思ったが、リンシアはどこかのお嬢様なのか。やたらと広い屋敷に住んでいるようで、いくつもの部屋が並んでいた。召使いに案内してもらわなければ。
「(うん、間違いなく迷うな、俺)」
葵がそう思うほどの巨大さである。
ふと。
「おお、そこな若人」
そう唐突に後ろから呼び止められ、葵は振り返った。
「もうお帰りかな?」
と、好々爺然とした白髭の老人、ロホウに呼び止められた。
ロホウはリンシアの家宰で、葵も書籍を借りるときに何度か会ったことがある。
「ええ、今までお世話になりました」
葵は丁寧に一礼をした。
「これからのアテは何かあるのかのう?」
ロホウの問いに、葵は苦笑で返す。
生きて行くとはすなわち食べること。食べるためには何か仕事をしなければならない。
当面この世界で生きて行かなければならない以上、葵も何か仕事を探さなければと思っていたのだが、あるのはせいぜいバイト経験くらい。ましてこの世界に来たばかりだ。アテなどあろうはずもない。
それを悟ったのか。
「では一つ、この老人の頼みでも聞いてもらえんか。なに、リンシア様は決して吝嗇なお方ではない。報酬は弾むぞ?」
ロホウはそんなことを提案してきた。
葵としても、これは渡りに船。どうやらリンシア関連の仕事らしく、受けた恩を返せる機会でもある。だから二つ返事で承諾した。
後に葵は、この一週間を“夏に訪れた束の間の春の夜であった”と記している。
季節は再び夏の暑さを取り戻し、物語も再び転がり始める。
これが後の世に、名宰相として語り継がれる葵の初仕事となるのだが、このときは葵本人はもちろん、依頼したロホウすら全く気付いていなかった。