「人生、別離多し?」
暑い。そして暑い。
夏休み。親戚が営む骨董店でのバイトを引き受けた、というより押し付けられた、高校二年生の如月葵 《きさらぎあおい 》は、住宅街の坂道を上っていた。
吹き出る汗。ゆらめくアスファルト。
「まだ着かないのかよ……」
昼。おばさんの茹でてくれた素麺を、氷の入った麺つゆに付けながら啜っていた葵に任された仕事。
「あおちゃん、悪いんだけど、あの人の代わりに受け取ってきてくれる」
それが、骨折して入院を余儀なくされた店主でありおばさんの旦那であり、葵の母親の母親のそのまた母親の弟の息子の息子。つまり親戚のおじさんの代わりに、商品を受け取ってくることだった。
だからこそ葵は今こうして、うだるような暑さの中、ひたすらに坂道を上っていた。
そして、おばさんから渡された地図に書かれた文字が汗で滲み出す頃、ようやくその目的地である、坂の頂上に着いた。
「すっげー」
坂の上で葵を待っていたもの。それは、眼下に広がる青い海。そして白亜の豪邸であった。
半そでシャツの袖で汗をぬぐい、茫洋たる海を眺めながら、このバイトが終わったら、海へ旅行に行くのもいいかもしれないな。
葵はそんなことを思いながら、本日の受取先。豪邸の呼び鈴を鳴らした。
「大丈夫、全部話はついてるし、お金も払ってあるわ。あおちゃんはただ、商品を受け取ってきてくれればいいから」
とは、おばさんの言。
簡単なお使いである。豪邸の主である老人に、おじさんの様子を尋ねられ、それに二三答え。新聞紙にくるまれた、古い銅鏡のようなものを受け取り、今度はさっき来た道を下る。
「海、ねぇ」
葵はそうつぶやきながら、昨年、家族で行った海を思い出していた。
そう、人・人・人。カラフルなビーチパラソルが所狭しと並び、波打ち際には、健康サンダル並みにいくつも作られた凸凹とした砂山の数々。ちょっと本気で泳げばすぐ人にぶつかりそうな海に辟易した思い出がある。
しかしそれでも、今葵の頭の中に浮かぶイメージ上の海は、人ひとり居ない白い砂浜に青い波間。さながら写真集に載せられた海の如くであった。
「海、ねぇ」
葵はもう一度だけつぶやく。
「だが今は。今すぐにでも、クーラーを浴びたい!」
葵がそう叫んだ瞬間、物語は転がりだした。
そう、さっきまで葵の右手にしっかりと抱えられていた銅鏡のように。
車輪が坂道を一直線に駆け降りるように。
「やべっ!」
白亜の豪邸の主より託された銅鏡を慌てて追いかける葵。
もつれる足を必死に前へと出しながらも転ばないように態勢を何度も立て直しながら走る。
「俺のバイト代!」
いくら温厚な親戚夫婦といえども、大切な商品を壊したら間違いなくバイト代が削られる。そうなったら。
「海が、俺の海が!」
葵がそう言うが早いか、無常なるトラックの轟音が駆け抜けるが早いか。
坂を駆け抜けきった鏡が、大通りに出た瞬間。トラックに轢かれて。
――割れた。
「えっ……?」
一人の平凡な男子高校生が、平和な日本から消えた瞬間。
そして、一人の英雄が異世界に生まれた瞬間。
一塁ベースに向かって頭からスライディングを決めるランナーのように転びかけていた葵は、割れた鏡の破片から発せられる光に飲み込まれていった。