海賊と糸車
奇妙な事になっていた。マストの下からは我々二人の決闘を観戦しながら愉快そうに野次を飛ばしたり、酒をあおる男共がいる。皆、海賊で、吾輩の部下か同胞だった。
事の発端は、吾輩の立てた計画が失敗したことにあった。近海の海賊団で徒党を組み商船キャラバンを襲撃するはずが、予期せぬ時化で見失ったのである。
代わりにキャラバンからはぐれた商船を一隻見つけ、これを襲うことになった。多勢に無勢、海賊船三隻で囲いこみ、あとは籠城する乗組員たちに降伏勧告を行おうという段階で、おかしな事が起きた。
商船から決闘の申し込みがあったのである。しかも相手は商人の娘。会ってみればたいそう美しい容姿で、裁縫や刺繍を趣味とするような大人しそうな少女だった。実際、部下によって連行されてきた彼女は手に糸車を持っており、先ほどまで船室で刺繍などをしていたことが伺えた。
彼女の主張はこうだ。船長と一対一の決闘を行いたい。もし自分が負ければ、乗組員は一切抵抗せずに投降する。だが万が一勝つことができればこのまま撤退して欲しい。
基本的にこういった類の提案は受け付けないものだが、吾輩は、二つ返事で引き受ける事にした。勿論、健気な娘に同情したわけではなくれっきとした理由がある。当初の計画が頓挫した事により部下やその他の海賊団らが吾輩に対して不満を募らせていたせいだ。吊るし上げや暴動が起きかねないこの状況下で、彼らの苛立ちを紛らわすには商船一隻の戦利品だけでは足りそうになく、この余興めいた決闘は打ってつけだったのだ。
「海賊様、御提案を受けて頂きありがとうございます」
決闘が始まるや驚いたことにまず彼女は丁寧にお辞儀をしてきた。その場にそぐわない淑女とした佇まいはこれから何が始まるのかをまるで理解していない世間知らずの少女そのもので、周りから下卑た笑いが漏れていた。
所詮これは見せ物。娘にはおおよそ武器として振るえそうにもない大型のサーベルを与えた一方で、自分はマッチロック式の銃を選んでいた。こちらの目的は一方的に彼女を蹂躙し、観客たちの目を十二分に楽しませればそれでいいのである。
ただ、それでもこの決闘の取り決め自体は公正かつ平等なものだった。仮に吾輩が敗北を喫することになるとすればまず間違いなく契約は履行され、同胞らは商船から手を引くことを余儀なくするだろう。約束を違えれば、怒り狂った商船の船員たちによる徹底抗戦が始まり、目当ての積荷も燃やされることになる。
その上、その事実が外部に洩れるようなことがあれば最後『嘘をつき』という不名誉なレッテルを貼られてしまう。強盗も殺人も褒めそやされるこの稼業だが、信用がなくなれば徒党を組む相手もできず、美味しい話も洩れてはこない。そうまでして約束を違える事に利益などなかった。
勿論それらは吾輩が負ければの話である。そんなことは鯨が逆立ちするよりも有り得ないことだ。
どうも見世物を演出しようとしたのがいけなかったらしい。罵声を浴びせ威圧したり、威嚇射撃で煽ったりで勝負を長引かせていた為か、いつの間にか雨が降ってきた。銃弾はまだ残っていたが、肝心の銃が、火縄が濡れて点火ができない。マストの下からの歓声は先ほどよりも活気がなく、場が盛り下がり始めている。いつの間にか吹き始めている緩い向かい風にちらりと振り返ると、黒い積乱雲がすぐそこまで迫っていた。
そろそろ余興も終わりにする必要があった。マストにしがみつく少女のところまでやってくると、未だ持ち上げることすらできずにいるサーベルを強引に拝借する。
大した抵抗もなかった。美しく大人しいこの娘は勿論最終的に賞品として売り飛ばすつもりなので殺すつもりはなかった。後はこの剣柄で何度か殴りつければ十分だろう。
だが窮地に立たされているはずの彼女の顔をよく見ると、どういう訳かにっこりと微笑んでいる。怯えがまるでない。それはまるで自らの価値を確信したような表情だった。
「ご覧ください海賊様。私から取り上げたそのサーベルにきらきらとした細い細い糸がくくられているのがお分かりですか。それはラメ糸と呼ばれる、積み荷のなかで最上級の品です。他にはない玉虫色のその光沢を出す為に、微量の金属が織り込まれております。マストの上で解くのはそれはそれは大変でしたがその甲斐はあったようです。ほら糸が風にたなびいて勢いよく積乱雲へと向かっているのがお分かりでしょうか。そして糸を辿って迫ってくるあの紫色の光の筋はなんでしょう」
少女に促され、言いようのない恐怖と共に吾輩が振り返るとそこには稲妻が――。