序
鬼が頂点に立つ国、月都。
其処な帝の長男は、東宮と呼ばれているが、その美しさからまたの名を『華の君』という。
その華の君の真名は、本人と父である帝、其の人しか知らなかったが、今その名がある一人の少女に明かされようとしていた―――。
*
「――ご覧。」
口端を器用に吊り上げて笑った男に、櫻は瞑目する。差し出された紙を受け取ったはいいが、中に書かれているのは、目の前の男の真名である。真名とは、命の次に大事なものであり、本来長年連れ添う夫婦同士でさえ明かすことが少ないのである。だというのに、その大事な名を、目の前の男は今、櫻に明かそうとしていた。
――それも出会って数分の女に、である。
「お、お待ちください。こんなの受け取れません。」
「遠慮はしないで。貴女に明かすともう決めたのだから。」
「で、でも・・」
脇息に、体を凭れかけ、悠然とこちらを見つめる男の瞳には、有無をいわさぬ強さがある。櫻は手に汗握りながら、どうしたものかと考えこんだ。どう考えたって受け取れないのだが、どうやらあちらも受け取る気は毛頭無いらしい。
手の中にあるのは、この国の皇子の真名――そう考えただけで、ぶるりとした震えがつま先から頭の天辺まで走った。
真名を悪用された場合、最悪呪いに掛けられるすると、死に至る事がある。もちろん櫻はそんなことする動機も勇気もないが、万が一の事があってうっかり口を滑らせてしまえば、死刑どころの騒ぎではない。罰として、魂を未来永劫、冥府に打ち付け続けられるに違いない。
ぶるり。櫻はもう一度震えて、やっぱりお返ししようと、心に決めた。
「やっぱり、受け取れません!もし私が口を滑らせてしまったら、東宮様のお命が危ないですから!」
「僕の心配をしてくれるの?嬉しい限りだね。でもそんな心配はいらないよ」
「え、でも・・」
「貴女は絶対、そんなことしないよ。僕には分かるんだ」
にこり、と微笑んだ東宮様。その表情の美しいことと言ったら、美の化身であろうかと疑いたくなるほど。間違いなく人間の美ではない。それもそうで、彼は鬼という種族なのだが、それでも鬼ですらこんな神々しい鬼はいないだろう。
髪の合間から見える二本の小さな角は、艶々と光っており、櫻は思わず見惚れてしまった。
なんて美しい。白いかんばぜに浮かぶ、瑠璃色の瞳が妖艶に細められ、自身に見蕩れる少女を射抜いた。刹那、瑠璃の眼が金茶に光る。櫻はビクッと固まった。
「さあ。ご覧」
促し、二つ折りにした紙を開けさせる。少女はぼんやりとした表情のまま、手元の紙に視線を落とした。光を失った双眸が、文字を辿る。
桜色の唇が開き、その名を音にした。
「――― 菫?」
「ああ、そうだよ。それが僕の真名だ。よく覚えておいて」
「はい。」
少女に魔眼を掛けた少年は、ニィと笑みを零し、彼女の手元から紙を奪った。
うつろな眼をした櫻の耳元で「解。」と唱えると、彼女の意識がハッとして戻る。櫻は何が起こったのかわからぬ様子で、真近くの東宮に眼をぱちくりした。
すぐ近くにある綺麗な顔には染みひとつ無い。それを羨ましく思っていると、東宮が薄い唇を開いた。
「貴女には一花の宮をお預けしよう。東宮の正室の座だ。僕には既に側室が一人いるけれど、気にしなくていい。僕には貴女ひとりだけだから」
甘い囁きと共に、体を引き寄せられる。白い直衣からは、仄かに花の匂いがした。
まだ薄い胸板からは、とくとくという鼓動が聞こえてくる。
櫻は爆発しそうになりながら、東宮の言葉を聞いた。
「出会ったばかりだけれど、貴女を愛しく思うよ。誰より貴女が大切だ」
「え、あ・・・」
「―――だからね。」
少年の口が再び、ニィと釣り上がる。妖艶な目元には、獣染みた鋭さが滲み出ていた。
そんな東宮の様子を知らない櫻は、顔を猿の尻のように真っ赤にして、続きの言葉を呑気に待っている。平民出の女には、こんな高貴な御方の抱擁は刺激的過ぎた。ぷしゅうと音が出そうなくらい真っ赤な頬に手を当て、東宮は囁いた。
「貴女を食べても、良いかな―――。」
「・・・・・はいっ?」