夏に降る雪、海に咲く花
とある小さな村には、昔からこんな言い伝えがあった。
『一生に一度だけ、不思議な体験をする』
それはいつ、どこで、何がきっかけで、どんな体験をする事になるのか等の詳細は全く伝えられていない。
その言い伝えがやがて、都市伝説的な扱いを受けるのは自明の理。確証も証明も出来ないのだから、こればかりは仕方が無いとしか言えない。
しかし不思議な事に、この言い伝えが廃れる事は無かった。
そんな言い伝えがある小さな村は、限りなく田舎。すこし都会の便利な暮らしに慣れた人なら、不自由に感じるような自然の中の村だ。
しかし逆に、そこに慣れて順応してしまえば楽園とも言える、のどかで静かな村だった。
朝。雄大な緑、畑が広がる景色に太陽の矢が放たれる。次第に照らされていく村は朝霧に包まれる中、水滴が光を反射して黄金色に輝いて眩しい程。
鳥達は朝を喜び、目覚めの歌を歌う。それに反応するように、家畜や鶏も朝を光を浴びて鳴く。次第に賑やかになっていくにつれて、日の光度も徐々に増していく。
清められた空気は湿り気を帯びていて、深呼吸するとこの上なく気持ちがいい。村は太陽と共に起き、太陽と共に眠る。やがて村の人間の野良仕事や狩りの支度を始めるのだ。
しかし彼は今日太陽が昇り、目覚めの合図がそこら中から感じる時間に、とうとう体験してしまった。
『人生に一度、不思議な体験をする』
今自分の身に起こっている事が、その不思議な体験なのだと信じて疑わなかった。
何故なら彼は、目が覚めると空中にふわふわと浮かんでいたからだ。
眠っていたベッドには彼の姿はやはりなく、床と天井の間を漂うように浮かんでいる。
コントロールは利くらしく、行きたい方向へ身体を動かせた。中々難しいものの、なんとか家族の元へ助けを求めるのに必死だった彼は、なんとしても制御しなければならなかった。
扉を抜けて、突き当たりを真っ直ぐ右。その先の部屋には家内が朝食を用意しているはず。
彼が起きた頃には隣にはいつも居なくて、いつも先に朝の支度を始めているのだ。長年連れ添った、彼の大切な家内は旦那である彼によく尽くしていた。
リビングには、やはり家内がいた。穏やかな表情で朝食の用意をしながら、珈琲を飲んでいる。
彼は安心した。もしかしたら居なくなっているかもしれない、とそんな想像をしてしまったからだ。
「お、おはよう。あの……どうしよう、なんだか起きたら身体が浮かんじゃって変なんだ」
「…………」
「聞いてるのか? おい、助けてくれ」
「…………」
なんの反応も示さない家内。まるで彼はそこに存在しないかのように無関心だ。無視をしているようにも感じられない事から、彼はショックのあまり思考回路が止まってしまう。
「なぁ……本当に聞こえて、いないのか……?」
「…………」
ここで彼は一つの可能性に気が付いた。本当は一番最初に疑うべき可能性だった。
「もしかして、これは夢ではないのだろうか」
そう、夢。夢ならば全てが解決する。浮かんでいる事も、家内が反応してくれないのもなにもかも。
そう認識した途端、彼の焦燥しきった心に安堵がもたらされた。早鐘を打っていた心臓も、ようやく落ち着く兆しが見えている。
そしてふと辺りを見渡してみると、なにか小さく光っている球体が彼の近くに寄ってきたのが見えた。
『私に……付いてきてください』
とても綺麗な声だった。
彼は今の状態を夢だと認識したので、喋る球体という不思議だらけの現象になんの疑問も感じず受け入れた。
光る球体は、見れば見るほど美しかった。淡い光の中、ほのかに浮き出る沢山の色。鮮やかな青になったかと思えば薄くなっていって、薄い青、それに薄紫色が線を生んでいく。
少しの間光る球体に付いて行くと、辿り着いたのは我が家の裏庭だった。
『ここで少し待っていて頂けますか?』
「あぁ、勿論。しかし、これから何がはじまるんだい?」
『直ぐに、わかります』
正気であれば、こんなに普通に会話など成立しない。彼は夢ならば何も問題ない、流れに身を任せようという気構えなので、特に深く考える事を止めた。
しかし、裏の庭の草も随分生えてしまったなぁと思った。これは起きたら、草刈と庭の整備でもしなきゃなと考えながら空気のベッドに横になる。
これがなんとも言えず気持ちがいい。
なんの身体ストレスも感じず、至福で最高のリラックス状態とも言えた。夢なのに、随分リアルに感じるものだなとあくびをしながら太陽に視線を向ける。
すると、光る球体が目の前を旋回しだした。
『はじまります』
「そうか、はじまるのか」
『……では、どうぞ』
空が急に暗くなった。いや、暗くなったのではない、ホール状の暗闇が頭上に現われたのだ。
暗闇の部分には、星のように瞬く光があって綺麗だ。しかし、その異質さから不気味さが滲み出ている。
彼は少し戸惑った。引きずり込まれるような錯覚に、夢なのだと考えていても腰が引けるのを止める事が出来なかった。
『怖いのですか』
「少し、怖い。この中に行ったらどうなる」
『きっと貴方の望む事の全てが在ります』
「……戻ってこれるか? ちゃんと朝起きられるか?」
『……強く望めば、あるいは』
夢なのに何を心配しているのだろうと、彼は苦笑した。随分リアルで長い夢だけど、この夢の冒険こそが言い伝えの体験なのかと思うと、何故だか少し心が温かくなって楽になった。
ずっと昔に無くした気持ちを胸に宿して、彼は決心した。きっとこの奥には村の言い伝えが今まで語り継がれてきた秘密があるに、違いない。
まだコントロールの利かない浮遊でホール上の暗闇にその身を預けたのを、光の球体はどこか寂しげに見つめていたのだった。
暗闇の先は、やはり不思議な場所だった。
ふわふわと浮く現象が治り、彼は地に足が付いたのだけれどその地は無。
正確には無ではなく、黒。暗闇の中に立っている。
上を見上げると、空に川が流れているのが見える。空に、川が流れているというのは比喩でも揶揄でもなく、川が流れている。
ありえないことだ。なので、人間の脳は即座に『自分が上からのぞいているのでは』という思考になる。がしかし、彼はその思考に行き着かない理由があった。
「言い伝えの不思議な体験はやっぱり、このことだったんだな……すごい、流石に不思議だ」
川の水は透明度が高く、だからこそ底が見えない深さの川に足が震えそうになる。水面では魚が飛び跳ね、そのまま眺めていると今度はイルカが飛び跳ねる。
「おお……川にイルカがいる」
イルカを追うように今度は大きなクジラが姿を現して、川の水を激しく揺らしながら水飛沫をあげて飛ぶ。その迫力といったら、子供の頃に真近でみた戦闘機などの比ではなかった。
なにせその光景が広がるのは、頭上なのだ。
呆然とその光景を眺めていると、どこからか声が小さく響いた。
『久しぶりだね』
「……? いや、ここには初めてきたはずだが」
『ヒトの記憶は酷く曖昧な上に、忘れるっていう便利な機能が備わっているものね』
首を傾げる。まるで彼を知っているかのような口ぶりに、少しばかりの違和と言いようの無い不安がよぎる。
そんな声が聞こえる間にも、頭上の川からは沢山の魚が飛びはねる。いつの間にかマングローブのような木々さえ現われる始末だ。しかしその光景は思考を放棄してただ眺めていたいと思ってしまう、絶大な魅力をもった幻想的な光景だ。
『ヒトの思考や本質は常に輪廻しているよ。この場所に記憶された時間の中でそれは、どうしようもなく永遠さ。だから安心してよ。なにをそんな怯えた顔をしているんだい?』
刹那、視界が歪む。頭上の川は、パズルのピースが弾けた様にバラバラに砕け散ってしまった。
彼の頭に何か降って来る。川を構成していたピースが何千、何億のカケラとなって降り注いでくる。
たまらず目を閉じ、耳を塞いだ。呼吸も苦しいし、身動きも取れない。もともと足元は暗闇だったので平衡感覚も狂い、何度も嘔吐感が押し寄せてくる。
なんて不思議な場所なのだろう。早く、目を覚まして家内の作った朝食が食べたい……そう瞼の裏の暗闇の中でぼんやり考えた。
『さぁ、目を開けて……?』
先程とは違う声が脳内に響く。優しく甘いその声質に、無条件で警戒心を解いた彼は、ゆっくりと瞼を上げた。
今度は彼の身体が浮いていて、完全な無重力の中を漂っている。そして目の前には滝が流れていて、その滝の水が一体どこから落ちてきているのか、わからないほど高いところから流れている。その流れる水の先には底が見えない。上も下も、ぼんやりした光でよく見えない。
よく見ると彼の辺りには花が咲いていた。色とりどりの、沢山の花。土などは無いのに、そこら中に咲き乱れ、滝と花の合わせ絶景。
静かに芽が出て、あっという間に花を咲かせる。そうして満たされていくこの空間は花に埋めつくされるような狭さではなく、先が見えない程広い。
ゆらゆらとゆれる花に混じって、なんだか浮き漂っている花も沢山ある。水泡も漂いながら、花と一緒にゆらゆらと気持ち良さそうに浮いている。
その横を魚の群れが雄大に泳いでいく。そこで彼はこの場所が何処なのかひとつ推測した。
「今度は海の中……? 凄く綺麗だ」
開いた口が塞がらない。先程の頭上に流れる川も不思議かつ非現実的な幻想的絶景だったけれど、今目の前に広がる景色はもはやこの世の果てと言える程、絶景を極めていた。
そして先程の声が聞こえる。
『貴方が望むものはなんですか?』
「望むもの……変化も小さく、ただ平和に暮らしたいという事かな」
『それは素敵な事です。しかし其れは貴方の望みではありません。十数年の歳月の記憶から導かれた貴方固体の思考です。私が問うのは、貴方の本質が望むもの』
「…………難しすぎて、よくわかりません」
水の流れが少し速くなる。漂っていただけの花や水泡も、風に吹かれたように舞い、更に幻想的な景色へと昇華する。
その景色の中から、ふいに人影が見えた。思えば随分久しぶりに人と会うような感覚がある。まるで何年もこの場所で漂っていたような。
『久しぶりだね』
現われた人影の正体は、ずっと昔に亡くなった母だった。流石夢。流石言い伝え通り、不思議な事ばかりが立て続けに起こる。
「母さん……母さん!」
堪えきれずに涙が出た。彼はぐしゃぐしゃに顔を濡らして泣きじゃくった。亡くなってしまった母に会いたいと何度思い、何度母との記憶に想いを馳せてきたことか。
ふと自分の身体を見ると、少年の様な体躯。まるで時を遡ったかのような現象だ。その癖記憶はしっかりしているものだから、その身体に違和感を感じる。しかし、目の前にいる母親の姿をみるとそんなことは彼にとって、心底どうでもよかった。
「夢とはいえ、またこうして逢えるなんて……」
『ふふ、そうね、あんたはいつまでたっても小さくて可愛いね。私の大事な息子だ』
優しそうに微笑む彼の母親は、穏やかな表情で彼を見つめている。
『私はいつだって貴方の中に、居るよ。記憶の限り人は生き、継ぐ。そうして廻り、巡るの。だからいつも、不安になる事なんてないの』
瞬間彼の母親は大量の水泡に飲み込まれてしまう。彼は必死に手を伸ばすけれど、泡を掴むばかりで母親を此処に留める事が出来ない。
そうして、彼の母親は消えてしまった。
「……なんだか短い再会だったなぁ。しかしこれも、不思議な体験の賜物なんだろうか。少しだったけど、嬉しかったな」
水泡が彼の母親を連れ去り、景色もまた変わっている。自分の身体も実年齢の姿に戻っていた。
今度はなんだか体感温度が少し暖かく、頭上からは雪が降ってきていた。水の中、夏のような温度の中に降る雪は現実味が無い分、より幻想的に映る。まるでファンタジー映画のシーンみたいだなと彼は思った。
夏に降る雪は、水温と気温との差で異常な屈折を生み出した。その影響で彼の漂う海中には陽炎が発生し、また人影が陽炎から浮かび上がる。どこまでも非科学で非現実的な出来事が彼を翻弄する。
しかし現われた人物に、彼は安堵した。
「お前……」
『あなた、こんなところに居たのですか。探しましたよ』
彼の家内だった。優しそうに目尻を下げて、静かに微笑んでいる。
そんな彼女の姿を見た途端、彼は唐突に我が家が恋しくなった。無性にあの座りなれたソファーで珈琲を飲みたい。野良仕事の後に家内が持ってきてくれるお茶も、一気に飲み下してあの景色の中で深呼吸したい。そう願った。
「なぁ、帰ろう。此処はもう、疲れたよ」
『そうですね。良かったです。私はあなたと過ごせて本当に、幸せでした』
「なに馬鹿な事言ってるんだ、こんな時に」
『私は、幸せでした』
家内の瞳が潤み、涙が溢れ出していた。彼はどうして家内が自分を見て泣いているのか。わからなかった。
また、先程彼の母親を連れ去った水泡が現われる。今度は雪と共に上から泡が大量に降ってきた。
『……待ってますね、あなた』
そう一言微笑みながら、家内は水泡に飲み込まれていった。
また最愛の人が目の前から居なくなった彼は、虚無感に苛まれる。そんな時だった。
『この世界は美しいでしょう』
またあの、美しい声だ。
「美しい。しかし残酷だ」
『それは貴方達の世界と、どう違うのでしょう?』
「わからない」
『現実と此処で体験した非現実。それも結局は貴方達の主観でしかない。どこか全く別の生命体からみたら、口で食物を噛み砕き飲み下すそのエネルギーの補給行為。それすらも異質になりえるのですから』
「よく、わからない」
『ならばこの場所が本当に非現実的な場所で、ありえるはずがないなんてどう証明できるでしょう?』
「……」
彼は頭を抱えた。何を言っているかわからなくて、脳が爆発しそうになる。
『本当は何処にだって、居場所はあって。原罪もない世界もあって。此処はそう、貴方にとっては不思議な場所かもしれませんが、貴方の心次第でなにもかもが変わるのですよ。世界の真理は心理。脳が見せている情報から導いている映像なのですから』
気付けばあたりは、何もない暗闇になっていた。
『さあ、貴方が望む世界を強く望みなさい』
仄かに灯りが見える。徐々に視界が鮮明になった先には、いつかみた光景が広がっていた。絶景を極めたあの幻想的な光景。
目の前には滝が流れている。彼の辺りには花が咲いている。色とりどりの、沢山の花だ。そこら中に咲き乱れ、滝と花の合わせ絶景。
あっという間に花を咲かせた花達は、この暗闇だった空間は花に埋めつす。
ゆらゆらとゆれる花に混じって、漂っている花も沢山ある。水泡も漂いながら、花と一緒にゆらゆらと気持ち良さそうに浮いている。
絶景の極みに、再度感嘆の息が漏れた。
「綺麗だな……家内や家族にも、この景色を見せたい。そして起きたらこの体験を聞かせてやりたい」
すると、まるで特異点が現われたように、光景が一点に吸い込まれていく。そこには、この世界に来た時に通った暗闇のホールが現われていた。
『また、逢いましょう』
その綺麗な声を残して、彼の視界は一瞬でブラックアウトしたのだった。
瞼の裏で感じる、朝日の心地良い眩しさ。身体を包む温もりは、そこから出ることを身体が拒む楽園。
彼はすっかり重くなってしまった瞼をそっと持ち上げる。
朝だ。しかし、身体が思うように動かないし頭も少しぼーっとする。そして彼は酷い眠気を感じていた。
霞む視界の先には、何か人影が動いている。手を握られているのか、手の平には優しい温もりが伝わってきた。
どうやら家内がベッドの側にいたらしく、彼に向かって何か喋っているのだけれど何も聞こえない。耳を凝らそうにも、眠気のせいなのか酷いノイズで聞き取れなかった。
兎に角眠い。もう一眠りして、次に起きたときには家内に先程まで体験してた夢の話をしてあげよう。
そう想いながら、彼は重い瞼を再び下ろしたのだった。