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約束

作者: くつした

 武文は目を疑った。

 視界にはひとりの、グレーのコートを着た女が映っている。その向こう側には裸の桜並木と沈みかけている夕陽。

 遊歩道には、歩道を挟むようにして桜の木が両側に整列している。武文は丁度、歩道の、半ば辺りの端にあるベンチに腰掛けていた。両の膝のうえに肘を乗せ、やや猫背気味になっていた。片手にはコーヒーの缶を持っている。ベンチのすぐ横手にある自動販売機で買ったものだ。

 まぶたを伏せる。信じられない。「狂気」という言葉が脳裏を掠めた。幻視? 頭がおかしくなってしまったのか?

 目を開いた。オレンジ色の陽の光を背に浴びた女が、まじまじとこちらを見つめている。目が合う。女が笑った。思わず、視線を逸らす。いったい、どういうことだ。

 顎に手を添えてさすった。ざらざらとした感触が指の皮膚を刺激した。

 強い風が吹いた。目の前の女が寒そうに肩を上げる。

 武文はもう一度目をつむって、これまでの経緯を思い出そうとした。アパートを出て、この一年間で通い慣れた道を歩き、電車に乗って桜並木に辿り着いた。なにも変わったことなどなかった。その後、いったんベンチに腰掛けた。自動販売機で缶コーヒーを買うために立ち上がった。それを飲んだ。不味かったので少しずつ飲んでいた。裸の桜を眺めながら。それから視線を缶に移し、その成分表を見ていた。「エネルギー35Kcal」「ナトリウム51g」――。ふとひとの気配を感じて視線をあげた。するとそこにはいつの間にかに見覚えのある女が立っていた。頭のなかで幾度も思い描いてきた、あの彼女が立っていた。彼女は片手をあげて、

「やあ」

 と言った。

 一年前と同じ動作で、同じ声だった。生前と変わらぬ姿。


          *


 級友が声を張りあげて自分の歌声を披露していた。立ったままうたっている彼は、中腰になって背中を丸め、握りこぶしを作っている。最近の流行曲だったが武文はその曲を好ましく思っていなかった。この部屋でマイクを持つ者は誰しもそういう曲ばかりをうたっていた。狭いこの部屋のなかで、十人近くもいる男子の半分以上が手を振り上げたり跳びはねたりしている。

 場が騒がしくなりはじめてから二時間以上が経過していたが、入り口付近に座っている武文は一度もマイクを握っていない。単調な映像ばかり流し続けるテレビ画面に飽きた彼は、ガラスでできた扉越しに廊下のポスターばかりを眺めていた。

「せっかくさあ」隣に座っていた級友が武文の顔色をうかがいながら言った。「カラオケに来たんだからなんか歌えよ」

 級友の紅潮している顔を見つめた。ワァー、ウォー、と曲の盛り上がりに便乗して、何人かが叫んだ。それが収まるのを待って「いや、俺、あんまり歌とか知らないから」と作り笑いを浮かべて言った。もちろん嘘だった。好ましく思っているのは洋楽ばかりだ。しかし、もしも周囲がそれを承知のうえで、うたうことを勧めたとしても、決して従うことはなかっただろう。

「ああ、そう?」級友はそう言うと、すぐにそっぽを向いてテレビ画面を見つめだした。そういうことが何度かあったが毎回このような調子で終わった。

 高校卒業を残り三ヵ月に迎えた彼らはこの日、早くも思い出作りに励んでいた。クラスのなかでも発言力のある何人かのグループが級友全員をこの会合に強制参加させ、夕方になるまえにファミリーレストランへと食事に出かけた後、この場に遊びに来たのだった。武文はそういうことで声をかけられる度になにかと理由をつけて断ってきたのだが、明日から冬休みだという日の放課後に声をかけられたとなるとバイトも部活もしていないので理由をつけるのが困難だった。それでも懸命に行かないことを主張し続けたのだが、あまりにもしつこいうえに、彼のようにいつもは参加しない者たちが引きずられていく様を目撃してしまったので仕様がなく、首を縦に振った。

 武文はふたたび廊下へと視線を戻した。廊下には数多くの紙が貼り付けてあった。料理や酒類などのメニュー表、バイト募集の広告、それに有名歌手のポスターなどがあった。一通り眺めると、今度は他の部屋へと視線を移した。扉越しに他のふたつの部屋をうかがうことができた。片方は狭い部屋に、もとの数の倍近くにも膨れ上がった人数がいた。誰もが手を叩いたり大口を開けたりしているのでいったい誰がうたっているのかわからない。もう片方へと視線を移す。そこも女子部屋だった。武文のいる部屋と同じように人数が減っている。そこにいる女子は皆、歌詞の映ったテレビ画面を見つめているばかりで立ち上がったり跳びはねたりしている者はひとりもいないようだった。騒がしそうな方の部屋をもう一度見た。どの顔にも笑顔が張り付いていて、狭苦しさなどどうだっていいように――あるいは、そんなことなどちっとも感じていないように見えた。

 ドアから視線を背けた。武文のいる部屋は、あの満員の部屋に比べるとあきらかに沈んでいた。先ほどまであった熱気はどこかに消え去ってしまっていた。彼はテーブルの上に置いたアイスティーの入ったグラスを口につけながら、他の部屋の観察をするためにもう一度廊下へと顔を向けた。アイスティーはひどく甘かった。

 静かな方の女子部屋に目を向けたときに意外なものを見た。自分と同じようにぼんやりと廊下を眺めている者がいるのだ。その人物は同級生のなかでも彼のよく知る人物だった。驚いた。藤本マオ――たしかそんな名前だった。下のほうの名前の漢字は覚えていない。藤本マオは小学生、中学生と、同じ学校を辿ってきている。何度か同じクラスになったこともある。が、親しい会話などはしたことがない。彼女は、いつでもギャーギャーと騒ぎ立てる女子のひとりだった。どちらかといわなくとも、熱気にあふれる部屋にいる姿の方が自然だ。静かな部屋でたたずむ彼女の姿はどうみても不自然だった。いつもの騒がしい彼女の姿はそこにはなく、その顔にはどこか薄暗い影が差しているように見えた。

 たしか藤本マオには特別仲の良い友人がいたような気がしたが、その人物は彼女と同じ部屋にはいなかった。おそらく賑やかな方の部屋にいるのだろう。そちらの名前は覚えていない。

 視線に気付いたのだろうか。藤本マオの顔が動いた。目が合う。相手は強張った表情を崩してニッと笑みをつくった。すぐに視線を逸らした。

 嫌な気分を腹に抱えたまま、甘すぎる液体をちびちびと飲み続けた。部屋のなかでは、先ほどから知らない曲ばかりが流れ続けている。画面に現われる歌詞を眺めてみても、その言葉たちがいったいなにを伝えようとしているのかサッパリわからなかった。リズムや音も好きな種類のものではない。

「お前さ、まだケータイ買ってない?」級友が武文の顔を見ながら言った。

 武文は眉をひそめてうなずいた。「まだ」

「ああ、そう。買ったら教えてくれよ」級友はそう言って部屋から出て行った。押し詰めになった部屋に行くのだろう、そう思って目で追ってみると案の定、級友はその部屋のドアへと手を伸ばした。

 しばらくしてから立ち上がった。ドアを開ける。「どこか行くのか?」そう聞かれたので、便所、と答えた。

 用をすませた後、洗面台で鏡に映る自分の顔を見ながら手を洗った。鏡のなかの顔はひどく暗いものだった。ドア越しに見た、藤本マオの暗い顔を思い出した。

 トイレから出ると、部屋には戻らずに建物の外へ出た。自動ドアでできた出入り口から出るとき、カウンターのなかで雑誌を読んでいた店員になにか言われるかと危惧したが、ちらと視線を受けただけでなにも言われなかった。

 外に出るとすぐ、桜並木が迎えてくれた。とはいったものの、桜の花などこの季節に咲いているはずもなく、迎えてくれたのは丸裸の木々ばかりだった。その木々の向こうで、太陽が沈み始めていた。ひどく寒い。だが、あんな場所に戻りたくはない。ここでしばらく時間を潰す、そう決めていた。

 店から数メートル先にあった自動販売機で缶コーヒーを買った。自動販売機に背中を預け、それをちびちびと飲んでいた。ベンチができればいいのに、そんなことを思う。

 店から誰かが出てきた。あの、影の差した顔の持ち主だった。トイレのなかで思い出したばかりだったせいで、その顔を見たとき、心臓が漫画のようにどきりと鳴ったのを耳にしたような気がした。

「やあ」藤本マオがこちらへと歩きながら片手を上げて言った。

 武文は、どうするか、と迷った。まさか誰かがやってくるとは思ってもみなかったのだ。陽はまだ落ちきっていない。朝まで遊ぶつもりだろう級友たちが、家に帰してくれるような時間とは思えない。

「もしかしてあたし」藤本マオは自動販売機で紅茶を買った。「邪魔?」そう言いながらも、横にしゃがみ込んだ。

「いや、別にいい」そもそも、他に誰にも見つからないような場所はなさそうなのだから、仕様がない。ここで時間を潰すしかない。無言になりはじめた場を取り繕うように缶に口をつけた。一口飲む。あまり美味いとは思えなかった。

「君、コーヒー嫌い?」藤本マオが言った。視線を落とすと、寒そうに肩をあげながらこちらを見上げていた。

「なんで?」と武文は言った。

「その顔見ればわかるって。君、めちゃくちゃ不味そうに飲むんだもん」

 武文はもう一口飲んだ。「嫌いだ。いくら飲んでも美味いと思えない。コイツを好んで飲むひとの気がしれない」

「へえ、そんなに?」

 武文はうなずいた。対応に困っていた。藤本マオについて知っていることといえば名前と、特別に仲の良い友人がひとりいるということだけ。名前については下部の漢字がわからない。趣味も好みもちっともわからない。長年顔だけは合わせてきたものの、まともな会話はこれがはじめてだった。

「じゃあなんで飲むのさ」

「なんとなくそういう気分だったから」

 口から漏れた吐息が、白く立ち上って消えた。

「今はコーヒーな気分?」

「そういうこと」

「じゃあさ」藤本マオは手にした紅茶の缶を軽く持ち上げてみせた。「いつだったら紅茶な気分に?」

 武文はすこしだけ考える素振りを見せた。「なんでもないとき」

「コーヒーを飲むときは、なにかあるときなんだ」彼女は納得したようにうんうんとうなずいた。

「それじゃあ、あたしが君をなんでもないときにしてしまおう」

 そう言うと立ち上がり、武文の持っていたコーヒーを奪い、紅茶を空いた手に押しつけた。

 ながいあいだ、ふたりは黙ったままそれぞれの飲み物の量をすこしずつ減らしていった。先ほどの行動に呆気にとられた武文は、なにも言えないでいた。

「気付いてた?」しばらくしてから藤本マオが言った。「あたしたち小、中と同じ学校だったのに、今、はじめてちゃんとした話をしてる」

「そういえば、そうだった」武文は知っていたくせにそう言った。

「はじめての会話の内容がコーヒーと紅茶」

 すこしだけ、間をあけた。「駄目だった?」

「うーん。微妙なセンね」

「そう」

「抜け出しちゃったんだ?」

 彼女の顔を見た。笑っていた。あの、視線が交わったときと同じ笑みだった。

「なんでそんなに驚くのさ」缶が空になったらしく、彼女は自販機の傍に置かれたゴミ箱にそれを入れた。「だって、面白くなかったんでしょう? だからこんな場所で時間を潰してる」そう言った藤本マオは、腰の後ろで手を組んで、ふらふらと辺りを歩いた。時折、裸の桜木たちを見回しては満足そうな表情になっていた。

 武文はどう答えようか迷っていた。が、正直に答えることにした。「俺は面白いと思わないし、好きじゃない」

「コーヒーより?」

「同じくらい」

「そっかあ」藤本マオはなにかを考え込むような顔になり、黙ってしまった。

 彼女が黙ってしまったので会話は途切れてしまった。今までの会話はすべて彼女からの質問によって成り立っていた。なにか話しかけた方がいいのだろうか、武文はそう思った。しかしなにを口にすればいいのかわからない。結局、黙ったまま受け取った紅茶を飲むしかなかった。

「さて」藤本マオがそう言って、立ち上がった。「そろそろ戻ろうかな」武文のことを見る。

「俺はまだ」武文はそう言った。

「そ」藤本マオはうなずいて店へと足を向けた。が、ぴたりとその足を止めて振り向いた。「そうだ、タケフミクン」振り向くときに、腰の後ろで手を組んでいた。武文のもとにふたたび近寄る。上目遣いに武文を見ていた。

「なに」と彼は言った。短めに整えられている薄茶の髪、やや大きめの瞳。はじめて、藤本マオは自分と比べると二〇センチほども背丈に差があるのではないか、と気付いた。見上げてくる瞳と目が合い、思わず視線を逸らした。「なんだよ」その声はすこしだけ上擦ってしまった。

「卒業後、どうするの?」

「大学に行くつもりだけど」藤本マオへと視線を戻すと、彼女はまだ見上げる格好のままだった。

「へえ、どこの?」

「ここからそんな遠くない」

「本当? じゃあ、実家から通うんだ」

「いや、アパート」

「一人暮らし!」藤本マオは大袈裟に驚いてみせたようだった。

「そう」顔を合わせているのが、だんだんと辛くなってきた。顔を逸らす。胸の奥から肩にかけてじわじわと熱を持っているなにかが移動しているようだった。

「いいなあ、いいなあ」

「そうか?」

「うんうん」藤本マオは首を何度も縦に振った。「そうだ。今度、そのアパート見せてよ」

「は?」驚いた。思わず、ふたたび顔を合わせてしまう。

「見せてよ」子供のようにはしゃいで、言う。

「なんで」

「ほら、どうせアパートの下見とか行くでしょ? そのときにあたしも連れてって」

 なんで連れて行かなきゃいけないんだよ、そう思うが、なぜか嫌だとは言えなかった。どうしてだろう。

「もうまえに行った」

「じゃあ、また行こう」

「なんでだよ」

「決定ね」強引に決められる。「じゃあ、それにあたって連絡をください」

 どんどん話がまとめられていく。なんなんだ、この展開は?

「どうやって」

「ケータイ」藤本マオはいつの間にかに自分の携帯電話を手にしていた。「電話番号とメールアドレス教えて?」

 騒がしい部屋のなかで、級友に携帯電話の所持の有無を訊かれたことを思い出す。あのときは持っていない、と答えた。が、そんなときのことなどどうでも良くなった。「わかった」そう言い、ポケットから携帯電話を取り出した。なるべく冷静に答えたつもりではあったが、その言葉とは裏腹に、心臓の鼓動は早まっていた。

「藤本真央」とフルネームの漢字を知った。いままで登録されてきた、数少ない名前たちはフォルダ事に分類されもせずに電話帳に記載されていた。が、「藤本真央」という名前だけはそれらの名前とは別の場所に、たったひとつの名前として分類された。どうしてそうしたのか、武文自身にもよくわからなかったが、ただそうしたかったからそうしたのだ、そんなことを自分に言い聞かせた。


          *


「やあ」と女は片手をあげて言った。見覚えのある動作。信じられない。女から顔を背けた。その動作を誤魔化すように、缶コーヒーに口をつけた。

 女は隣の自動販売機に向き合っているようだった。ピッ、とボタンを押す音が聞こえ、続いてガタン、と缶の落ちる音が聞こえた。

 この状況がうまく把握できない。コーヒーを飲む。訳のわからない状況下でも、やはり不味いものは不味かった。

「君、コーヒー嫌い?」女がそう言った。聞き覚えのある言葉。

 答えていいものかどうか、わからなかった。だが黙っているのもよくない。「嫌いだ」そう、短く答えた。

「どうして嫌いなのに飲むの?」女はそう言った。どうしてそんなことを言うんだ、と返したくなる。なにも答えないでいると「あたしのと交換する?」そう言われた。顔を向けると、その手には紅茶が握られていた。

 立ちあがっていた。勝手に身体が動いていた。立ってみると、女を見下ろす格好になった。二〇センチほどの差があるだろうか。アーモンド型の大きめな瞳、薄茶の髪。どう見ても、見間違いだとは思えなかった。

「真央なのか?」思わずその言葉を口にしていた。

「名前、ちゃんと知ってたんだ」藤本真央はそう言って、笑った。一年前と同じ声、同じ動作。

「ねえ、タケフミクン」真央が言った。「卒業後、どうするの?」

 耳を疑った。卒業後、どうするの。高校は去年卒業した。大学のことを言っているのだろうか。が、受験には落ちた。だから大学のことではない。ならば、なにを卒業するというのだろうか。……そこまでは考えたものの、今頭を使うべきことはそのことではない、すぐにそう気が付いた。不明瞭な言葉よりも、今のこの状況のほうが問題だ。

 目のまえにいるのは仮に真央だとしよう、武文はそこから考えることにした。仮、じゃあない。どこをどう見たって真央だ。疑いようがない。気が違ってしまったとしか思えない。おれは狂ってしまったのだろうか。そんな馬鹿な。

 武文の思考はそういうことばかりをぐるぐると駆け巡り続けていた。だが答えなど出てこない。

 思考とは別に身体は動いていた。不可思議なこの状況に、無意識的にすくみそうではあるのだが、手が、自然と真央の頬へと伸びていた。その赤みの射した頬に触れると、真央の身体は一瞬だけびくりと震えた。彼女は一歩下がった。

「ごめん」武文は言った。「ゴミがついてるかと思ったんだけど」そう言って誤魔化そうとした。

 体温のある頬に触れた。現実。認めざるを得ない。今、真央が目のまえにいる。……同時に「避けられた」という沈痛な思いがやってきた。手を伸ばしたら、避けられた。

「なんだ」真央は笑った。安堵のため息が漏れそうになる。「ゴミ、取れた?」

「取れた」

 泥のように重たい沈黙がやってきた。言葉を必死に探した。なにかを口にしなければ、真央がどこかへ言ってしまうような気さえした。

「部屋」そう言い出した。「部屋、来る?」

「部屋?」オウム返しに真央が言った。

「ほら、アパートだよ。まえに話したじゃないか」

「うそ、覚えてない。だって、あたしたち今はじめて――。あれえ? アパート? もしかして、ひとり暮らし?」

「そういうこと。来ないか」

 はじめて?

「でも」真央はそう言い、武文から顔を背けた。その視線の先には、一年前と変わらずカラオケ店が立っている。「まあ、いっか」

「じゃあ、行こうか」武文はそう言い、まだ空になっていない缶コーヒーを、自販機の横に備え付けてあるゴミ箱に捨てた。ポケットに手を突っ込んで先に歩き出す。

 深く考える必要なんてない、目のまえに真央がいる、それだけでいいじゃないか。そう思った。

 すぐに後ろから真央もやってきた。

「電車、乗るから」とりあえず、そう言っておいた。


 たぶんおれは、おかしくなってしまったんだろう。武文はそう思った。

 真央は去年死んだんだ。


 武文が先に部屋に入って明かりを点けると、真央はあきらかに呆れた顔をした。一向に部屋のなかに足を踏み入れようとしない。明かりのついた部屋をきょろきょろと、外から見渡そうとしているだけだ。そのあいだ、武文はテーブルの周囲に散らばった、雑誌やコンビニエンスストアのビニル袋などを部屋の隅へと押しやり、座れるスペースをつくっていた。こんな部屋にいれることをひどく恥に思った。いまさらだったが。

「えー、ちょっとぉ。どうしちゃったの、この部屋の有様は」と真央が言った。そう言いながらも、あまりそうは思っていないような表情だった。

「そんなこと言われても」と言った。この一年間で真央の言う「有様」になってしまった。今まで部屋をこんなに散らかしたことなどない。言い訳を口にしようとしたが、言えるはずもなかった。

 しかたない、だとか、まったく、だとかぶつぶつと文句を言いながら真央は部屋に入った。そろりそろりと武文に向かって慎重に足を運んでいるが、なにも踏まない、なにも蹴飛ばさないというのは無理なようだった。

 真央はコートのポケットから紅茶の缶を取り出してテーブルのうえに置いた。「これ、いる?」

「飲まなかったんだ」

「うん、別にのどが渇いてるわけじゃないし」

「どうして買ったんだ?」

「教えない」真央は笑った。

「コーヒーでも淹れようかと思ったんだけど、いらない?」せっかく買ったものがあるのに、つくる必要はないだろう。

「いるっ、いるっ」真央が大きく片手を上げて言った。声も大きかった。

「でも、紅茶があるじゃないか。自分の分だけ淹れるよ」

「あたしのも淹れて」

「だから、紅茶は?」

「紅茶は飲みたくない」

「じゃあ、なんで買った?」

「だから、教えない」

「ああ、そうですか」すこしだけ理不尽に感じたが、なんてことはない。ただコーヒーが飲みたくなっただけなのだろう、そう考えることにした。

 真央に背を向けて、床に散らばったものを蹴散らしながらガスコンロに近づいた。薬缶やかんに水を入れて火をかけた。洗い場にたまった食器をかきわけてふたつのマグカップを取り出し、よく洗った。戸棚からインスタントコーヒーの素が入った瓶を取り出してカップにそれぞれ適量を入れた。

 武文の頭のなかにはもう、どうして死んだはずの真央が現れたのか、そういうことについては考えなかった。むしろ、今真央が傍にいるという喜びのみだけで思考は形成されていた。だから今の彼のなかでの大きな問題は、どんな会話をすればいいだろうか、どうすれば真央が退屈しないだろうか、そういうことばかりだった。

 まだ薬缶は音をたてない。武文は振り返って真央の表情をうかがった。真央は外套を脱いだ姿で、テーブルの傍で座るためのスペースをつくっていた。うえは紺のタートルネック、下は紅色に近い赤のフレアスカートという出で立ちだった。コートはつくられたスペースにたたんで置かれていた。こちらの視線に気付いた真央と目が合うと、彼女はまた、ぎこちなく笑った。それで、武文も笑ってみせたが、うまくいったかどうか自信がなかった。

「そういえば、つくるのは紅茶じゃなくていいの?」真央がぎこちない笑顔を顔に貼り付けたまま、言った。

「あー、紅茶はないんだ」

「そ、そう。紅茶、ないんだ」

 真央が会話を持ちかけてくれた。繋げなければならない。

「砂糖は入れる?」必死になって考えて、口からでてきたのはそんな言葉だった。

「ううん、いらない」

「わかった。じゃあ、いれる」

「いらないって言ったじゃん」

 彼は視線を、薬缶を熱し続けるコンロへと移した。失言だった、散々な冗談を言ってしまった。

 なにを話せばいいのかわからなかった。真央がこの部屋に現われたときとは質が異なるが、ふたたび、どうしようか、という思考がいくつも頭のなかに現われた。またろくでもない冗談でも口にするか? それともテレビでも点けようか、黙っているのはよくないよな。さてどうしようか――。

 シュゥー、シュゥー、と薬缶が音をたてた。自然と顎を摩っていた武文はハッと息をのみ、その瞬間肩が跳ね上がった。

「なにやってるの」真央の笑い声が背中にかかった。

「なんでもない、なんでもない」そう言うと、沸いた湯をマグカップに注いだ。容器が真っ黒い液体で満たされてゆく。今この場に、ブラックのコーヒーはそぐわない気がした。冷蔵庫から牛乳を取り出し、入れる? と真央に聞いた。首を縦に振ってくれた。

 マグカップをテーブルまで運んだ。「はい、おまたせ」

「ねえ」真央が言った。「この部屋の有様はいったいなんなの」

「なんなのって言われてもなあ」髪をガリガリと掻いた。しばらくのあいだ、伸び放題になっていた。

「それ!」真央が武文の頭を指さす。「それもいったいどうしたの。それに髭っ。いくらなんでも汚すぎる。そんな格好になったことなんて、なかったじゃない。今まで見たことないよ」

「今まで?」おどけてみせた。「そりゃ光栄だ。いったいいつからの話だろうなあ」

「ちょっとぉ、本当にひどいんだからね。昨日から変わりすぎだよ」

 昨日? なにかの冗談だろう。とりあえず笑った。

 テーブルを挟んで真央の向かい側に座った。

 ゆっくりと、言葉を啄ばむようにして会話を紡いでいった。あのカラオケの日とメールでのやりとりの雰囲気を、一年前のことであったがすぐに思い出せた。だがすこしずつ感じていた違和感は募っていくばかりだった。

 腹を空かしたので、食事にしようかと誘ったら、真央はいらないと言った。ちっともお腹空いていないから、と。武文も一緒になって我慢しようとしたが、腹の虫が鳴って真央に笑われたのでひとりで食べた。

「そういえば明日から冬休みだっけ」真央が言った。

「たぶん」確かにそういう時期かもしれない。今は学校に通っていないからわからないが、武文はそう答えた。

「たぶん? なにそれ。今までサボってきたのかな」真央が笑いながら言った。どういうわけか冗談と受け取ったらしい。

「そうそう。だって、やってられないから」確かに今、サボっていると聞かれれば「YES」と答えて正解なのかもしれない。浪人生を信じて仕送りをしてくれている親には悪いが、この一年間で勉強などしたためしがない。

「冬休みかあ。そういえばカラオケは?」

「カラオケ?」

「うん」真央はうなずいて、一年前にヒットした曲をちょこっと口ずさみ、これ得意なんだよ、と言った。

「カラオケ?」もう一度言った。

「あー、そっか」なにかを納得したというように、真央はうんうんとうなずいた。「抜け出してきたんだった。あれ? なんで君の格好――」

「なんのこと」

「なんでもない」真央は表情を曇らせて言った。

 本当になんのことかわからなかった。

 いつの間にかに窓から朝陽が差し込んでいた。もう朝日ではないかもしれない。一睡もしていなかったので眠気を感じていたが、眠りたくはなかった。貴重な時間を睡眠などというくだらないことで台無しにしたくなかった。目をつむって横になると、真央がどこかへ行ってしまうような気がしていた。

「でも、おかしいなあ」真央が首をひねった。小・中と、それくらいの頃の思い出話を終えた頃だった。その話の頃はまだ、真央のことを考えたりしなかった時期だったので、こんなことがあったけど、そのときはどこでなにをしていた? そういった話ばかりになっていた。

 なにが、と訊いたが、なんでもない、という返事しかかえってこなかった。

 尿意を感じていたので会話を区切ってトイレへと向かった。用を足してから手をよく洗って鏡を覗きこんだ。そこにはひどい有様の男の顔が映っていた。無造作に伸び放題になった髪や汚らしく生え揃った髭を蓄えていた。頬はこけ、顔中が脂ぎっている。真央の言うとおりだった。鏡のなかの男は眉をひそめ、慌てたように顔を洗いはじめた。両手で水をすくってそれを顔に当て、ごしごしと拭う。肌はガサガサと荒れていた。何度か顔を洗ったあと、髭を剃ることにした。髭を剃りながら、髪も切らなきゃいけないな、そう思った。

 顔の汚れが落ちたように、頭のなかも大分クリアになっていた。ずっと続いていた、まるで寝起きのような気だるい気分が随分消え失せたように感じる。完全に目覚めたとはいえないが目を見張るような爽快感はあった。

 真央がやってきたからか、武文はふと思った。だからこんな気分になったのだろうか。ただ顔を洗って髭を剃っただけでは、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。でももしも真央が戻ってこなかったら俺はどうなっていたのだろう。鏡のなかの自分をもう一度覗きこんだ。清潔とまではいかないが、先ほどに比べれば見違えるような顔がそこにはあった。けれどもその顔はひどく不安そうなものだった。冷たい水で、もう一度顔を洗った。

 顔を洗いながら、頭のなかで昨日の夕方から今日までの出来事を反芻してみた。まず死んだはずの真央が現れた。アパートに連れて帰ってきた。朝まで一緒に話していた。

 どれもこれも不可思議なことばかりだった。もちろん、真央が現れてくれた、ということが最も特異なことだ。が、真央を自分の部屋へと連れてきた、ということも武文にとっては驚異だった。

 ……そこまでは思わず緩んだ表情で考えていたのだが、感じていた違和感が不安となって武文に押し寄せてきた。

 それはいくつもの真央の言葉に表れていた。まさか真央は、自分の死に気付いていないのだろうか。

 もうひとつ、武文の胸を強く押し付ける黒い不安があった。

 ――もしも真央が戻ってこなかったら。

 そんなことは考えたくもなかった。だがさっきまでの自分の顔を思い出すと、ゾッとして寒気を覚えた。

 タオルで顔を拭った。いくつもの不安を消し去ろうとするかのように、白い布地を強く顔にこすりつけた。


         *


From 藤本真央

Subject アパート

アパートの下見っていつ行くの?


From 藤本真央

Subject アパート Re・・Re

じゃあ、明日行こう、明日!


From 藤本真央

Subject アパート Re・・Re・・Re・・Re

約束ね、明日だよ、明日。

場所はカラオケのまえの桜並木に決定ー!


「もしもし? オハヨウ。ごめん、行けなくなっちゃった。熱が出ちゃって。え? それでも行くの? ひどい、置いていく気。 え? うん、うん、あはは、じゃあ、待ってる。うん、ありがと。じゃあねぇ」


「見た見た。写真ありがと。なんか思ってたよりも新しくってビックリ。もっと古いアパート住みなよ。ほら、そうしたほうが『ひとり暮らし!』って感じするじゃん。うん、うん。いや、だからさ、なんていうのかな、あたしが遊びに行っても『わあ、これがひとり暮らしかあ』なんて感激できるじゃない、古いほうが――」


 冬休みになり、武文は携帯電話をはじめて駆使できるようになった。電話もメールも、これほど使い勝手の良いものだとは知らなかった。


「ねえねえ、好きなものってある? え? 特にないの? うそでしょ。ねえ、なにかあるなら言ってみてよ。たとえばあたしは、ぺペロンチーノとか好きなんだけど。いや、やっぱり食べ物はなしね。うん、え? そういうつまらないこと言わなくてもいいからぁ。うん。思い浮かばない? うーん、それは困った。いやいや、こっちの話。……そうそう、受験勉強どう? はかどってる? え? この電話のせいで勉強できない? あっそう、じゃあ、切りますよー」


「ごめんごめん。本当に切るとは思ってなかったでしょ。それで、真面目な話、どうなの? 受かりそう? うん、まあ、それはそうだけど。でも、一昨日の電話で『余裕』とか言ってなかった? え、冗談? うーん、じゃあ、どうしようかなあ。うん。あのね、もうすぐ君の誕生日じゃない? だから――。ん? ふっふ、あたしはなんでも知ってるの。うん、うん、まあ、実はそうなんだけどね。……それで、君の誕生日にどこか行かない? 受験勉強がやっぱり心配なんだけど。え? 余裕? なんだ、やっぱりそんなこと言うの。じゃあ、行こうよ。決定ね。どこがいい? 特にない? そんなことばっかりだねえ。じゃあさ、水族館に行こうよ、水族館。マンボウが見たい。うん、うん――」


 真央は自分のことを好いているのではないか、さすがに武文はそう感づいてはいた。自分はどうだろうか、それは問いただすまでもなく、真央に惹かれているだろうとわかっていた。が、自分の気持ちを相手にハッキリと表せずにいた。


         *


 透明なビニルの両端を引っ張り、結ぶ。三つ目のゴミ袋がいっぱいになった。武文は伸びをして部屋を見渡した。ドアの傍に置いた二つのゴミ袋と流し台、それらへと視線を向けなければ綺麗に片付いている。

「なんとか片付いてきたじゃない」真央が言った。振り向くと、テーブルを拭いているところだった。

「助かった、ありがとう」武文は作業の手を休め、欠伸を噛み殺しながらコーヒーをつくった。テーブルのうえに置いた。向かい合って座った。

 武文がトイレから出ると、真央が部屋の片付けをはじめていた。部屋の主がそれを手伝わないわけにはいかない。ふたりで一緒に部屋を片付けることになったのだった。

「眠い?」真央が言った。

「そう見える?」先ほど朝を迎えたばかりだと思っていたのに、昼をとうに過ぎていた。

「かなり」

「そっか、そう見えるか」

「違った?」

「ああ、違うね」

 眠ってしまえば、真央との時間がなくなってしまう。だから眠りたくなかった。

「すっごく眠たそうだよ」

「演技してるんだ」

「うそ」真央は笑った。

「本当」そう言いながら、つい大きな欠伸が出てしまった。顔を見合わせ、ふたりして笑った。ふわふわと浮いているような浮遊感を感じた。なんでもない会話が幸せだった。

「寝ちゃっていいよ」

「いや、でも」

「大丈夫、ちゃんといるから」真央は、ふふ、と穏やかに笑った。「部屋を片付けたしサッパリしたし、お祝いにカップを洗ってあげようかな」そういった彼女は立ち上り、袖をまくった。

「なんだ、それだけかよ」口をやや尖らせて、顔を背け、いじけるように言った。言ってからすぐ、なにをやっているんだ俺は、と思う。

 ――ちゃんといるから。真央は確かにそう言った。

「ありがたく思いなさい」

「でもやっぱり」そう言ったが、力強い睡魔がぐいぐいと自分たちの世界へと引きずり込もうとしていた。なにより、ちゃんといるから、その一言が安堵感を生み、それが全身を包み込んでいた。必死になって口を動かして、流し台に立つ真央へと言葉を発した。そうやって睡魔に対抗したがそれは無駄な抵抗に終わりつつあった。

 やはり時間がもったいなかった。もったいなくて、相手がなにを言っているのかよくわからなくなってもとにかく笑っていた。腹も減っているような気がして、なにか作ろうか、と言った。一年前の電話を思い出した。なにがいい、ぺペロンチーノでもつくろうか、そう続けるとカップを洗うために背を向けていた真央が振り向いて、よくあたしの好きなもの知ってるね、とうれしそうに言った。だってまえに聞いたじゃないか、そう言うと、うそ、そんな覚えない、と真央が笑った。聞き間違いかと思った。だから聞き返そうかと口を開けたが、言葉が出てこない。口が動かない。口が働かなくなった代わりに、瞼がおりてきた。


 倒れていた。目のまえに木製の棒が四本ある。テーブルの脚だ。その向こう側にスカートと折れた足があった。真央の足。座っているのだろう。赤いスカートの生地と足のあいだに見える、薄い闇が目に付いた。それが生々しくて慌てて起き上がる。眠っていたようだった。毛布がかけられていたようだった。起き上がった拍子にそれが落ちた。

 真央はテーブルのまえに座ってコーヒーを飲んでいた。

 ちゃんといるから。

 嘘じゃなかった。いてくれた。

 部屋を見渡すと、眠ってしまうまえよりもずっと綺麗に片付いていた。ゴミ袋がもうひとつ増えた状態で、部屋の隅にまとめられている。

「片付けてくれたんだ」と言った。

「うん、暇だったから」

「俺は寝ちゃったけど、眠くないの?」

「ぜんぜん平気。どうしたんだろ。コーヒーの飲みすぎかな」

 窓の外が暗くなっていることに気付いて、時計を確認して、真央に見つからぬよう外に出てから慌ててバイト先に電話をした。体調不良なので休ませてくれ、そういうことを相手に伝えてほとんど一方的に電話を切った。通話中、一度か二度、わざと咳き込んだ。もちろん仮病だった。

「なにか食べようか」戻ってきた武文は袖をまくって鍋に火をかけた。

「あたしはいいや」

 振り向いた。「いらない?」

「うん」

「さっきも食べなかったじゃないか」

「なんかね、ぜんぜんお腹すいてないんだ。どうしたんだろう」

「ダイエット中?」笑って言う。

「そんな必要はまだないもんね」真央が胸を張った。

 流し台へと向き直った。「そうか、まだ、なのか。まだ、ねえ」

「そんな言い方ないでしょ」

 振り返ると、真央が笑っていた。一緒に笑う。

 どちらもたいしたことは言っていないはずだったが、どうしたわけか笑いの発作はなかなか止まらなかった。片方がなにか口にして、相手がそれに面白くもなさそうな冗談で応える。だがその面白くもなさそうな冗談は、このときばかりは極めつけのジョークのように感じられた。

 カップはきちんと洗われていた。鍋に塩を少量いれ、半分に折った麺を入れた。柔らかくなるのを待ってから、ざるに麺を入れて水をきった。熱したフライパンのうえでバターを転がし、茹でた麺を、にんにくととうがらしと共に炒めた。これだけでは味が足りない気がして、塩コショウをふってみた。彼女は動きまわる武文の後を、ひょこひょことついてまわり、ぎこちない彼の手さばきを楽し気に眺めていた。仕上がったパスタを皿のうえに盛り付け、テーブルに運んだ。ちゃんとぺペロンチーノになっているかどうか不安だったが、真央はそのことについてなにも触れてこない。あれで作り方は合っていたのだろうか、そう思っていたときだった。

「そういえば」真央が武文の食べるパスタを指差しながら言った。「それってもしかして、ぺペロンチーノをつくろうとしたの?」

「そうだけど」もしかしたら作り方を間違えたのかもしれない。材料を間違えたとか。店で食べたことはあるが、作り方を知らなかった。「好きだろう? いる?」

「うん、じゃあ、ちょこっとだけ」真央は武文の手からフォークを受け取って麺を絡ませた。「そういえば、なんであたしがぺペロンチーノを好きなこと知ってたの?」

「まえに聞いたんだって。言わなかったっけ?」

「寝るまえに言ってたと思う。冗談だと思ってた」

「本当」

「そんなこといつ話したっけ」

 ふと、再会した後すぐに感じた違和感を思い出した。知っているはずのことをもう一度聞き返してくる真央、それに、一年前のカラオケの話。違和感はそのときだけではない。会話の食い違いもいくつかあった。

「本当は聞かなかったのかも。実は直感だったりしてな。『きっとぺペロンチーノが好きに違いない!』」話題を変えるために冗談を言った。

「なにそれ」真央が微笑んだ。

「さあ」武文も笑った。

 笑みを絶やさずにいれば、不安など消えてしまうのではないか、本気でそう思った。

「なんでお腹が空かないんだろう」真央が、ぽつりと呟いた。

 やはり真央は、自分の死を知らないのかもしれない。死んだ者は腹を空かせない、そんな道理はないが。

 だから、夕食を摂ったあとに部屋を出ようと立ち上がった真央を慌てて引き止めた。

「帰らなくてもいいんじゃないか」

「なに言ってんの」真央が笑った。

「しばらくここにいろよ」言ってから、恥ずかしくなった。こんなことばかりだ。

「そうもいかないでしょ。親が心配するかもしれないし」

「外暗いぞ。それに、寒い」

「子供じゃないんだから」コートを羽織りだしている。

「まだまだ子供だ」

「もうすぐ高校卒業。子供も卒業」真央は笑いながらそう言ったが、冗談ではないようだった。

 真央の言葉にうろたえたが、今は外に出ようとするのを止めることの方が先決だった。「いいじゃん子供で」座ったまま、すがるように見上げた。真央を家に帰したら面倒なことになる、そんな思いからいつのまにかに、ただ純粋に離れたくないという思いに変わっていた。

「でも服とか替えがないし」なかなかドアに近づかない。止められていることに、まんざらでもない様子だった。

「大きいかもしれないけど、俺の服を着ればいい。なんだったら、仕方がない、買ってやるよ」

「うーん、どうしようかな」苦笑しているが、どちらかと言うと、もう残ることを決めているようだった。武文は立ち上がり、真央の腕を掴んだ。促すように先に座った。

 座ってから、お互いの気持ちを確かめたことはないというのにいったいなんてことを言っているんだ、そう思った。真央を部屋に泊める。恥ずかしくなって頬が熱を帯び始めたのがわかった。そうだ、告白できなかったのだ。そのまえに真央は死んでしまったのだ。なら、今告白するべきなのか?


 ゆっくりと夢から現実へと覚醒していた。また眠っていた。寒い、もう朝なのか、うまく働かない頭でそんなことをぼんやり考えながら起き上がった。

 真央はテーブルの傍に座って携帯電話を片手に首を傾げていた。武文のパーカーを着ている。さすがに大きすぎるようで、袖口からちょこんと五本の指がのぞいている。

 昨晩は結局告白なんてことはできなかった。真央よりも先に眠ってしまった。そもそも、そういうことをしていい状況下にいるのだろうか。それさえもわからない。

「どうした?」とりあえずそう訊いた。口にしてから、不味い状況下にいることに気が付いた。誰かと連絡をとってしまったのだろうか。

「いつのまにかに解約されちゃってる」

「そう」ほっと安堵のため息が漏れそうになったが、なんでもない風を装った。「なんでだろうな」

「うーん、困った」

「困ることはないって。ほら、俺はここにいる。いつでも話せる」

「キミは携帯を?」

「持ってない」まだ買っていない、ということになっているはずだった。

「そっか。近くに公衆電話ある?」

「ないなあ。最近は携帯電話が普及しているから」

「駅の近くまで行けばあるかな」

「いいんじゃないか、連絡しなくたって」

「そうはいかないよ」真央は携帯電話をテーブルのうえに置いた。

「とりあえず今はまだ、寒いから」気が変わるまで部屋から出してはいけない、武文はそう思った。

 夕方になった。武文はまた、仮病を使ってバイトを休もうとしたが、二日間連続で休むのはさすがに憚られた。真央は、ちゃんといるから、と言ってくれたのだ。そう自分に言い聞かせた。

 バイトに行く旨を真央に伝えたあと「いいか、絶対に部屋にいろよ」と言った。ただ釘を刺すだけのつもりだった。だが、拭いきれない不安を抱えたままだったせいで、強い口調になってしまった。

「どうしたの」不安そうに真央が言った。

「ごめん――。いや、うん、暇だったら寝ててもいいし」

「寝ないよ。眠くないし」

「そっか」真央が笑ってくれたので、安心する。「……そういえば、ぜんぜん寝てないように思えるのは気のせいか?」

「寝たって。キミが眠っているあいだに」

「本当か? だって、俺が先に眠ったのに、真央のほうが早く起きてた」

「君が寝すぎなんだよ」

 メールで真央が自分のことを、朝に弱い、と称していたことがあったように思っていた。そうだとすれば朝早く起きれるものだろうか。……考えすぎだろうか。今目のまえにいる真央はそのメールを知らない――あるいは、覚えていない。そういえば、今日の昼食も摂らなかった。真央と再開してから三日目になるが、そのあいだずっと食事を摂っていない。休息も栄養も、必要としていないのかもしれない。

 そのことに真央は、気付いてしまっているのだろうか。

「ほら、バイト遅れる」真央がそう言ったので、部屋を出た。

 バイト先では不手際な仕事ばかりをしてしまった。気が気でなかった。先日仮病で休んだことを理由にし、わざと体調を心配されるようなことを言って、結局、早退の許可をもらった。

 アパートに戻ると、真央がいなかった。


 武文は三日前と同じ道を進んだ。一年間通い続けてきた道。真央と再会してからのこの三日間は通らなかった道。覚えている値段の切符を買い、電車が目的の駅に着くまでシートにもたれて目をつむっていた。焦っていた。それもひどく。落ち着かせるために目をつむった。しかしそんなことで静まるはずがない。

 部屋のなかに真央はいなかった。床にあったものは敷きっぱなしの布団、真央の服、テーブル。それに、テーブルのうえの雑誌。なぜ雑誌がテーブルのうえにあったのだろう――真央が暇を持て余して雑誌を読んだのだ。そうに決まっている。雑誌の年月日を見たのかもしれない。真央は月日がいつのまにかに過ぎ去っていることを知る。どうしてだろうと真央は思う。真央は雑誌をもう一度見る。何回見ても年月日がおかしい。そんなまさか、と不安になるに違いない。部屋を飛び出すだろう。それから真央はどこに向かう? 自分の住んでいたはずの町だ。そうに違いない。

 頭を抱えたくなった。ここが電車のなかでなければ実際にそうしていたかもしれない。絶対にそうしていた。そうすることでどうにもならないとわかっているけれども。

 どうして雑誌のことに気が付かなかったのだろうか。なぜすぐに捨ててしまわなかったのだろうか。

 もしかしたら真央は自分の家へ向かったのかもしれない。武文はそう考えた。それからどうなる? わからない。とにかく大騒ぎになる。真央とはもう会えなくなってしまう気がする。嫌だ。……自分のことばかり考えている。頭を冷やせ。

 真央は自分が死んだことを思い出した? そう、それが問題だ。もしも家に戻ったとしても、そこにいるのは家族だ。大騒ぎをしたとしても、きっと外には漏らさないだろう。そして本人を過去と同様に扱うに違いない。なるべく真実を本人に悟られないように。真央とは会えなくなるかもしれないが、まだマシだ。死んだことに気付く、これが一番辛い。真央はどう思うだろう。わからない。わからないが、かなしむに決まっている。当たり前だ。気が付くと死んでいた、そんなことになれば誰だって落ち込む。真央のかなしむ姿なんて見たくない。だから真実を隠そうとした。

 ドアが開いた。駆けるように車外に出て、改札を抜けた。真央の家の住所は聞いたことがないのでわからない。とにかくまず学校を目指そう、そう思って走った。そこに向かう可能性がないとは限らない。他に、どこも思いつかない。商店街を走る。運動不足。呼吸がすぐに荒くなる。左右にある店がところどころ閉まり始めている。時間が気になる。携帯電話を取り出すのがもどかしい。空を仰ごうと顔を上げるが、かまぼこのような形の屋根のせいでよくわからない。アーケードなんて作るんじゃない。邪魔なだけだ。勝手な意見。息が切れる。苦しい。アーケードの出口から暗闇が見えた。夜。もう、夜だ。

 大通りのまえで信号待ちになった。車が走っている。向こうに桜並木がある。そこを過ぎれば、すぐに高校が見えてくる。腰を曲げて両膝に手を置く。肩で息をする。高校に着いたところでどうすればいい? 校内を捜すか? 校門にいるとは思えない。なら校舎に? 自分だったらどこに向かう。……そもそも高校には向かわない。じゃあいったいどこだ――。

 武文の思考がぴたりと止まった。車が音をたてて目のまえを過ぎていくが、彼には見えていなかった。視線は桜並木へと注がれていた。その先には真央がいた。武文の服を着て、うつむいたまま立ち尽くしている。暗くてあまりよくは見えないが、武文の目には真央の姿としか映らなかった。左右へと顔を順に向けた。だが車は止まらない。信号は青に変わらない。

「真央ぉっ!」武文は叫んだ。周囲の人々が奇異の視線を送る。だが気にも止めない。「真央ぉっ!」もう一度叫ぶ。真央は気付かない。微動だもしない。アスファルトを見たまま顔を動さない。

 信号が青に変わった。信号待ちしていた者たちが一斉に動き出す。走り出した。真央のもとへと駆ける。二〇メートル? もうすこし先? 遠い。一番に大通りを越えた。風が吹き、桜の枝がわさわさと揺れているように見える。真央、真央。吸い込む空気が冷たい。耳がきんと冷えて痛い。姿がハッキリと見えてきた。あと少しだ。

 武文は手を伸ばせば真央に触れられそうなほどに近づいた。声をかけようと、手を伸ばそうとした。だがすぐにはできなかった。真央は大通りから見たときと変わらない姿で立ち尽くしていた。

 ああ。

 武文は真央のたたずまいでそう思った。ああ、とだけ。悟ったのだ。真央が事実を知ってしまったことを。今この時間にこんな場所にいるということ、そういうことも、武文が真央の本意を知り得る要因のひとつとして挙げられただろう。家に向かい、学校に向かい、行き場をなくしたのだろう。だがなにより武文は、その姿で悟った。

 いくつかの街灯が並木道を照らしている。木々がぼんやりと暗闇に浮かんでいる。数メートル先で自動販売機が、ジィー、と音をたてていた。

 真央、と武文は口を開いたが、言葉が出てこなかった。口が半分開いたまま、情けない格好で真央の傍らに立っていることしかできなかった。しかしすぐに真央が顔を上げた。泣いているのかと思っていたが、顔は赤くなかった。赤みが消えたあとなのかもしれない。そう思えば、本当にそんな顔に見える。

 指で真央の目元に触れようと手を伸ばしたが、避けられた。

「タケフミクン」思っていたよりも元気な声で、真央は言った。余計に心配になった。いったい、どれくらいのあいだこの場にいたのだろう。

「やあ」と武文は言って片手をあげた。避けられたことはすぐに忘れる、そう勤めることにした。

「駄目、それはあたしがするの」

「そっか」

「うん、そう」

「それじゃあ」背中を見せて数歩あるいた。自動販売機に近寄る。自販機は音をたてながら明かりを点滅させていた。それでも缶コーヒーは、がこん、と音をたててきちんと出てきた。それを持って、踵を返してふたたび真央に近づく。ちょっとだけ驚いたような顔をする。おや、こんな場所で会うとは、そういう感情を込めた。

 真央は笑った。努力してつくった表情だとわかった。「やあ」片手をあげてくれた。

 武文もコーヒーを持つ片手をあげた。あげた方の缶を真央に渡した。「さ」その手で、真央の空いた手を握った。「帰ろうか」

「うん」真央は言った。

 ふたりはゆっくりと歩き出した。自動販売機の方から音が聞こえなくなった。それに気が付いた武文が振り返ると、灯りは消えていた。並木道の街灯の光と、それに照らされた桜木の枝だけがぼんやりと闇夜に浮かび上がっていた。


 真央は自分のことについてなにも話さなかった。自ら武文の部屋から出ようとするのはなくなったことから、事実を知ったというのは明らかだった。でも、いったいどこでそれを知ったのだろうか。家まで行った? ……考えるのは止そう。

 それでも真央は決して涙を見せない。いつも通りの笑顔を見せて武文の部屋にいた。

 武文は真央の存在についてよく考えることにした。真央は幻覚ではない、はっきりとそうは言えないが確信だけはあった。ならばなぜ真央は現われたのか。なにか執着心でもあって出てきたのか? でも、それにしてもなぜ最近になってから現れたのだろうか。

 そういうことを考えるのは、真央の存在を邪険にしているようで嫌だった。だが、弱音も吐かずにいつまでも笑みを絶やさない彼女を見ているのは、辛かった。

 なぜ俺じゃないんだ、そう思ったこともある。なんで真央が苦しまなきゃいけないんだ、真央が現われて救われているのは俺だろう、だったら苦しむべきは俺だろうが。しかし死んでしまったのは確かに真央なのだから、それを変わることはできるはずもなかった。


          *


 翌日が武文の誕生日だった。一緒に水族館へ向かう日。


From 藤本真央

Subject これってもしかしてデート?

誕生日明日だね。

いまさら、場所と時間の確認するのを忘れてたことに気付いたよ。いつがいい?


From 藤本真央

Subject これってもしかしてデート? Re・・Re

じゃあ、明日の十時に桜並木に集合ー。

……ちゃんと起きれるかなあ。


From 藤本真央

Subject これってもしかしてデート? Re・・Re・・Re・・Re

その通り。しょっちゅう寝坊しちゃうんだ、って自慢できることじゃないね。

とにかく、水族館楽しみだー。


「もしもし? うん、ごめん、遅くに電話なんかしちゃって。……あのさ、明日の水族館、コースを決めてそれに従って見学しない? 普通に用意された順路通りじゃつまらないでしょ。それでさ、あたし実はもう考えたんだけど、どうかな――」


 明日、水族館のなかで真央に想いを告白する、武文はそう決めた。


          *


 真央がいったいどうして現れてしまったのかわからない。何度か考えてみたが、結局わからなかった。本人に聞くこともできない。でもとにかく、今は目のまえに、いる。

 駅前のデパートに出かけた。年越しセールと看板が出ていた。

「ねえ」デパートのまえで真央が言った。顔のまえに白い吐息がすうと浮かび上がり、すぐに消えた。「お小遣いちょうだい」

「はあ?」

「あたしも買いたいものあるから。駄目?」

「いや、駄目じゃないけど」なにかを真央にねだられたことなどなかった。すこしだけ嬉しくなって、いくばくかの金額を財布から取り出して渡した。ありがと、と言われた。なんだか、本当の恋人同士のように感じた。いや、恋人同士なのか。でもまだ、告白や付き合うための口約束をしていない。……一緒に住んでいる時点でそれはもう、恋人と呼んでいいのだろうか。わからない。それになにより、真央の本当の気持ちはまだわからない。もしかするとこちらの早合点かもしれないし――。

 そんなことをあれこれと考えているうちに、真央は入り口を通ってデパートのなかへと入ってしまった。

 真っ白い壁に、「大晦日」だとか「よいお年を」だとか、そういった張り紙がはりつけられ、また、あちらこちらに装飾がほどこされている。建物内に流れる小音量だがにぎやかな曲を、人々の喧騒がかき消していた。デパートはひどく込んでいた。真央の姿を探したが、見つかりそうにもない。

 武文は正月用の餅に、お汁粉の素を買い物籠に入れていった。おせち料理など作れるはずがないしどこかの店に頼めるはずもないので、せめて正月気分を楽しむためにそれらを買った。数日前の武文ならば、そんなことを考えもしなかっただろう。

 食料品をいくつかと、それにインスタントコーヒーも買い物籠に入れた。レジを通って外に出ると真央がビニルの袋を手にして待っていた。

「なにを買ったんだ?」武文は言った。ビニル袋が薄く透けて、冊子のようなものと小物入れのようなもの、それに細長い木の棒が見えた。底の方にもまだ、なにかあるようだ。

「えっとね、スケッチブックと絵の具セット」

「絵の具?」

「うん。だって、君が寝ちゃうと暇になるんだもん。だから、暇潰しに」

「これはなにに使うんだ?」木の棒を指差した。表面が滑らかな丸太の、ミニサイズ版というような代物だった。鉛筆よりはやや太い。

「君が言うことを聞かなかったときに、あたしがこれで叩くの」

「簡単に折れちゃいそうだけど」

 ふたりでそんな冗談を言い合いながら帰路についた。

 空は雲が覆っていて薄暗く、いまにも雪が降ってきそうな気配があった。


「さん」テレビの画面のなかで、今年有名になった芸人が大声を張り上げていた。「にぃ」部屋のなかでそれを見ている真央も、一緒に声を上げている。「いち」

 バーン、と豪快な音がテレビから聞こえてきた。

「あけましておめでとうございます」真央が正座をして武文に向き直り、お辞儀をしながら言った。その折り目正しい動作を、慌てて真似ることによって応えた。

 礼をした体勢から顔を上げると、真央が笑っていた。「なんか、こういうことは正しくやりたくってさ」はにかんだように笑っている。「本当は着物でも着たいんだけど、そんなお金ないしねえ」

「当たり前」武文はそう答え、すぐに胡座あぐらをかいた。テレビへと視線を向けると、アーティストが歌をうたっていた。あまり面白くはない。

「ねね、除夜の鐘聞こえるかな」

「試してみるか」テレビを消す。すぐに静寂がやってきた。

 ふたりして息を潜め、耳を澄ませた。武文は胡坐をかいて座ったまま、固まったように身じろぎひとつ我慢した。真央はドアにぴたりと耳を付けている。なかなかその音は聞こえてこなかった。たまに遠くから犬の遠吠えが聞こえ、冬の闇夜に消えていった。他にはなにも聞こえてこない。……とはいうものの、それは心音のせいだった。真央とふたりで息を潜めている。そのシチュエーションに気付いただけで、鼓動が早くなっていた。

「聞こえる」真央が言った。

「うそ。聞こえないんだけど」

「ほら、こっち来てごらんよ」真央が身体を動かさずに手招きした。「耳つけてみて」ドアを指差す。

 耳をドアにぴたりと付けた。あまりに冷たくて驚き、離れそうになったが、そうはできなかった。なにも考えずに真央の指示通りに動いたのだが、すぐ目のまえに真央の顔があった。一瞬で硬直し、ドアから離れることなどできなくなった。鼻の先が互いにぶつかりそうなほどに近い。真央は、ほら、どう? とちいさく呟いた。目を閉じて除夜の鐘に聞き入っている。どうやら気付いていないようだった。

 自分以外の呼吸の音が聞こえる。視線が思わず真央の鼻のすぐ下にいってしまう。薄紅色のぷっくりと可愛らしく膨らんだ唇があった。

 視線を逸らすことができなかった。釘付けになっていた。

 自分のそれをそこに押し付けてしまえ、そんな声が聞こえた。いや、なにか都合良過ぎないか、別の声も聞こえた。無論、どちらも武文の内なる声だった。

「どう、聞こえた?」悩んでいる間に、真央が目を開けた。驚き、顔を動かした。鼻の先がぶつかった。「つぅ」と真央は鼻の先を抑えて呻いた。

 途方もない遺憾と安堵が入り混じった、複雑な気持ちになった。徒労感までやってきた。汗が出ているのではないか、そんなことを思うほど顔が火照っていた。耳を触ると、指がひどく冷たく感じられた。

 もちろん鼻は痛いし、なによりぶつかったことに驚いたが、そんな余念などは頭の片隅からすぐに消えた。ただ純粋に、なにしているんだよ俺は、そんな強い後悔があとからやってきて、まぶたを下ろした。ため息さえ漏れそうになる。

 漏れなかった。呼吸が止まった。

 なにが起きたのか上手く理解できなかった。パニック状態に陥ってしまうのではないか、本気でそう思った。心臓がばくばくと踊っている。

 唇がふさがれていた。すぐには目をあけることができなかった。

 告白だとか、口約束だとか、そういった余念はどこかへと消し飛んでいった。


          *


 明日の誕生日、水族館で真央に想いを告白する、そう武文は決めていた。だがいったいどういう状況で、どんな言葉を使えばいいのか上手く考えられなかった。そもそも、自分が告白する姿を思い描くことさえもできない。

 真央は明日遊ぶことをとても楽しみにしているようだった。向かう水族館になにがいるのか調べ、どういう順番で、なにを見るのか、そういったスケジュールを組んでいた。電話で何度も説明を受けたので、もう覚えてしまっている。

 まずはじめのうちだけは水族館側で用意している順路通りに周る。コースの半ば辺りでイルカを眺めることになる。そのあとに昼食。休憩をすませたら次はコースから離れてイルカのショーへと向かう。ショーが終わったらオットセイだ。真央は、水族館のなかでもオットセイを見ることが二番目の楽しみだと言っていた。それで最後は、一番楽しみにしているマンボウだ。水族館側の用意した順路としては、マンボウは四分の三に差し掛かった辺りの水槽にいる。楽しみは最後にとっておきたいと主張する真央の意見をきき、武文たちはマンボウを最後に回した。途中でコースを外れるのはそのためだ。

 マンボウのまえだ、武文はそう思った。どんな言葉を自分が口にするかはわからないが、告白するならばマンボウのまえだ。


          *


 正月は餅を焼いて、つくったお汁粉にいれて食べた。買いすぎた餅を眺めて、もう飽きたね、そんなことを言い合った。

「そういえば」武文は言った。元旦を迎えてからもうすぐ一瞬間が経つというころだった。「絵は順調?」

 眠らない――あるいは眠ることを必要としていない――真央が、武文の眠っているあいだになにやら作業をしていることは知っていた。どうやらバイトのあいだにもなにか作業をしているらしい。武文が目覚めたり、帰宅すると、真央が慌ててスケッチブックを隠すのだ。見せて、と手を伸ばすと嫌がる。絵とはひとに見せるために描くものではないだろうか、そう思った。

「うん、順調、順調」答え方に覇気がない。

「本当に? なにを描いてる?」

「それは秘密っ」真央は、いぃーっ、と歯をむき出した。

 そうして日々は過ぎていった。真央の服が何着か増え、合鍵をつくった。


 朝、時計の目覚ましが鳴った。セットした覚えはない。目覚ましを止めて起き上がると、テーブルのうえに、誕生日おめでとう! という置手紙が置いてあった。それに、その置手紙には何時頃にどこで会おう、そういうことも書かれていた。どうしてこんな回りくどい待ち合わせの指定をするのだろうか。

「誕生日」思わずつぶやいた。すっかり忘れていた。

 部屋を見上げると、天井に、折り紙でつくられたような輪がいくつも連なってぶらさがっていた。

 真央を探したが部屋にはいなかった。合鍵がなくなっている。慌てて外に出た。が、真央はちゃんと置手紙を残していったのだ、そう思い直して、落ち着かせるために深呼吸をした。

 慌てて出たことが、誰も見ていやしないのに恥ずかしくなった。深呼吸をする。

 落ち着きを取り戻し、ふとポストへと目を向けると、封筒の先がはみ出していた。

 ポストから取り出した、封筒の差出人の名前には見覚えがあった。だが、いったいそれが誰なのかはわからなかった。封筒のなかをまさぐると、一枚の手紙と底の方に小物が入っていた。手紙を取り出す。


突然の手紙、ごめんなさい。

私は武文君と同じクラスだったのですが、覚えていますか。

この手紙を出すことに、とても迷いました。出した方がいいのか出さない方がいいのか、自分でもよくわからなかったし、また、上手く考えることができませんでした。この手紙を貴方に送るのは迷惑かもしれない、そんなことを考えてしまって迷っていました。でもきっと真央は喜ぶ。この手紙を出せば真央は喜ぶ。結局、貴方のことよりも真央を優先してしまいました。彼女の命日が迫ってきているということもやはり、私を急かした原因だと思わざるを得ません。そのことをまず深くお詫びします。ごめんなさい。


 手紙は長いものだった。手紙を出したことについての謝罪の内容からはじまり、そのあと、真央についての過去が書かれていた。


真央は貴方のことをとても好いていたようです。それも、小学生の頃から。私は真央と高校で親しくなったので、それまでのことはよくわかりませんが、真央の話すところによると、そうだったらしいのです。小学生の頃はただ気になって目で追いかけていただけ、中学生になると自分でもわからないけれど武文君のことをよく考えてしまう、高校生になってようやく自分の気持ちがわかった――真央はそんな風に私に言って聞かせました。もうそれは、楽しそうに。まるで惚気でした。付き合っているわけでもないし、仲が良いわけでもないのにそんな風に言うので、とても可笑しくて、彼女を揶揄していたのを鮮明に覚えています。

第三者の私には、貴方の気持ちはわかりません。もしも真央のこの純粋な気持ちを邪険に思ってしまっていたのなら、この手紙をすぐにでも破り捨ててしまってもかまいません。ただ、ほんの少しでもあの子のことを気にかける時間があったのならば、もうしばらくこの手紙に付き合ってください。


 それからその手紙は、武文のちょっとした行動に気をとられたということを真央の口から聞いた話や、冬休み直前のあの日――武文がはじめて真央と会話をした――の話(ずっと会話をするチャンスを待っていたらしい)、それに電話やメールをやりとりするようになったという話、真央が武文の気持ちを心底知りたがっていたという話――そういう類の話が、とうとうとまくしたてるように書かれていた。

 この手紙をすぐにでも破り捨ててしまってもかまいません――そんなことが書かれてあったが、武文は全文に目を通した。破り捨てるどころか、何度も何度も読み返した。

 最後に手紙にはこう書かれていた。


真央が貴方のためにつくった手作りのプレゼントを同封しておきました。これは真央のご家族から私がいただいたものですが、私が持っていてもただの形見となるだけで、真央はきっと報われません。だから同封することにしました。もとより、このプレゼントを渡したいがためにこんな長い文章を添えてしまったのです。だから、どうか、このプレゼントを受け取ってください。真央はこのプレゼントを渡して、そして貴方に自分の想いを告げる、そう言っていました。

では、これで最後とします。今度真央のお墓参りに行ってあげてください。きっと、喜びます。お元気で。


 武文は封筒を逆さにして手のひらのうえに小物を転がしてみた。ミニチュアサイズのふたつの缶が、手を繋いでいた。片方は薄紅色で、もう片方は黒。おそらく紅茶とコーヒーの缶を模ったであろうそれらは、手と足が可愛らしく付いていて、手を繋ぎあっている。

 手のひらを近づけ、その人形をよく観察してみた。ふたつの缶にはそれぞれ、なにかのキャラクターのように目と口がある。黒い缶のほうはにこにこと、目も口も弧に描かれて笑顔の表情になっているのだが、薄紅色の缶は目も口も横真一文字になってぶすっとした表情だった。

 重石が突然、胸の内に降りてきたようだった。そう感じた。痛い、という表現とは違う。もっと別の、形容し難い感情が胸の内を中心として身体中にゆっくりと伝播していった。

 すぐにでも真央の指定した場所に向かおう、そんな想像が頭のなかを過ぎった。だが真央はそれを望んでいないはずだ。

 部屋に戻り、真央の指定した時間が来るのをぼんやりと待った。真央がいないとなにもすることがなかった。顔を洗って歯を磨いた。髭を剃った。もう一度顔を洗った。小便を済ませた。髪を整えた。時計を見る。時間はちっとも経っていない。

 部屋のなかを見渡してみた。自分の持ち物以外に、真央の服や、真央のために買った絵の具とスケッチブックがあった。

 見てはいけないと言われていたが、ついスケッチブックに手を伸ばしてしまう。駄目と言われると余計に気になってしまうのは、どうやら本当のようだった。冊子のページの、半分くらいの場所に指を当てて開いた。真央はどんな絵を描いたのだろう、そう思ってわくわくしていた。が、開いてみると白紙だった。まだここまで描けていないようだった。そこからはじめの方へとページをパラパラと捲っていった。白い色しか見ないまま、スケッチブックは終わった。驚き、一ページ目を開いた。白紙。なにも描かれていないし、なにかを描こうとしていた跡さえない。一ページ一ページ丁寧に捲っていった。どのページも白紙のままだった。スケッチブックは使われていなかった。

 じゃあ、眠っているあいだやバイトに行っているあいだ、なにをしていたのだろう。訳がわからなくなった。寝転ぶ。勢いをつけすぎて頭を床にぶつけた。跳ね起きる。

 頭を抑えながらテーブルの上に置いたままの、真央からの置手紙をもう一度読んだ。


誕生日おめでとう!

今日はなんの日だか覚えていますか。

もちろん君の誕生日だということもあるけれど、もうひとつあったのです。

私たちはこの日にある約束をしました。

一年も経ったから忘れちゃったかな。

約束の時間に、約束した場所で待っています。

頑張って思い出してください。

真央


          *


 武文は携帯電話でセンターに問い合わせ、真央からの返信がないことを確認してから時間を確認した。約束の時間である十時を五分過ぎていた。まあ、まだたったの五分だ、そう思った。

 ついに誕生日が、水族館へ向かう日がやってきた。遠足前日の子供のように眠れないということはなかったが、待ち望んでいた。なにしろ、久しぶりに会えるのだ。

 武文のいる遊歩道を挟むようにして桜が二列整列している。その一方を眺めた。春になれば満開の花で華やぐのだろうが、今は木の肌一色で統一されている。ひどく寂しいながめだった。

 それでも真央はこの景色が好きだ、と言っていた。花を精一杯咲かせる桜の木よりも、寒そうな裸の桜の木のほうが好きなのだ、と。理由も言っていたのだが、武文にはなんのことだかさっぱりわからなかった。そんなこの場所を集合場所に選んだ彼女は、この景色を見ながら待っていたい、そう言っていた。武文は自販機で買った紅茶を飲みながら立ち並ぶ木々をぼんやりと眺めていた。そうしていればこの景色を好きになれそうな気がした。

 ふたりきりで会話を交わしてから一週間以上が経過していた。あれから毎日携帯電話を活用した。一日のあいだに誰かと五通以上もメールのやりとりをしたのははじめてのことだったし、十分以上も電話を続けたのもはじめてのことだった。携帯電話の電池が消費の激しいものだということを知らなかった。毎日充電をする携帯を見ながら、壊れてしまったのか、と首をひねっていた。

 本当に大丈夫かな、真央は電話でそう言っていた。もうすこしで受験なのに遊んで大丈夫なのかな。彼女は大学を推薦で受かっていた。武文には一般受験が残っている。……だが受験などどうでもよかった。

 武文の誕生日、その日に遊びにいこう、そう言い出したのは真央の方だった。武文は喜び、それを快く承諾した。まだあの日から会っていなかった。とにかく会いたかった。だから、誘いを否定する文句など一言も浮かばなかった。

 武文はもう一度携帯電話でメールの問い合わせをした。「センターに問い合わせています」ディスプレイにそう表示された。メールがくれば携帯電話は振動する。

 これからふたりで水族館に向かう。真央が楽しみにしていた水族館。それが今日、実現するのだ。行きたい場所を訊ねられ、特にないと答えてしまうと、真央は、じゃあ水族館に行こう、と言った。マンボウが見たい、そうしきりに言っていた。それを思い出した彼の頬は自然とゆるんだ。どうしてマンボウが見たいのかわからないが、見たいというのならば何度でも見せてやりたかった。他にもぺペロンチーノが好きだということを真央が言った。もっと、真央のことを知りたい。それと同じように自分のことも知ってほしい。

 携帯電話は振動しなかった。武文はそれをポケットにしまい、自販機で買ったばかりの紅茶を口に含んだ。甘すぎるが、朝のぼんやりとした頭には丁度良かった。

 きっと朝寝坊でもしたんだろう、まあしばらく待ってみるのもいいかもな、そんなことを思いながらふたたび桜木に目をやった。

 真央が寝惚け眼で携帯電話を見、時計を見、慌てだす様を思い描いた。そうしていると微笑ましい気持ちになった。

 真央が交通事故にあったということを聞いたのは、次の朝だった。


          *


 地元の駅を降りた武文は、一年まえの自分を思い返していた。自分の誕生日、真央の命日。真央はもうすぐ消えてしまうのではないか、思い返しているうちにそんな想像が頭のなかを過ぎった。今日は真央の命日なのだ。しかしそんな懸念など確信はないのだから意味はない。……確信はないのだが、不安を拭い去ることはできなかった。突然約束の日と称して、真央が去年のデートを思い出させた。どうしても意味がないものだとは思えなかった。

 消えてしまうまえに、約束を果たしたい。

 真央がそう考えているとしか思えない。

 不安を拭い去れないままに、通い詰めた桜並木に到着してしまった。真央はベンチに座っていた。再会したときと同じ格好だった。グレーのコート。たぶん、その下にはタートルネックとフレアスカートだろう。

 一年前の、真央からのプレゼントはコートのポケットに入れて持ってきた。手を繋いだ、表情のある黒と薄紅色の缶。真央に問い正すことはしないが、所持していたかった。

「待たせてごめん」武文は言った。十時を過ぎていた。自分の言葉に思っていたよりも力が入っていて、驚いた。

「うん」と真央が応えた。

「なにか飲み物買ってくるよ。なにがいい?」

 武文は言った。

「紅茶を飲みたい」

「コーヒーじゃなくて?」

「うん、自販機のは甘すぎるから」ベンチを摩りながら、真央は言った。「カラオケのとき覚えてる? あのときも紅茶を飲んでた」

「そうだった」武文はそう言ってから自動販売機に向かった。自販機の明かりは点いていた。どうやら直したらしい。真央のための紅茶と、自分のためにコーヒーを買った。

 カラオケ。思い出話。真央は待っているあいだに過去のことを思い返していたのかもしれない。――いや、過去を思い返していたのは待っているあいだだけではなかっただろう。

「なんで紅茶じゃないの」戻ってきた武文が真央に紅茶を渡すと、そう言われた。

 真央の手のなかにある缶を指差す。「紅茶」

「違う、あたしのじゃない」

 武文は、自分の持っている缶のことについて言っているのだと気付いた。

「なんでもないときにしよう」と、真央が言った。

「え?」武文は驚き、真央の顔を見た。懐かしい言葉だった。

「あたしが君を、なんでもないときにしよう」

 真央はそう言い、武文と自分の缶を交換した。決心しなければならない、武文はその瞬間に、ガンと頭を打ち付けられたかのように思い知った。真央はもう――。

 武文は紅茶を飲み、真央はコーヒーをすすった。ふたりとも、しばらくのあいだ静かにベンチに座っていた。


「ねえ」真央が微笑みながら言った。「いつから背中を丸めて歩くようになったの?」

 アーケードのある商店街を駅に向かって歩いていた。

「いつから、って言われてもなあ」同じ姿勢を長時間続けることが歩き方にも影響を与えるとするならば、桜並木にベンチができた半年前からだ。

「ねえ」と真央が言った。今度は笑っていなかった。「あたしの知らないタケフミクンがいるんだね」

 武文は何も言えなかった。

 しばらく無言で歩いた。

「ねえ」もう一度真央が言った。「あのね、あたし、桜並木で気付いたんだ」

「気付いた」自分が死んだということを、と武文はすぐに思い当たった。必死になって真央を探した、あの夜のことだ。

「うん。はじめは家に向かおうと思っていたんだけど、あの桜並木を歩いてたら、なんかね、見えたんだ。ちょうどベンチのとこ」

「見えた?」

「そう。君がずっと、あの場所で待ってたの」

 そう言って、ふふ、と笑った。悲しいはずの話なのに、真央は笑った。

 プレゼントの所在を確認するため、ポケットを探った。部屋のなかでじっと見つめていたので、色や形を簡単に頭のなかで思い描くことができた。離れることなどないように、ぎゅうと手を繋ぎあう人形。それは幸せそうな一対のカップルだった。すぐに手を外に出す。

 ポケットに手を突っこむことと、猫背で歩くことはセットになっている気になった。冷気に晒された手は、緊張したようにそっと真央の指に触れ、それから彼女の手を握った。駅について切符を買うときも握ったままだった。改札にさしかかったときは、身体をひねったり腕を伸ばしたりして、笑いながら、手を繋いだまま通った。珍しく混んだ車内では真央を座らせ、そのまえに武文が立つ、というかたちであったがそれでも手を繋いだままでいた。そのあいだずっと、猫背にならないように気を張っていた。一年という空白を埋め尽くしてしまいたかった。

 水族館の最寄りの駅に着くと、ふたりのあいだにはうら寂しい沈黙などやってこなかった。焼きたてのパンのような、あたたかく穏やかな会話をふたりは紡いでいった。

「さあ、マンボウだ」真央は子供のようにはしゃいでいた。

「そんなに見たかったのか?」苦笑した。

「夢にまで見たんだから」

「文字通り?」

「そう。君と一緒にマンボウを見ているシーン。それに、まだ実物を見たことないんだ」

「へえ。でも、そんな大したヤツじゃないと思うんだけどなあ」

「なに言ってるの」真央は言った。「アイツはすごいんだよ」

「そうなんだ」そう返事をしたがよくわからなかった。頭のなかにマンボウのとぼけた顔を思い浮かべてみる。やはりよくわからない。

「そうなの」

「そっか」

 こんな会話をずっと続けていたかった。


 水族館に着いたふたりは様々な種類の魚や動物たちを見てまわった。気に入った魚がいれば一時間でも二時間でもその場にいることができた。自分の姿かたちを周囲の風景に溶かして隠れている魚たちのコーナーでは、集まっていた子供たちが飽きてしまっても、見つかるまで、じっと探し続けた。

 イルカのコーナーまで辿り着いた。大きな水槽とは別の場所に、小さな丸いガラスがあった。壁のなかで区切られていて、そこからイルカを覗くことができた。イルカもたまに、向こう側から覗いてくる。そのガラスをとんとんと指で突いていると、興味を持ったイルカがやってくる。突然大きな音を出して驚かす。そんなことをしていたら真央に叱られた。

 小さな、備え付けられたカフェで昼食を摂った。すでに陽が傾きはじめている時間で、ひどくおそい昼食となった。ほら、これが本当のぺペロンチーノ、ふたりで頼んだパスタは、武文がつくって見せたそれとは異なるものだった。真央が一口食べ、残りをすべて武文が食べた。味もずいぶんと違った。同じものを作れるとは思えない。それにもう、二度と作ることはないだろうとわかっていた。

 イルカのショーは公演していなかった。昼食を摂っているあいだに終わってしまったようだった。今日最後の公演が閉館まえに一度だけあったが、話し合った末、ふたりともそれほど見たいわけではないので、巡回コースから外すことになった。

 オットセイの水槽に辿り着いた。閉館が近づいているからか、トレーナーが水槽を洗っていた。その姿を観察しながら、武文がトレーナー役を、真央がオットセイ役の台詞を思いつきで、勝手に言い合いながら楽しんだりもした。

 いつまで洗っているんですか遅いですよまったくもう、うるさいなあ、他のひとたちはもっとテキパキやってくれますよ、まだ慣れてないんだよ、何年ここで働いているんですかまったく、ホントにうるせえな今日はエサやんねえぞ、そんなこと言ったってどうせくれるんでしょ、なんでだよ、だって私が死んでいなくなったら貴方は困るでしょう?――。

 掃除の最中の、その水槽をじっくりと眺めているのは武文と真央以外にひとりもいなかった。


 スピーカーが特有のさみしそうな曲を流しながら閉館の放送を告げていたときだった。

「ほら、マンボウ」真央が巨大な水槽を指さして言った。そこにはのんびりと、水のなかを漂う巨躯きょくが三尾いた。水槽のなかにいるくせに、まるで何者にも囚われていないかのように優雅に漂っている。まるでなにも気にしていないようだった。すくなくとも、武文の目にはそう映った。生きているときももちろんそうだが、死ぬときものんびりとゆったりと、なんにも気にせずに動かなくなっていくのだろう。暖流でしか生きられないのに、ぷかぷかと浮かんでいるあいだに寒流に流され、寒さで死んでしまうこともあるらしい。きっと、どうでもいいのだ。生きるだの死ぬだの、誕生日だの命日だの、コーヒーだの紅茶だのと、そんなこともなんでもまるっきり含めて、どうでもいいんだ。マンボウが偉大な存在に見えた。

「本当だ、マンボウは偉い」と言った。なぜか胸が熱くなっていた。

 真央がマンボウに向けて駆け出そうとしたそのとき、武文がその手首をつかんだ。真央が驚いた顔をして武文を見つめた。

「真央」と武文は言った。「言いたいことがあるんだ」今しかなかった。

 言いたいことがあるんだ、今更そんなことを口にしても意味がないことのような気もした。だが、言わなければならなかった。口を開ける。

「俺は」

 そう言った。

「あたし――藤本真央はタケフミクンのことが好きです」

 真央が、武文に手首を掴まれたまま真摯な顔で言った。

 思わず吹き出した。先に言われた。こちらから声をかけて、先に言われた。

 真央ははにかんだ笑みを浮かべていた。顔が赤い。追い討ちをかけてやる、そんな悪戯心がやってきた。

「相田武文は藤本真央のことが好きです」

 真顔になり、そう言った。あれやこれやと、どんな言葉を使うか悩んだが、結局ストレートな言葉を口にした。

 瞬間、ぶわぁっ、と赤面していくのがわかった。あれ? と思う。どうしたんだ? からかうためではないが、真央の恥ずかしそうな表情をもっと見たくて言ったはずなのに。……もとより、それは確かに言うはずの言葉ではあったのだが。

「タケフミクン、キミ、真っ赤」と真央が言った。

「ひとのこと言えるのかよ」そう言い返した。

 ふたりしてうつむいた。だがそれは数秒のことで、ふたりともすぐに顔を上げ、へへ、と笑いあった。

 ふたりは水槽に近づいた。真央が武文の手をとった。あたたかく小さな手。武文も握り返す。ふと、握り返したその手に違和感を覚えた。武文の手と真央の手とのあいだに、なにかちいさな小物があった。しかし真央がなにも言わないので武文も黙っていた。空いた手は、コートのポケットに突っ込んだ。一年前の真央からのプレゼントを手で確かめる。それは確かにそこにあった。色も形も、やはり思い描けた。手を繋ぎあう、ふたつの表情ある缶。

 手を繋いでマンボウに見入った。

「でっかいねえ」

「ああ、でっかいな」

「ぬぼぉーっとしているね」

「ぼけぇーっともしている」

「どうやって泳いでいるんだろうね」

「漂ってるだけに見えるな」

「どうでもいいんだろうねえ」

「どうでもいいんだろうな」

「すごいなあ」

「ああ、すごいな」

「でっかいねえ」

「ああ、でっかいな」

「ねえ、タケフミクン」

「ん?」

「……でっかいねえ」

「ああ、でっかいなあ」

 それきり、しばらくのあいだ沈黙が続いた。

 こぽこぽと、水槽のなかからマンボウのえら呼吸が聞こえてきそうだった。背後で子供がなにか叫びながら駆けていったようだった。その後、親が追いかけていった。周囲の、ありとあらゆる水槽のなかの生き物たちに見つめられているように、武文は感じた。雪の降った真っ白い街のように、しんとした静寂がそこにあった。街はいつまでも静寂を守り続けている。

「どうでもいいんだろうなあ」もう一度言った。横を見たくなくて、手にあったぬくもりがなくなったことに気付きたくなくて、彼を映すガラスの世界からも消えたものを見たくなくて、じっとマンボウを見続けていた。

 片手にはいま、真央の小さな手が残したぬくもりと小物の感触だけ。もう片方の手には、ポケットのなかのプレゼントの感触だけ。

 マンボウは水のなかを優雅にゆったりと漂っている。武文はポケットのなかのプレゼントをぎゅっと握り締めた。それをおそるおそる放し、手を、ポケットから出した。ガラスにひたと付ける。やあ、とそう言うために口を開いた。のどに力を入れる。舌と口を動かす。が、言葉が出てこない。のどの奥から変わりに別の、熱いものがこみ上げてきた。膝が折れた。床は冷たく、固い。目元が熱い。視界が潤んでぼやけはじめた。小さく愛しいぬくもりを求めて、それを握り締めていたはずの手を見た。黒と薄紅の色が目に入った。ふたつの色は、どうやら手を繋いでいるようだった。表情もあるようだった。嗚咽が漏れそうになる。腰が折れ、背中が丸まり、両手が床に落ちた。二組の、幸せそうに手を繋ぎあった人形が床に転がった。息をのみ、嗚咽が出るのを我慢した。だって、格好悪いじゃないか。こんな姿見せられない。

「や」両手を床につけたまま言葉をふりしぼった。「……やあ」

 何度も何度も胸の奥から熱いものがこみあげてくる。それを必死に抑えようとした。

 だが無駄だった。

 ふたたび閉館の放送が流れた。


                   了


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